12

 弓子は、自分のベッドで目覚めた。

 動けない。

 拘束されているわけではなかったが、動けない。ぼんやりと、白い天井を見つめる。眼鏡は外されていた。焦点が合わない。

 誰かが、毛布をかけたようだった。寒くはない。それでも、体が震えている。

 眠る前のことを思い出した。錯乱していたが、記憶ははっきり残っている。自分が命じられた内容も覚えている。高志が止めに入ったことも覚えている。

 だが、逆らった。逆らわなければガスは使われなかった。

 体に痛みがある。腕が痺れ、指先がうずく。里奈を助けようとしたのだ。必死だった。そして、我を失った。今、里奈がどんな状態でいるかは分からない。

 生きているかどうかも分からない。

 唐突に、高志の叫び声が脳裏によみがえる。

――やめろ! 本当に死ぬぞ!

 責任が自分にあることは分かる。逃げられない事実が、心に重くのしかかる。

 弓子は動けないまま、涙をにじませた。

――全部、わたしのせい……

〝天の声〟がした。

『起きたようだな』

 いつものドナルドダックのような声だ。なぜか、これまでとは話している人間が違うように感じた。日本語が使えるKKKは、1人ではないんだな……と、他人事のようにぼんやり考える。自分が大勢の〝敵〟に囲まれ、逃げ場を奪われ、心を踏みにじられていることに改めて気がつく。

 あまりにも、無力だ。

〝天の声〟には答えなかった。ただ、動けずに涙を流し続ける。

『宮崎君を呼ぶ』

 数分後、ドアがノックされる。高志の声。

「入るよ」

 やはり、答えられなかった。

 勝手に部屋に入った高志は、ドレッサーの丸椅子をベッドサイドに運んで腰を下ろした。

「僕の方が早く意識が回復した。君に事実を伝えるように命じられた。分かる?」

 高志は、静かに涙を流し続ける弓子を見つめた。

 弓子も、顔だけは動かせた。高志に目を向け、かすかにうなずく。高志の表情は、ぼやけて読み取れない。高志が何を話そうとしているのか、予感していた。

「里奈さんが死んだ」

 弓子は硬くまぶたを閉じた。それでも涙が止まらない。目尻からこぼれ出す涙がはっきりと感じられた。

 弓子はか細い声で言った。

「わたしのせい……ですよね……」

 里奈が死んだと言われることが分かっていたような気がする。

 高志はじっと弓子を見つめたままだ。

「彼女には、生命維持のために高濃度の酸素が与えられていた。薬品で代謝を低く抑えられていたから、必要だったんだ。その、大事なホースが抜けた」

「……わたしが抜いたの……覚えています……」

 高志がうなずく。

「あのケースには隙間が多い。密閉することが目的じゃないからだ。だからガスがケースの中にも入った。代謝が落ちている時だから、致命傷になる。医師が蘇生を試みたが、手遅れだったそうだ。――それが、連中から聞かされた話だ」

「わたしが殺したんですよね……助けなくちゃいけなかったのに……わたしのせいで捕まったのに……落ち着けって言われたのに……」

 高志は小さなiPadを差し出した。弓子と視線を合わせないようにしているようだ。

「〝Part 4〟だ。君に見せろと言われた」

 そう言うと、ビデオを開始して弓子に手渡す。

 弓子はiPadを目に近づけた。指先の痛みが増す。だが、無視した。アクリルのベッドが置かれた部屋が写っている。天井の隅から取られた映像だ。ベッドの中には里奈がいる。まだ、生きている里奈。あの部屋、だ。そこに弓子と高志が現れる。

 そして、弓子が取り乱す……。

 吹き出すガスの中で、里奈が呼吸を止めるまでの一部始終が記録されていた。

 弓子は放心状態でiPadを見つめていた。目が離せない。映像が途切れると、ゆっくりまぶたを閉じる。目尻から、また1粒の涙が滲む。

「知ってます……全部、覚えてます……」

「見せろって……命令されたから……」

「分かってます……」

 しばらくすると、高志は言いづらそうに言葉を絞り出す。

「こんな時に話しにくいんだけど……」

 弓子は大きなため息をついてから、はっきりと高志に顔を向けた。

「わたしの責任です。何かあるなら、言ってください」

 高志にしては歯切れが悪い。

「僕の家族はまだ捕まったも同然だから……」

 弓子は、高志が里奈の死とは別の話を伝えるように命じられているのだと感づいた。それを口にするのをためらっている。弓子の精神状態を気遣っているらしい。

 弓子が先に話し出す。

「里奈さん……死んじゃったんですよね?」

「そうだ……」

「見ました? 死んだ里奈さん」

「見た……」

「きれいでした?」

「え……?」

「信じられないぐらいきれいな人だから。だって、モデルさんだから。死んでも、すごくきれいなんだろうなって……」

「この世のものとは思えないほど、美しい人だった」

 弓子はかすかに微笑んだ。

「やっぱり……」

 と、体の震えが大きなった。涙が一気にあふれる。

 弓子がベッドで上体を起こす。そして繭に閉じこもるように膝を抱え、顔を埋めて背中を振るわせた。

 高志は待っていた。弓子の嗚咽が収まるのを、じっとその場で待っていた。

 弓子が、膝を抱えて丸くなったままつぶやく。

「話すこと、まだあるんでしょう?」

「言いづらいけど……」

 弓子は顔も上げない。

「いいんです。わたしが殺しちゃったんだから……。わたしのせいだから……」

「命令されたんだ、あいつらから。言えって……」

「何を……? わたしなんか、もう要らないって? 殺してしまえって?」

「え?」

「こんなんじゃ、あなたを手伝えない。だったら必要ないって、さっき言ってたし。代わりだって、見つかるんでしょう?」

「そうじゃない」

「いいんです、殺されたって。わたしが里奈さんを殺したんだし。罰を受けるの、当たり前です」

「そうじゃない」

「殺してください。もう、終わりにして欲しい……」

 高志が意を決したように言う。

「君を現場に戻せと命じられた」

 弓子は膝から顔を離して、高志を見つめる。

「現場……?」

「神の再生」

 弓子がぼんやりつぶやく。

「そうですよね……まだ始まったばかりですものね……」

「選抜は終わった。僕らが勝ち残った。だから次は、演習だそうだ」

「演習?」

「神を再生する前に、人間1人を全て蘇らせろと言ってきた」

 高志はそう言って言葉を切った。弓子の反応をじっと待つ。

「人間1人……」

「実際に全身を再生できることが実証できなければ、神に手を触れることが許されない。解剖は一度きりだから、失敗できないんだ。神の再生が終わらなければ、僕らや家族の解放もない」

 弓子の返事からは、感情が消えていた。

「なんだ、そんなことなんだ……」

「大事なことだ。とても」

「できますよ、あなたなら。1人分、時間は余分にかかるけど……」

「奴ら、そのための死体を探していたらしい」

「死体……? ないんですか? 〝腕〟だって手に入れたのに」

「ここで見つけた」

 弓子が高志を見つめたままつぶやく。

「ここで、って……毒ガスで殺された人たち……?」

 高志の表情は、ぴくりとも動かない。

「彼らの死体は、本国に戻される。拉致を隠す偽装に必要らしい」

「それじゃあ……」

 高志は小さくうなずいた。

「里奈さんだ……」

 ようやく、高志が言い渋っていた理由が理解できた。遠回しに状況を説明したのは、その事実を告げるためだ。里奈の死体が、演習の〝素材〟なのだ。

 高志は弓子の目をじっと見つめる。狂気が現れないかどうかを見極めようとしている。そして、きっぱりと言った。

「奴ら、里奈さんを再生しろと言ってきた」

 弓子の意識が白く濁る。

「里奈さんを……?」

「そう、命じられた」

「うそ……里奈さんなら、いいの……?」

「女1人なら、姿を消してもごまかしやすい。奴らは、そう言った」

「でも……」

「それに、どうやら彼らの神は女性らしい」

「そんな……」

「命令されたんだ……」

「だって……再生って……解剖しなくちゃ……」

 高志が、またうなずく。

「解剖しろ、と命じられた」

「なのに、戻れって……?」

「そう言われた」

「わたしも……里奈さんを……?」

「僕のパートナーだから」

「わたしが……里奈さんを……」

 弓子はもう泣いていない。狂気も見当たらない。

 ただ過酷すぎる現実に、目の前を塞がれていた。気持ちが現実を認識できない。その命令の大きさを測りかねて、呆然と立ちすくんでいる。自分が引き金を引いて殺した友人を、今度は切り刻めというのだ。その試練が、受け入れられる大きさを超えているなら、自分自身が弾け飛ぶ。

 泣き叫ぶこともできない、精神の空白だった。そよ風に押されただけで谷底に落下する、崖っぷちだ。

 高志は椅子を立った。

「しばらく休ませろ、というのも命令だ。部屋を出ないで、じっとしていなさい。できれば、眠るように。このところ、きちんと寝ていなかったから」

 そしてドアを開ける。

 高志の背中に弓子が声をかける。

「眠れると思います?」

 それは、高志を責める口調ではなかった。むしろ、同情しているように聞こえる。

 戸口で止まった高志は振り返らずに応えた。

「眠れるさ……疲れているから。どうしてもだめなら、睡眠薬を持ってくる。1回分だけ、置いてあった」

 弓子の返事が戻るまで、間があった。

「死ねませんよね……1回分じゃ……」

「ごめん。僕は家族を救いたいんだ」

「分かってます。わたし、たぶん大丈夫ですから……たぶん……」

「僕は、作業を進めるように命じられている。何をやらせたいか、またiPadで指示してきた。〝Part 3〟だ」

「あなたは休めないんですね……」

「その方が楽だ……。起きられたら、来なさい。僕は手術台に張り付いている」

 弓子はうなずいた。

「行きます、きっと。ちょっとだけ、泣いたら……」

 高志は部屋を去った。すぐに、鍵がかかる音が聞こえた。

 弓子は、また丸くなった。


     *


 いつの間にか眠ったようだった。心は擦り切れている。体も疲弊している。逆らうことはできなかった。

 目が覚めた時に見たのは、また白い天井だった。涙はもう涸れていた。

――何時間経ったの……?

 光も射さない室内だから、時間を体感する方法はない。時計を見るのもおっくうだ。ここに連れてこられてから、すっかり時間の感覚を失っている。

――夢だったらいいのに……

 さっき天井を見上げてから起きたことが、何もかも夢なら……。

 だが、記憶は消せない。心の深層にまで焼き付いている。思い出したくない。だが、忘れることもできない。忘れようとすればするほど、掘り起こしてしまう。細部まで鮮明に蘇らせてしまう。たった1人の友人を、殺したのだ。

 自分が里奈に語った言葉を、今でもはっきりと覚えている。

『わたし、あなたのためなら何でもするから……』

 決して、その場限りの浮ついた言葉ではなかった。弓子は本心から、里奈の気持ちを軽くできるなら何でもしようと決めていた。自分を捨ててでも守りたい〝姉〟だった。重荷を分かち合う、分身だった。

 それなのに、過酷な過去と孤独に戦ってきた戦友を、自分の手で殺した。かけがえのない命を奪った。

 忘れられるわけがない。

 逃げられないのだ。逃げてはいけないのだ。

 忘れてしまうのは、自分の我がままだ。里奈にとって、むごすぎる。自分はずっと、この事実を抱えて生きていかなければならない。

――死ぬまで……

 弓子はベッドで起き上がった。衣服をざっと整える。

 ベッドから出ると、眼鏡を手に取ってドレッサーの前に座った。やっと時計を見た。まだ、3時間しか過ぎていない。緩慢な手つきで、乱れきった化粧を落とす。何度か、深いため息を繰り返す。爪の痛みに気づいた。割れて紫になった爪を短く切り、バンドエイドで指先を包む。

 そして、じっと鏡を見つめる。

――これが、わたし…… 

 27歳。家族はいない。恋人を死に追い込んで、人生を捨てた。夢も叶えられず、単調な仕事を一生続け、老いてゆくはずだった。心はすでに、老いている。それでいいのだ、と言い聞かせていた。自分には、底辺に住むだけの価値しかないのだと決めていた。だが、何者かに、理由も分からず拉致された。狂気じみた犯罪行為を強要され、自分自身が狂気の境目に追いやられた。そして、唯一の友人を殺してしまった。

 里奈のためなら何でもしたいと願っていたのに。

――どうして……?

 死んでゆく里奈と、言葉を交わしてさえいない。

 底辺には、まだ下があったのだ。ロープを踏み外し、真っ暗な深淵に吸い込まれていく自分……。

――これが、わたし…… 

 偽りのない、疲れ果てた自分なのだ。

 だが、他にできることがあったのだろうか……?

 こんな状況で正気でいられる人間が、どれだけいるのだろう?

 高志は確実に、その1人だ。だが、真似などできない。自分が取った行動なのに、理性では説明できない。高志の指示に従っていれば、誰も傷つかなかったかもしれない。だが、できなかった。錯乱し、他人の人生を奪った。それが、自分なのだ。

 逃れることができない、自分……。

 自分でも理解できない、自分……。

 狂気の縁に立たなければ、決してこの世に現れない自分だ。文哉の死は、狂気の影から逃げたために起きた。向かい合う勇気がなかったのだ。今は、その逃げ場所さえない。勇気など持てないまま、谷底に突き落とされた。そこで正体を現したものこそが、まぎれもなく、真実の自分だ。

――逃げても逃げなくても、人を殺してしまう……

 文哉の希望を奪った自分。里奈の笑顔を奪った自分。すまないと思う。心から謝っても、死んだ文哉や里奈を生き返らせることはできない。

 それができるなら、自分の命は要らないのに……。

 自分にできることはないのだろうか――と思う。こんな自分でも、誰かの役に立てることはないのだろうか。人を傷つけ、忘れることも死ぬことも許されず、ただ生きながらえていくのは過酷すぎる。

 文哉の事故は遥か過去のことだ。もはやできることはない。

 だが里奈は――死んだばかりに里奈には、何かできないのか……。

 自分には、答えは出せない。だが、出せる人間がいる。

――高志さんに会わなくちゃ……

 それが結論だった。これまで何度も高志に導かれて危機を乗り越えた。今、頼れる者は、高志だけだ。

 シャワーを浴びて服を替えた弓子は、手早く軽い化粧を整えた。いつの間にか、ドアの鍵も解錠されていた。弓子はおぼつかない足取りで廊下に出て、解剖室へ向かった。まだ高志はそこで作業を行っているはずだ。

 おそらく、そこには里奈もいる。手術台に横たえられた、里奈……。

 ドアを開ければ、里奈に会わなければならない。もう、逃げる場所はない。正気を失うことは許されない。

 弓子はドアノブを回した。

 予測した通りだった。手術台には、里奈がいた。全裸で、仰向けに寝かされていた。

 体の色もツヤも、死体だとは思えない美しさだった。痩せてはいるが、女らしい柔らかさは失っていない。透き通るような白い肌にはわずかにピンク色がさして、まるで体内から光っているようだ。耳にかかった黒髪は、少し乱れてはいるが妖艶に輝いている。穏やかに、微笑んでいるようにも見える。幸せな夢を見ながら眠っているように。軽く触れれば、今にも目を開けそうに思える。首から鎖骨へはなだらかな曲線を描き、豊かだが大きすぎない乳房へとつながっている。その乳房は、横たわっているにも関わらず、張りを失っていない。脚もまた、すらりと延びて非の打ち所がないカーブとバランスを保っていた。

 完璧な女性――画家や彫刻家なら、そう賞賛する。

 弓子は、見惚れていた。

 つぶっている目を、今にも開きそうに見える。だが、呼吸していない。呼吸を止めさせたのが自分だという事実が、改めて胸にのしかかる。

 だが、逃げ場はない。

 弓子は部屋に入ってそっとドアを閉じた。里奈の手前に、高志が背中を向けて立っている。

 高志はドアが閉じた音を聞いて、しばらくしてから振り返った。

「起きたんだね」

 弓子はうなずいた。

「本当にきれい……」

 高志がうなずく。

「生きているみたいだろう?」

 弓子が高志の隣に並んで立つ。里奈を見下ろす。

「なんでだろう。なんでこんなに、きれいなんだろう……。こんなにきれいなのに、なんで死んでるの……?」

「まるで、妖精だ。人は、こんなにも美しくなれるんだな……」

 弓子が言った。

「触ってもいいですか?」

 思わず口を突いた言葉だった。なぜか、里奈の肌に触れたいと強く願った。すでに、ゆっくりと手を伸ばしていた。

「構わない。これから、長い付き合いになる人だ」

 弓子の指先が、里奈の腹に乗った。軽く触れながら、そっと表面をさする。わずかに、柔らかさが残っている。細く、柔らかい産毛がかすかに感じられる。だが、体温はない。

「なんで……冷たいんだろう……?」

 弓子が涙をにじませた。

 高志が淡々と説明した。

「命令されて、血液とアルコールを入れ換え終わったところだ。エンバルミングって言う過程だ。話には聞いていたけど、実際にやったのは始めてだ。iPadに、詳しい手順が録画してあった」

 高志はiPadを掲げてみせた。裏側が見えたiPadには、〝Part 3〟の刻印が見える。

〝Part 1〟は、高志の治療方法だった。〝Part 2〟は腕の解剖の説明。〝Part 3〟が全身解剖の下準備の指示。そして、〝Part 4〟が里奈の死……。まるで、英会話の教材だ。この先どれだけの〝Part〟が強要されるのか、予測もできない。

 弓子は始めて気づいた。確かに周囲には強いアルコール臭が漂っている。

「入れ替えた、って……?」

 目を下へ移す。

 手術台の陰に、小指ほどの太さのシリコンチューブがとぐろを巻いていた。その先に、異常に大きな注射器が差し込まれている。赤い液体が入ったポリタンクが2つ、床に置いてあった。

「何に使うか分からなかった道具を、持ってこさせられた。その注射器、馬の治療なんかに使うらしい。少ない方のタンクの中身は、食紅を混ぜたアルコール。これを里奈さんの足から注射した」

「なぜそんなことを?」

「死体の保存のためだ。その辺は調べたことがあるんで、僕にも分かる。医学生なんかがやる解剖では、死体の処理に1ヶ月ほど時間をかける。ホルマリンとアルコールを使って下準備をするんだ。だが僕らにはそんな時間はない。奴らの〝神〟はすでにエンバルミングを終えて冷凍してあるので、里奈さんの死体には同じ方法を使えと言われた。それがこれだ」

 高志は里奈の脚の付け根を指差した。点滴を打ったような痕跡が見える

「太い針を静脈に刺して、下のチューブをつなげた。さらに動脈――正確には大腿動脈にも針を入れた」

 確かに、陰毛の反対側に傷がある。

「2カ所に針を刺して、ビニールテープで固定した。動脈から注射器でアルコールを打ち込むと、入れた分だけ静脈側から血液が溢れ出してくる。出た血を入れたのが、もう一方のポリタンクだ」

 ポリタンクの中は、里奈の血なのだ。赤いアルコールと入れ替えられた、里奈が生きていた証――。

 生命活動を支える血液は、もはや里奈の体に残っていない。死んだようには見えない里奈は、血液を抜かれることでその美しさを保っていられるらしい。

 弓子は冷静に質問していた。

「食紅って……なぜ色を付けるんですか?」

「組織の色を変えたくないからだと言っていた。僕も、そうしないと、内臓の正確な色がサンプリングできなくなると思う。これからは、〝腕〟の時にやったのと同じことが続く。組織に分けて、記録する。デジカメで組織表面の色や模様を撮影するんだ。だから、組織の変色は極力避けたい。医大では、人体の構造を見るのが目的だから、記録はスケッチ程度だろう。色にはあまり気を配らない。しかも授業に合わせて、何ヶ月も解剖を続けるそうだ。1つの死体を使って、ね。だから、長期間腐らないようにホルマリンを使って組織を固定する。だが、ホルマリンは異臭を発生するし、毒性も強い。それをアルコールと置き換える作業も欠かせない。大型の機材も必要だし、下準備に1ヶ月もかかるのはそのためだ。しかも、そうやって解剖しやすくした死体からは、組織の柔軟さが失われる。変色も激しい。だから、生きていた時の情報を得ることができない。奴らが命じてきた方法は単純だけど、ベストだと思う。里奈さんを美しいままで保存できる」

「里奈さんを、保存……?」

「奴らは、奴らの〝神〟をデータとして保存するためにこんな犯罪を犯している。里奈さんはその犠牲者だ。せめて、美しいままでこの世に残してやりたい。僕は、全力を尽くす」

 弓子が考えてもいなかった視点だった。

 里奈を生き返らせることは不可能だ。魔法は、作り話の中にしか存在しない。だが、サイバースペースになら、再生することができる。きっと、誰もが見惚れるに違いない。それほどのオーラを、里奈は死体になっても放っている。

 里奈は、モデルだった。見られることが仕事だった。無数のネット端末で称賛を浴びることは、里奈には喜びかもしれない。

「里奈さんはこの後どうなるんですか? 凍らせる?」

「その予定だ。奴らが神をそうやって保存している」

「凍ったら、その後は?」

「完全に凍結したら、各部分にパート分けする」

「パート分けって……? バラバラにするの?」

「そうだ」

 美しい里奈をバラバラにするのは、冒涜だと思った。だが、解剖を避けては再生できない。

「それも命じられたんですか?」

「僕の判断だ。ハードディスクにパーティションを切るようなものだ。膨大なデータを丸ごと1つで扱っていると、事故があったときに全滅する危険がある。小回りも利かない。だからあらかじめ、より小さな単位に細分化しておく。どこか1カ所の作業で時間を食いすぎても、冷凍してある他の部分には影響を与えない」

 弓子にも、頭では理解できる。感情が追いつかないだけだ。

〝パーティション〟という用語にもなじみがあった。自宅のiMacのハードディスクも、2つのパートに分けてある。それぞれ独立したディスクとして取り扱えるので、別のOSを入れて切り替えて使うことも可能だ。だが、里奈の体を機械と同列に語ることには抵抗がある。人は、機械ではない。

――でも、競技で解剖した〝腕〟は……

 精密機械のようだった。精緻で、美しかった。

 人を畏怖させる神の技――。

――死体でも、人だと言えるの……?

 高志はすでに、里奈の身体をデータの集合体として考えている。ここから先が、弓子を拒む世界だ。感情と理性の隙間に、狂気が忍び込む。隙間が広がれば、狂気も膨れ上がる。弓子は恐る恐るつぶやいた。

「それから……?」

「細分化された臓器を解析して、再構成する。それは、君も体験済みだ」

 弓子がぼんやりと言った。

「里奈さん、喜ぶかな……自分が再生されること」

 高志の答えに迷いはない。

「喜ぶと確信している。僕は、この世に里奈さんが生きた証を刻みたい」

 そう自分に言い聞かせることで正気を保とうとしているのか……。

「でも……データになるなんて……」

 高志は無表情に語った。

「データとは、数字だ。数字は、形を作る。僕には分かる。形には、魂が宿る。マルに目鼻を描いただけで表情が生まれ、キャラクターが発生する。子供たちがアニメに熱中する理由が分かる? 彼らにとってはアニメが、リアルな現実だからだ」

 それこそが、高志を支えてきた世界だ。一種の信念でもあるのだろう。高志の言葉に力がこもるのが感じられた。

 だが、弓子の心はついていけない。

「だけど、本物じゃない……」

「確かに、セル画やCGはまがい物だ。単純化した線と色を組み合わせたシンボルに過ぎない。だが、口を表す線を少し曲げるだけで喜怒哀楽を正確に伝達できる。シンボルによって、現実が表現される。形でしか表せない事実もある。まがい物を積み上げて描かれる物語に、真実を託すことができる。人間ならなおさらだ。写真なら、どう?」

「たしかに、昔のこととか思い出したりする……」

 だから弓子は、文哉の写真を持っていない。残らず燃やしてしまった。

「写真は、単に印画紙が化学反応を起こしただけの2次元画像だ。しかし人は、大切な人の写真を抱いて涙する。化粧は? 女はなぜ化粧をする? 美しく装うことで、自信が持てるからだろう? 顔の色がほんの一部分変わっただけで、なぜ気持ちまで変わる?」

 論理的だ。理性では分かる。だが、感情は――

「そうだけど……」

「形には、力があるんだ」

 それは確かだ。ほんのひととき、文哉の外見が変わったことが、弓子の心をねじ曲げた。2人の人生が壊れたのは、まぎれもない事実だ。

 高志は弓子の困惑に気づかないように続けた。

「人間とは、そういうものだ。人間を人間らしくしているのは脳の複雑さだ。イヌやネコなら、飼い主が別人のように太っても愛情や忠誠心は変わらない。だが、人間はそうはいかない。たとえ同じ相手であっても、醜く変われば愛し続けることは難しい」

 弓子の目から、不意にこらえきれない涙が吹き出した。

「そうだった……」

 今度は高志が困惑する。

「どうしたの、急に?」

 弓子は顔を伏せて言葉を絞り出す。

「わたしが……わたしがそうだったの……我慢すれば、文哉は死ななかった……手術だって成功したのに……。なのに、わたしは……。あの人は変らなかったのに……」

 弓子はこらえきれずに、過去の出来事を語った。

 高志は弓子の肩を抱いてソファーに導き、語らせるがままにした。時折の相づちで話を促すだけで、じっと弓子の告白を聞く。

 そのまま数10分が過ぎた。

 全てを聞き終わった時、高志は言った。

「話してくれてありがとう。何かある、とは思っていたけどね」

「里奈さんにしか話したことがなかったんです……」

「でも、たぶん君は間違ってなかった。彼は一度顔を失って、きっと人が変ったんだと思う。変わらない自信がある人間なら、自殺なんかしない。人が変われば、別れることもあるだろう」

「見た目って、そんなに大事なの……?」

 高志がうなずく。

「世の中には、人間の価値は見た目では決まらないと言う者が多い。それも事実だ。現に、他人と違った姿をしながら堂々と生きている人も多い。だが、そうじゃない部分も、人間にはある。見た目は全てではないが、想像以上のパワーを持っている。詐欺師は、服装や物腰で自分を信じ込ませる。顔が傷つけば、部屋から出ることも難しい。仮面で顔を隠せば、大胆な行動も取れる。ハンサムか醜男かで人生が変わる。女なら、なおさらだ。それが当然だろう?」

「わたし、どうすればいいの……?」

「君はすでに、見た目の重要性を体験している。それが、君が選ばれた本当の理由なのかもしれない。僕たちがやっていることは犯罪で、不本意に強制されたことだ。だが、僕にとっては壮大な実験でもある。全てを費やして追求してきたことの、延長上にある実験だ。だから、僕が選ばれた。僕は、形を忠実に再現することで、里奈さんに命を吹き込もうと思う。サイバースペースで永遠の命を与える」

「永遠の命、なの? それが……命と呼べるの?」

 高志の答えは相変わらず滑らかだった。高志はずっとこの世界に生きている。常に考え、迷い、壁にぶち当たり、そうして考え尽くした高志なりの見解なのだ。人生をかけた、高志の結論だ。

「むろん、データ自体は生きていない。じゃあ、ウイルスはどう? 実体は単なる化学物質――DNAやRNAの連なりに過ぎない。自分だけじゃ、動けないし繁殖もできない。だが、いったん他の生物に侵入すれば、生命活動を開始して自分の複製を作り始める。時に生物種を根底から変化させてしまうほどの力を発揮する。生物の進化はウイルスが起こすという解釈があるぐらい、その力は強大だ。それなのに、ウイルスは生物なのか無生物なのか、専門家でさえ統一した見解を出せない。デジタルデータだって同じだ。確かに、実体は記録媒体に刻まれた信号だ。ただの記号に過ぎない。記号が完全な生物になることなど、不可能な話だ。だが、それを受け取る人間にアクティブに働きかけるなら、ウイルスのような生き物だと言えないか? ただの記号でも、人の心に決定的な影響を与える〝生きた存在〟になれる」

 考え抜かれた論理だ。

「生きた存在……」

「人の意識を根底から変えてしまうような、現実的なパワーを持った存在」

「意識を変える、って……」

「人の気持ちは、見るものによって変わる。里奈さんには、人を幸せにする力がある。僕はそう感じる」

 弓子にも異論はない。里奈の美しさは、羨望や嫉妬など寄せ付けないほど完成されている。それが、里奈の本質だ。その本質を記録するなら、意味があるかもしれない。

「里奈さんは、そんな人でした……。そんな力……取り戻せますか……?」

「努力する。可能な限り」

「完全な保存ができますか……?」

「完全? どんな意味で」

「文字通り、寸分違わない里奈さんの再生」

「100パーセント、という意味なら不可能だ」

 弓子の表情が曇る。

「無理ですか?」

「実際に腕を解剖して、改めて思い知らされた。臓器には、明確な区切りなんてない。こっちの都合で扱いやすい部分で切断していくしかない。細かく分ければ分けるほど、さらに細かく分ける必要も出てくる。だが、どんなに組織を細分化しても、細胞の1つ1つまで再現することはできない。仮にできても、データが重すぎて動かせない。将来それが可能なコンピュータが完成したところで、細胞はさらに微細な構成要素からできている。細分化に終わりはない。だから僕は、ここにある装備で、すなわち現在入手できる最高の機材を使って、最高の精度で里奈さんを保存しようと思う。見た目は充分だろう。だが内容的には、おそらく1パーセントにも満たない精度だ。僕には見た目しか真似できないからだ。だがそれでさえ、1人では困難だと思い知った。君が必要なんだ。君が助けてくれれば、精度が倍に跳ね上がるかもしれない」

 弓子はつぶやいた。

「わたしが……」

「できそうもない?」

「わたしが……里奈さんを切り刻む……」

 できることなら、手伝いたいと思う。里奈を、この世に残したい。歴史に刻み込みたい。死んでしまった里奈のために。家族を救おうと苦闘する高志のために……。

 だが、張り裂けそうな気持ちを押さえつける方法が分からない。

 高志が穏やかに続ける。

「君は、里奈さんを切り刻むのが怖いという。かわいそうだという。確かに人間は、生きている間は単なる物ではない。切られれば痛いし、血を流す。だが、生命を失えば、スーパーで売っている豚肉と同じように腐っていく。どんなに大切だった人だろうと、腐臭を放つ。それが、里奈さんの美しさに対す敬意なんだろうか? 里奈さんの尊厳を守ることなんだろうか? あるいは、火葬にして焼き尽くすならかまわないのだろうか? この世に写真しか残さずに、灰に変えることが死者への手向けなんだろうか? 冷凍すれば、形は保てる。だが、いったん電気が止まれば融けて終わりだ。それなら、しわだらけのミイラにするか? 生前の姿を失ったミイラなど、低俗な見せ物にしかならないと思う。僕はずっとそんな疑問と闘ってきた。答えは人それぞれだ。だがどの結論も、死体を壊す点では同じだ。では、どんなやり方なら里奈さんにふさわしい? 里奈さんなら、何を望む? 君は確信を持って答えられるかい?」

 そうなのだ。里奈にふさわしい死は、なんなのかだ。

 少なくとも、腐り、あるいは灰になって、何も残せないのはふさわしくない。美しく華やかな里奈の笑顔が、そうやって滅びていくのはあまりに悲しい。

 里奈は、老いを恐れていた。老いて、美しさが失われていくことに怯えていた。今ここにいる里奈の美しさは、頂点に達している。極限の美が時を超えて残っていくなら、それはきっと悲しいことではない。

 里奈を生き返らせることはできない。ならば、里奈が望む〝死〟を実現させてやりたい――

 弓子はつばを呑み込んだ。

 結論はとっくに出ている。答えはひとつしかない。だが、それを口に出すのは、やはり恐ろしい。

「わたし……」

「どうしたい? どうすることが里奈さんにふさわしい?」

「生き続けて欲しい……」

 高志もうなずく。

「サイバースペースでなら、可能だ」

 もはや、逃げることはできない。

「分かりました……解剖……します……」

「手伝ってもらえるね?」

「わたし……」

 決断はしたが、踏ん切りがつかない。

 はっきりしない弓子を見て、高志は微笑んだ。

「それが人間だよ。迷って、悩んで、ためらうのが人間だ。君は、生きている人間だ。だから、悩みなさい」

 弓子にはその言葉が意外だった。

「手伝わなくても……?」

「むろん、パートナーであって欲しい。だが、この過酷な作業は、揺らがない気持ちがなければ続けられない。だから悩みなさい。悩んで、納得して、ここに戻って来なさい」

「高志さん……」

「ただひとつ断っておく。僕はもう、心を決めた。人生の全てかけて悩み抜いた、最後の結論だ。だから、先に進む。これからは、里奈さんを――里奈さんの死体を、物として扱う。そうやって解剖し、徹底的に解析する。そのデータを再構成した時に、単なる物体に過ぎなかった死体が〝永遠の生命〟を得るのだと信じるからだ。それが僕にできる弔いだ。逃げることはできない。必ずやり遂げる。君はただ見ているだけでもいいし、この部屋にいなくてもいい。ただ、僕がやることだけは邪魔しないで欲しい。そしていつか、また手を貸して欲しい」

 それが高志の生き様なのだ。

「……すぐに始めるんですか?」

「退色が始まってからでは遅い。今のうちに外部をくまなく記録する。できるだけ細かく、各部分を徹底的に撮影する。撮影が終わったら、充分に時間をかけてゆっくり冷凍。組織の破壊をできるだけ防ぐためだ。最終的に温度はマイナス20度に設定するそうだ。アルコール自体は凍らないから、組織を保護する効果もあるらしい。電気が止まりさえしなければ、何10年でもその状態で保存できるという。その後は、さっき話した手順で細部のデータ採取だ」

 弓子が思わず声を出す。

「わたし……」

 高志は言った。

「冷凍までなら、僕1人でできる。撮影済みのカードに連番を振っておく。撮影後は、データの整理に相当時間がかかるだろう。できれば君にお願いしたい。得意じゃないんでね。もちろん、すぐにできなくて構わない。先は長いから。作業は、君の部屋で1人で進めてもいい。やりやすい方法で」

「わたし……」

「僕1人でできることは、ゆっくりでも進めておくから。その間に気持ちを整理するように。まず、休みなさい」

 高志は弓子に微笑みかけた。

 弓子はうなずく。

「はい……」

「部屋に戻った方がいい。疲れが抜けていないように見える」

 弓子は里奈に目を戻した。

――まだ生きているみたい……。里奈さん……わたしの、お姉さん……

 里奈を〝記録〟したいという気持ちは消えていない。

 休もう――そう思った。中途半端な覚悟では向かい合えない。ぐっすり眠ってから、また里奈と会おう、と

「睡眠薬、いただけますか?」

「次に会う里奈さんは、多分冷凍が終わっている。時間はたっぷりある。しっかり休むように」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る