13
薬の助けを借りた弓子は、20時間以上眠り続けた。目覚めた時は、穏やかな気持ちで天井を見上げることができた。
ずっと張りつめてきた神経は、伸びきったゴムひものように疲弊していたようだ。自分がどれだけ疲れていたかを、思い知らされた。矢継ぎ早に襲いかかってきた困難や恐怖でぼろぼろにされた気持ちが、少しは修復できたのだと思う。精神の修復が終われば、そこには新たな活力が流れ始める。人には本来、壁を乗り越える柔軟な強さがあるのだ。恐怖にも、慣れる。恐怖をねじ伏せることも、不可能ではない。
弓子は、ふと思った。
――わたし、もう大丈夫かもしれない……
全てを思い出す。
現実だとは思えないほど妖艶に輝く、里奈の死体。死体を目にしながら語った、高志の情熱。高志は、里奈を再生すると言い切った。弓子も、里奈の再生を願った。
心から。
そして、受け止めた。
里奈はもういない。生きている、里奈は。
自分は逃げられない。死ぬことも許されない。唯一、里奈の解剖を拒否すれば、死に逃げ込むことができるかもしれない。だが、拒否すれば、里奈を再生できる可能性が激減する。高志は先鋭的なクリエーターだからこそ、有能なオペレーターにはなれない。自分たちは、チームなのだ。
里奈をこのまま腐らせる――それはだけは、絶対に許せない。里奈には、復活する権利がある。ネットで生き続ける魂として、人々の称賛を浴びる価値がある。
きっと里奈も、それを望んでいる。
高志なら、里奈の願いを叶えられる。
自分が強くなれば、高志を支えられる。
ベッドを出て、身支度を整えた。カップラーメンで腹を満たす。悪寒はない。食べたものがしっかり体に染み渡っていくような、喜びを感じた。もう、食事におびえることもなさそうだ。
ベッドサイドのテーブルには、新しいMAYAの解説書が何種類か置いてあった。弓子は難解で分厚い解説書を手に取った。これまでの入門書とは違う。無駄な飾りや記述の代わりに、細かい文字の文章と数式で埋め尽くされている。専門家向けの深い内容が詰め込まれているのだ。高志が用意させたものだろう。パートナーとして期待されていることが、嬉しい。
ランダムに、ぱらぱらとめくってみる。書いてあることのすべてが理解できる訳ではないが、気になるページにじっくりと目を通してみる。この種の解説書には慣れている。フォトショップもイラストレーターも、そうやって理解を深めてきた。理解できないことは怖くない。理解できないまま何度も繰り返し読むうちに、ある時、天啓のように意味が閃く――そんな瞬間を幾度となく体験してきたからだ。
もしかしたら、解剖と再生も、そういうものかもしれない。最初は神経と胃袋に衝撃を与える。吐き気をこらえるのが精一杯だ。だが、心の拒否反応にもいずれは慣れる。その境界を越えれば、天啓が訪れるのかもしれない。〝競技〟で、人間の精密さに驚嘆したように。
猟奇的な犯罪を強要されていることは事実だ。だが、被害者だと考えれば受け身になる。心が強ばる。できることも、できなくなる。感じるべきものも、受け取れなくなる。今までの弓子はそうだった。
反面、里奈を再生するためなら、少しでも良いデータを残したいと思う。より本物に近い、世界に誇れる里奈を生み出したいと願う。高志は、そうやって進んでいる。
弓子も、高志を見習いたかった。高志の背中を追って走りたかった。今は、そのためなら何でも学べる。学んで、高志を支えたい。高志が駆使する3Dのテクノロジーを吸収し、生かしたい。これまでもMAYAには触れてきたが、それは高志のプラグインのボタンやスライダの操作に限られていた。高志が敷いた線路に列車を走らせただけだ。ゼロから何かを創ることはできない。ソフトそのものへの理解が浅いことは、自分でも痛感している。
だから数時間を惜しんで、慌てて現場に復帰するつもりはなかった。2Dであれ3Dであれ、高度なソフトは巨大なジグソーパズルのようなものだ。大きなソフトに含まれる各部分は、複雑に絡み合って影響し合っている。いきなり全体像を把握することは不可能だ。概要は高志の説明でつかめていても、自分で操作することは別の問題なのだ。今しばらくは解説書に浸って、わずかでも理解を深めたい。ソフトの構造や操作の手がかりを、ひとつでも自分のものにしたい。どこか1カ所が理解できれば、そこを突破口にパズルのピースがつながっていくことを弓子は知っている。その数時間は、おそらく今後を方向付ける助走になる。
体は休められた。もう1回、普通の食事を取れば、過酷な作業に立ち向かう体力が戻る気がする。
気持ちも整理がついた。手術台を前にすれば、やはり拒否反応は起きるだろう。しかし今は、嫌悪感と戦う理由がある。泣いていればいいだけの被害者ではない。里奈のために立ち向かうのだ。
あとは、頭脳だ。高志のように精緻な自動化プログラムを組む能力はない。だが、ソフトが操作できれば、高志の作業時間を減らせる。高志がプログラムに時間を割ければ、全体の行程を早められる。あるいは精度を高められる。そのために、MAYAの基本だけは身につけておきたかった。
さらに数時間、弓子はMAYAの解説書を読み続けた。途中、印刷会社の事務所を真似た部屋でMacを起動し、疑問点を実地に試してみた。単純なモデリング、レンダリングを試みてみる。その度にこれまでの経験が結びつき、いくつかの発見を重ねていった。
そして10時間が過ぎた。
それだけで全てが理解できるほど、MAYAは単純なソフトではない。それでも、アニメーションの初歩ぐらいは理解できた。フォトショップやイラストレータの知識が、他のソフトにも応用できることが実感できた。快い疲労感があった。受け身になるだけではなく、積極的に学んでいく充実感があった。
弓子は独り言をはっきりと口に出した。
「今日は、これでよし」
自分自身を肯定しようという、宣言でもあった。
弓子はキッチンに立った。食材を見渡す。最も安直な結論に達した。
「今日はカレー」
手早く調理を済ませ、カレーを煮込み始める。炊飯を終わったジャーからご飯を皿に盛る。カレールーをかけたときには、腹が鳴るのが分かった。食べ始めると、さらに食が進んだ。2杯の皿を空にした自分に、自分が驚く。これまでどれだけ抑圧されてきたのか、実感できた瞬間だった。
だが、弓子はもう泣かなかった。
「片づけは明日。寝よう」
弓子はさらに10時間眠った。目覚めると、高志の分まで食事を作り、キッチンを片づけ、手術台への内線電話をかけた。
「食事にしませんか? そのあと、わたしも参加します」
高志は嬉しげな返事を返した。
「一休みしたかったところだ。僕の部屋で食べよう」
*
2時間後、2人は解剖室へ戻った。
厚いビニールのシートが外された手術台は、ベージュのホーロー引きの上面がむき出しになっている。台にはまだ、何も載せられていない。
高志が説明する。
「里奈さんはまだ凍結状態だ。写真整理は、厳しくて……」
食事をしながら、その状況は聞かされていた。
高志は弓子の復帰が遅れることを危ぶみ、自ら映像整理を進め始めたという。弓子が欠ければ、自分がやるしかないのだ。だが、ほんの入り口でしかないのに、すでに点数は膨大だ。画像の切り抜きやマッピングデータの制作はある程度自動化できるが、生画像の整理や選別には手作業が必要で、内容を判別しながら細かく分類するセンスが必須になる。分ける目的は、瞬時に、自由に、必要なデータを取り出すことにある。その方法が身に付いていない者が分類すれば、逆に取り出しを混乱させる。
分類には、脳の個性が大きな影響を与える。向き不向きが明確に現れる分野だ。
事実、高志は混乱の極みにあった。ギブアップ間近だったのだ。
「わたしの仕事ですから」
「それからひとつ、追加されたことがある」
高志は天井の角を指さした。ムービーカメラが固定されている。カメラは、死角ができないように八か所に取り付けられている。
「撮影するんですか?」
「実は、エンバルミングの時から取り付けてあった。〝天の声〟の指示だ。神の再生に備えて、これからは全部を記録しろと言ってきた。倉庫にあったムービーカメラだ。監視カメラでは解像度不足だそうだ」
弓子が溜息を漏らす。しかし、どうせ始めから監視されていたのだから、カメラが増えたところで変わりはない。
「もろに〝見張られてる〟って感じですよね……」
高志は肩をすくめた。
「慣れるだろう。ハードディスクの交換は僕がやるから、君は無視してていい」
「はい」
弓子はホーローの天版にうっすらと映る自分の顔を見つめた。板の縁にはわずかに高い段が付いている。
――血が床に流れ出さないようになっているんだ……。
台の下の棚には、プラスティック製のカゴが3つ並べられている。高志が準備したものだ。並べ方が雑然としていた。
1つには冷凍保存用の袋が入っている。〝腕〟の時とは違い、大型の袋も含まれていた。今後は臓器が大型化するからだろう。2つ目のカゴには、ペーパタオルが詰め込まれている。その上に、使い捨てゴム手袋の箱とマスク、そして青い油性マーカーが載っている。
最後のカゴの中身は――手術用なのだろうが、やはり大工道具のようにしか見えなかった。細かい刃が付いた、40センチほどの長さのノコギリ。ラジオペンチとニッパーのようなもの。ベニヤ板が切れそうな大きなカッターナイフ。全て、同じ物が数本そろえられている。
高志が手袋とマスクを付け、壁際へ進み出た。横型の冷凍庫の傍らに立つ。
「里奈さんはここで眠っている。あれから、開いていないんだ。開けていいかい?」
里奈の墓だ。それを、暴こうとしている。
弓子は即座に答えた。
「はい」
覚悟はできている。できたつもりだ。ごくり、と生唾を呑む。
――きっと耐えられる……
高志は指示した。
「そっち側へ」
弓子もマスクと手袋をつけ、深呼吸しながら冷凍庫の反対側に立った。高志が扉をゆっくりと引く……。
弓子は、中をそっとのぞき込んだ。冷凍庫に溜まっていた強烈なアルコール臭が鼻に突き刺さる。弓子は、息をすることも忘れて見入った。
里奈は、脚を弓子に向けて仰向けに寝かされていた。全裸で、体毛はきれいに剃られていた。頭も陰部も、皮膚が露出している。それなのに、眠っているようにしか見えない。
直立不動の姿勢を取った、死体。
今も、里奈は美しい。いや、さらに美しさが際立っていた。人間の領域を越え、神か物の怪の妖艶さを漂わせている。うっすらと霜が付いた死体は、透き通るように白い。
高志は里奈の上にかがんで、頭の下に手を回した。立ちつくしたままの弓子を見上げる。
「足を持ってくれる?。台に乗せるから」
見とれていた弓子は我に返った。
「あ……はい」
慌てて里奈の足首の下に手を差し込む。
冷たい。ゴム手袋をしていても、指が凍りつきそうだ。弓子は一瞬、このまま指が凍りつき、離れないのではないかと恐れた。
高志が言った。
「上げるよ」
弓子も全身に力を込めた。
棒のように硬直した里奈の身体が、浮かび上がる。
弓子は思わずつぶやいた。
「軽い……」
高志は頭を台に乗せながらうなずく。
「モデルなんだろう? 太れない仕事だ」
弓子も足を台に下ろした。その瞬間、里奈の死体は台に当たってごつんと音を立てた。骨まで凍結しているのだろう。
弓子はいつかテレビで見た、焼津港の市場に並んだ冷凍マグロを思い浮かべた。遙か地球の反対側で釣り上げられ、運ばれてきた巨大な魚たち。丸太のようにクレーンで吊られ、電動ノコギリで切断されるマグロ――。
弓子は改めて里奈の全身を見つめた。その荘厳さは消えていない。そしてやはり、満足そうに微笑んでいる。最初に感じた印象は間違っていなかった。その笑顔は、弥勒菩薩のように思える。人間を超越している。
――どうして笑っていられるの……?
少なくとも、死に怯えた表情ではない。たとえガスのせいであれ、里奈は微笑みながら死ねた。
だから、美しいのだ。
「信じられない……凍っているのに……」
恐怖や嫌悪感は感じない。
「僕も、信じられない」
弓子は高志を見つめた。
「凍っていても解剖できるんですか?」
高志はうなずく。
「今日の仕事はパーティションを切ることだ。まず、主要な部分に分解する。頭、腕、脚、胴体に切り離す。それぞれの部分は、融ける前にまた冷凍する。そして部分ごとに解凍し、さらに細部の器官に分けて詳細なデータを収集する」
弓子が恐れたほどの動揺は襲ってこなかった。
「本当に里奈さんを切断するんですね……」
「でなければ、先に進めない」
「首も切り落すんですよね……」
弓子にはつらい現実だった。切らなければ再生できないと分かっていても、厳しい。かつての自分は、恋人の事故を見ただけで抱かれることができなくなった。外見は修復できていたにもかかわらず。
乗り越えたつもりではいるが、実際はその場に直面しなければ分からない。
里奈は死体だ。それでも、破壊することは、やはりつらい……。
高志は真っ直ぐ弓子を見つめて答えた。
「切る。君は大丈夫?」
「やります」
高志はうなずき、視線を手術台に移した。
「始めるよ」
高志は里奈の左側に回り、台の下のカゴからノコギリを取り出した。黙ってノコギリを里奈の二の腕――肩から10センチほど下に押し当てる。弓子は息を詰めて高志の手元を見守った。ちらりと、マスクの上の目を見る。
高志はじっとノコギリの先端を見つめ、動かない。
戻れない一線――。
弓子には分かった。高志もまた、戦っている。
全身が、ノコギリを引くことをを拒否している。腕はかすかに震え、マスクの奥の頬が引きつる。視線が凍りつき、吐き気をこらえているようにも感じられる。
それでも頭脳は、〝解体しろ〟と命じているのだ。
里奈を再生するために。KKKを満足させるために。そして、自分の家族に危害を加えさせないために。
高志には、できるのか……。
そして高志は、ノコギリを外して背中を伸ばした。長いため息を漏らす。里奈の皮膚には、傷が付いていない。
弓子もまた、息をそっと吐き出した。
そして、もう一度聞いた。
「大丈夫ですか?」
高志はうなずいた。
「やる。だが、この角度じゃ切りにくい。胴体には傷を付けたくない。君、頭の方にまわってくれないか」
弓子は言った。
「無理しなくても……」
高志は弓子を厳しくにらみつけた。
「進まなくちゃならないんだ。それが僕の役目だ」
弓子はうなずいて、頭の側に移動した。
高志はいったんノコギリを置き、里奈の肩を引いて横向きに回転させた。自分に顔を向けた里奈を見つめながら、弓子に命じる。
「頭を押さえて。身体がぐらつかないように、しっかり支えて」
弓子はじっと里奈を見下ろした。
産毛まで剃り上げられた頭。そこから真っ直ぐに伸びていく、細い身体。胸と尻の豊かなふくらみが、大きく優美なうねりを描いている。触れたくなかった。触れることが許されない、高貴な彫像のような気がした。
高志は再び命じた。
「ほら、押さえて」
弓子は高志を見つめた。
「本当にやるんですね」
「やる。家族を救う」
弓子は気付いた。吐き気がしない。脈も早くなっていない。
しっかりとうなずいた。
「わたしも、覚悟を決めます」
逃げることはできない。逃げることなど、望んでいない。
弓子はその場に膝をついた。両腕の肘を、ホーローの台に乗せる。ひんやりした感触が、白衣と厚手のトレーナーを通してしみ込んでくる。そのまま身体を前に倒し、肘で里奈の顔を挟んだ。鼻の突起が、ちょうど左腕に載る。
「これでどうですか?」
高志は里奈の肩に手を置いた。軽く前後に揺する。かすかにコトコト音がする。弓子はしっかり押さえていたつもりだったが、里奈は安定していない。
「もっと力を入れて」
弓子はさらに身を前に乗り出した。顔をわずかに傾け、頬のマスクを里奈の額に押しつける。マイナス20度の里奈は、氷よりも冷たい。吐き出した息が、里奈のまわりで白い霧に変わる。
弓子は右手で里奈の肩をつかみ、天板に肘を突いて支えた。冷たさが手のひらにしみ込む。左手は、乳房のふくらみに添えられた。弓子の手のひらに収まりきらない乳房は、大理石の像のように堅い。息は荒くなったが、それは力を入れているためだ。弓子は自分に、そう言い聞かせた。
弓子は全身に力を込めて里奈を押さえ、言った。
「これなら?」
弓子は上目づかいに高志を見上げた。はっきりと目を覗くことができる。高志は再び里奈を揺すった。今度はぐらつかない。
高志が弓子を見つめてうなずく。
「先に進む」
「はい」
高志は再び里奈の腕にノコギリを当てた。左手で里奈の肘を押さえる。そして、今度はためらうことなくノコギリを引いた。
まるで、氷を切るようだった。シャー、シャーというような、かき氷を削るような音。高志が腕を引くたびに、ノコギリは腕に食い込んでいく。そしてノコギリの刃先から、真っ赤な粉がわずかに散る。不意にアルコール臭が強まる。同時に、切りくずが落ちなくなった。太い血管から凍っていないアルコールが滲み出たらしい。
高志は、歯を食いしばっていた。目は、涙で潤んでいるように見える。
ノコギリの動きが遅くなる。音も重く変わる。
高志がつぶやいた。
「骨だ。もっと強く押さえて」
弓子はさらに全身に力を込めた。里奈の身体がぐらぐらと揺れそうになるのを、必死に抑え込む。ノコギリの歯を見た。刃に付着した赤い粉が、ピンクに変わっている。白い骨の切りくずが混じったためだ。
高志の目から、一筋の涙が落ちる。つらいのは同じなのだ。必死に耐えているのだ。
と、再び里奈の揺れは小さくなった。骨を切断したらしい。後は早かった。高志がさらに何度かノコギリを往復させると、里奈の右腕は胴体から離れた。
高志は重苦しいため息をもらした。左手でしっかり握りしめていた里奈の腕を、台におろす。
弓子からは、腕の切断面がはっきりと見えた。アルコール臭が一層強まった気がする。
赤と白の同心円。円の中心の白い輪――骨の中にもさらにほんのり赤い部分があった。骨髄だ。その周囲を赤い筋肉が取り巻き、所々に真っ白な脂肪が見える。科学雑誌のイラストさながらの、鮮やかな切り口だった。まるで、プラスティック製の模型のように。
しかし、それは里奈の一部だ。その証拠に、ホーローの天版に飛び散った赤い粉は、融け始めている。融け、集まり、いくつかの水玉を作っている。多くはアルコールだとはいえ、血液が混じっている。里奈が生きた証だ。
ぼんやりと腕を見つめる弓子に、高志が命じる。
「急ごう」
高志は弓子の身体を反対に回して、左腕を上にした。弓子も、膝をついたままの姿勢で力を貸す。実際は、力など出していなかった。
弓子は始めて気づいた。足から力が抜け、立つことすらできなかったのだ。それでも、拒絶反応は襲ってこない。
気持ちは折れていない。
「待って……」
高志が自嘲的に笑う。張っていた気持ちがわずかに緩んだのだ。
「だよな。ちょっと休もう」
「少しだけ……」
弓子は呼吸を整え、もう一度足に力を入れてみた。今度は床を感じる。立ち上がれそうだ。
「無理しないで」
「いえ。立てます」
弓子は手術台を掴んで立ち上がった。
高志は弓子の左腕を指差した。
「でも、それ」
里奈の切りくずが腕にもかかっていたのだ。融けて、白衣にかすかな赤いしみを作っている。
弓子は腕を見て、息を止めた。自分に言い聞かせる。
――女は血に慣れてるはずよ……
きっぱりと言った。
「切断が終わってから着替えます」
「大丈夫?」
「続けます」
高志は弓子の真剣なまなざしを確認すると、うなずいた。作業を再開する。
弓子が再び里奈を押さえると、高志は左腕も切断した。2本の腕を切り終わると、棚から厚手のビニールパックを取り出した。1本ずつパックに入れると、中の空気を抜くようにしてジッパーを閉じる。それぞれに油性マーカーで、〝右腕〟〝左腕〟と記す。そして、まだ空の縦型冷凍庫に納めた。
弓子はただ黙って、高志の作業を見守った。
高志は何も言わず、黙々と仕事を続ける。里奈をうつぶせにすると、弓子に指示した。
「つらいけど、次へ進むよ」
弓子はうなずき、深く息を吸う。耐えている。自分は、なんとか耐えている。
「次はどうします?」
「僕の正面へ。背中を押さえていてほしい。脚を切る」
弓子は歩き出そうとした。その瞬間、腰が砕けて倒れそうになる。台に肘を突いて、辛うじて身体を支えた。
体と心の、正直な反応だ。
高志がじっと弓子を見下ろす。
「腰も抜けるよな……でも、切断だけは一気に済ませたい。続けられないなら、休んでいていいよ。1人で続けてみる」
1人で簡単にできる作業ではないことは分かりきっている。
弓子は答えた。
「いいえ。やります」
必死に立ち上がりながら、弓子は自分に言い聞かせていた。
――やらなくちゃ……みんなのために、やらなくちゃ……。
弓子は、高志の正面に立った。里奈の背中に両手をつく。体重をかけて抑えるために背伸びをする。両腕の切断面が見えた。両腕を失った弓子は、デパートの倉庫に投棄されたマネキンのように見える。それはすでに、単なる物体だ。
弓子は始めて胸のむかつきを感じた。わずかに目を背ける。
――里奈さんが、消えていく……。
高志は無言で、脚の切断を開始した。
ふっくらと盛り上がった里奈の尻。そこから5センチほど下にノコギリを当てる。ほんのわずかなためらいも見せずに、高志は左脚を切り始めた。太いロウソクでも切っているように、刃先がぐんぐん死体に食い込んでいく。
高志の横顔に目を移した。その目からは、表情が消えていた。もう涙を滲ませてもいない。まるで、素材を吟味する料理人の目だ。ゆっくりと、しかし力強く確実に引かれるノコギリから、わずかに赤い粉が落ちる。高志の白衣にも、シミが増えていった。ノコギリが右足にも食い込んでいく。
弓子は自分の白衣を見下ろした。気にならない訳ではないのだ。増えたのは、腹の辺りの薄く小さなシミが2つだけ。ほっとため息をもらした瞬間、肘が目に入った。真っ赤に染まっている。倒れかけて天板で支えた時に付いたらしい。血にしか見えない濃い色だった。
喉元に吐き気がふくれあがる。それを必死に呑み下した。ひたすら耐える。
深淵は、まだそこにある。大きな口を開いて笑っている。気を抜けば、吸い込まれる。油断はできないのだ。
里奈の両足は、ほとんど同時に切り離された。
高志が弓子に顔を向けた。じっと見つめる。
「顔が青い。ソファーで寝ていなさい」
眼鏡と大きなマスクで覆われていても、弓子の顔色は隠せなかったのだ。
弓子は答えた。
「いいえ」
「我慢しなくても……」
「なぜかしら……目を離したくないんです」
高志はわずかに考えてからうなずいた。
「好きにしなさい。でも、無理はしないで。先は長い」
言いながら高志は、2本の脚をパックに詰め、抱えた。そのまま台を回って、冷凍庫へ向かう。高志は里奈の脚を、最初に全身を凍らせた横型冷凍庫に戻した。
高志は、まだ里奈の背中を押さえたままの弓子の横に戻った。
「次は首だ。これで最後だ。後は1人でできる」
しかし弓子はその場を動かなかった。
「手伝います」
「好きなように。そのまま押さえていてくれればいい。こっちは見ない方がいいかもしれない」
高志は、弓子の横に回った。里奈の後頭部をそっと押さえ、血まみれになったノコギリを首に当てる。
弓子はつぶやいた。
「後ろから切るんですか?」
言ってしまってから、弓子は自分の言葉の意味を考えた。意識の底から、不意に浮かび上がった一言だったのだ。
高志は弓子を見た。
「いけない?」
弓子が自分の気持ちを考えてみる。
「……わたしは、里奈さんのためだと思って、耐えてます。だから、堂々と顔を見てあげたいな、って……」
高志はしばらく考えてから、うなずく。
「そうかもしれない。それが礼儀かも。身体を回して」
腕と脚を失った里奈の身体は、やはり壊れたマネキンにしか見えない。高志は再び正面に回った。何者かに挑むような厳しい目つきで里奈の身体を回転させる。
しかし、仰向けになった里奈は、もうマネキンには思えなかった。穏やかに微笑む唇は、今でも神々しい。
弓子はなぜか、自分の呼吸が落ち着くのを感じた。単なる物体ではないのだ。里奈の微笑みには、〝神〟が宿っている。
堅い乳房の下を、両手で押さえる。
「切ってください」
高志はじっと里奈の顔を見下ろしていた。ぽつりと、涙が落ちた。
弓子の言葉など聞いていないようだった。
「きれいだな……」
弓子もうなずく。
「すごく、きれい」
高志は背筋を伸ばした。
「切る」
高志は左手を乳房の間に置いた。ノコギリをあごの下に当てる。そしてためらうことなく、一気にノコギリを引き始める。そのスピードは、脚を切断した時より数段速かった。
弓子は高志の横顔を見た。高志は、堅く目をつぶっていた。
弓子は見てはいけないものを見たように、目をそらした。
ごとん、と、首が転がる音がした。
高志はまだノコギリを動かしている。ホーローの天板をひっかき、耳障りな音をたてているだけのノコギリ――。
弓子は里奈から手を離した。天板に転がった首が、こっちに向いている。弓子は手術台を回って、そっと高志の肩に置いた。
「切れました」
高志は手を止めた。堅く目をつぶったまま、肩を震わせている。
「見られなかった……やはり、つらい……」そして、付け加えた。「1人にしてほしい……」
高志とて人間だ。死体をバラバラに切ることに抵抗がないはずがない。
「でも、まだ――」
「後は僕がやる。今日は、もう部屋に戻って。本当に、ありがとう……」
弓子はうなずいて、高志から離れた。血に染まった白衣を脱ぐと、トレーナーの上にカーディガンを羽織る。
弓子は部屋を出る時に、高志が部屋の隅に吐く音を聞いた。だが、振り返ってその姿を見ることはできなかった。
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