第3章・勝者

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 やはり最大の敵はウェタデジタルだったのだ。ゲームではともかく、映画の世界ではウェタが最先端を疾走している。ずば抜けた感性と創造力を誇り、新たなテクノロジーを切り拓き、CGの常識を塗り替えているのだ。ウェタがなければ〝アバター〟も構想だけで潰えていた。明らかに、現在の映画界を牽引している。

 高志が放心してつぶやく。

「10分……」

 弓子は立ち上がった。

「そんなの、同時みたいなもんでしょう! たった10分で優劣を決めるの⁉ ひどい!」

 高志がMacの前から立てないまま、うめく。

「なんでできるんだよ……そんなに早いはずないのに……」

〝天の声〟が降る。

『ウェタにも、秘密兵器はある。自動化も君たちの専売特許ではない』

 高志が叫ぶ。

「見せろよ! ウェタのデータを見せろよ! 僕より良いって言うなら、ここで見せてみろ!」

『完成度を判定するのは我々だ。君は手足に過ぎない』

「何もできないくせにでかい口を叩くな!」

〝天の声〟が少し遅れる。

『それが君の最大の欠点だな。自制心に欠ける』

「なんだと……⁉」

 立ち上がって声を上げたのは弓子だった。

「高志さんはプロです! 誇りを持ってます!」

『プロなら、今回は手足に徹するべきだった』

 高志が頭を抱える。

「負けたのかよ……この僕が……」

 敗北は自分や家族、そして行動を共にしている弓子の危機を意味する。だがその苦しげな言葉には、ライバルに負けた悔しさの方が色濃く滲んでいた。たった10分間だろうが、高志にとっては決定的な屈辱なのだ。

 弓子にも、もうできることはない。目を伏せた。

〝天の声〟が言った。

『他の2チームは脱落した。これから、君とウェタで判定を行う』

 弓子が顔を上げる。

「判定⁉」

 高志が立つ。

「勝てる可能性があるのか⁉」

『佐野君が指摘したように、この長丁場で10分間の差は問題にならない。だから、データの内容で判定を下す。今、ネット上に3名の幹部が揃ったところだ。検討時間として、1時間与えてもらおう』

 高志の目に希望が芽吹く。

「そこで選ばれたら?」

『ウェタがナンバー2だ』

 高志がうなずく。

「待とう」

 そういった高志は、深く椅子に座り込んだ。腕時計のタイマーをセットすると目を閉じて、小声で弓子に言った。

「やることはやった。評価が平等なら、自信もある。休もう。君も休んだ方がいい。勝ったら、多分また忙しくなる……」

「そう言われても……」

 高志はすでに軽く寝息を立てていた。一瞬で精神の緊張を解き放ったのだ。それはすなわち、これまで極度の緊迫感の中で走り続けていたことを意味する。

 弓子も疲れていた。眠れはしなくても、横になりたい。だが、自分の部屋へ戻るのはおっくうだった。ソファーに横になる。天井を見上げながら、考えた。

 判定で負けたらどうなるのか。高志の予測や今までの経過を考えると、死を意味するとしか思えない。自分の死はもちろん、高志の死、あるいは高志の家族の死まで……。

 自分自身が死ぬことは、もう構わないような気がする。兄弟も家族もいないのだから、他人を悲しませることはない。生き続けたいという執着も、あまりない。何度かガスで眠らされたが、死とはそのまま目が覚めないだけのことだとも思える。それなら、受け入れられる。気がかりなのは、KKKが〝人質を取る〟と言ったことだ。だが、負ければ自分は死ぬ。自分が死ねば、人質も必要ない。それが救いだ。

 もし勝った時は……まずは、高志に任せるしかない……。

 唐突にタイマーが鳴った。弓子ははっと目を開いた。いつの間にか眠っていた。体を起こしてソファーに座り直す。

 高志もむっくり起き上がり、タイマーを止めた。

 同時に〝天の声〟が降る。

『判定が終了した』

「時間に正確だな」

『君たちは期待以上の働きを見せた。我々も誠実に対処したい』

「結果は?」

『判定は3人の委員が行った。それぞれ持ち点が100で――』

「結果は⁉」

 かすかな笑いが漏れる。

『勝ったのは君だよ』

 高志が深い溜息をついた。弓子もぐったりと緊張を解いた。とりあえず、生きていられる。

 高志が言った。

「ナンバー1、でいいんだな」

『君たちが次へ進む』

 弓子がつぶやく。

「よかった……」

 高志が弓子に目を向けた。

「確信してたよ、僕らの勝ちは」

 2人は微笑み合った。

〝天の声〟が言った。

『だが判定は、僅差だ。2対1。総合しても4点差に過ぎない』 

「それでも勝ったんだろう?」

『ウェタが優れた評価を取った部分もある。今後の作業に、うぬぼれは禁物だ』

 高志はうなずく。

「ウェタの方が〝美しい〟、か?」

〝天の声〟が意外そうに言った。

『なぜ分かる』

「そういう仕上げをしてくると予測していた。彼らの仕事は映画だ。多少の誇張があっても、美しい映像を求められる。だが今回、要求されたのは忠実さだ。だから僕は、見た目の良さを切り捨てた。捨てて、ありのままに描くことに専念した」

 弓子が漏らす。

「それで4点差を……?」

 薄氷を渡っていたのだ。割れなかったのは偶然かもしれない。

『君の自信の裏付けが分かった。確かに、忠実な再現という意味で君が選ばれた。勝利者に新たな権利を与えよう』

 質問を返す間もなく、いきなりMacの画面が切り替わった。また外部からコントロールされている。高志が身を乗り出して画面を見つめる。弓子には、何のソフトのインターフェイスか分からなかった。画面が3つに分かれている。画面は皆真っ黒で、まだ何も表示していない。3面図を見せるのか、別々の何かを見せるのか……。

 下部にひとつ、青い押しボタンが付けられている。ボタンには〝WINNER〟の文字が刻まれていた。

 高志が言った。

「権利って、なんだ?」

『押したまえ。勝者は君だ』

 何が起こるか分からない。だが、従う他はない。

「分かった」

 高志はボタンをクリックした。

 とたんに黒い画面が一斉に明るくなる。全部が、どこかの室内を写した白黒画像に変わった。画面も荒く、ノイズが多い。まるで、万引き防止の監視カメラだ。顔つきまでは判別できないが、それぞれの画面に2人ずつ人物が見える。最初は同じ部屋を3カ所から撮ったもののように見えたが、写っている人物の服装が違う。1人は黒人のようだ。

 高志が口を開く。

「なんだよ……おい、ピーターか⁉」

 最初は中央の画面だった。壁際から白い煙が吹き出す。弓子たちが意識を失った時に充満したものと似ている。画面の中で、2人の男が立ち上がって煙を見つめる。そして、壁を壊そうと体当たりを始める。一切の音がしないことがかえって不気味だった。

『このガスは致死性だ』

 高志が叫ぶ。

「やめろ!」

 右側の画面にもガスが沸き出す。

『スイッチを入れたのは、君だ。やめるなら、君だ』

 高志がボタンを何回も押す。ガスは止まらない。インターフェイスを見回す。ガスを止めるボタンが隠されていないか、コマンド+Aで全体を選択する。隠しボタンは現れない。それでも素早くマウスをクリックして画面を探る。

 弓子は立ち尽くし、両手で口を覆っていた。手の間からうめきが漏れる。

「やだ……」

 高志は闇雲にマウスを移動させながら叫んだ。

「汚いぞ! 止めろ!」

 第3の画面にもガスが出始めた。全ての画面の中で、男たちが壁への体当たりを繰り返す。そして、中央で1人が倒れた。それを起こそうとするもう1人も、一緒に崩れる。2人の姿はすぐにガスに隠れて見えなくなった。

「汚いぞ……」

 高志は涙をあふれさせていた。

『敗者は死ぬと教えた』

「だからって……なんで僕が……」

『君が勝ったから、彼らが死ぬ。ボタンを押そうが押すまいが、結果は同じだ。負けて、致死性のガスを浴びたかったか?』

 高志はマウスを放し、その場にしゃがみ込んだ。涙をこらえている。

「くそ……」

 Macの画面が消える。

 震える高志の肩を見た弓子は、傍らに歩み寄ろうとした。

 と、〝天の声〟が言った。

『佐野君。君にも、勝者へのプレゼントが用意されている』

 弓子は足を止め、天井を見上げる。

「わたしに……?」

『言ったはずだ。人質を取る、と』

 弓子が叫ぶ。

「やめて! もうやめて!」

『そうはいかない。勝者には、次の作業がある。だが、問題は解決されていない。君が耐えられるかどうか、だ』

「やります。耐えてみせます。何でもやりますから、他人を巻き込むのはやめて!」

『その言葉が本当であれば、問題はない。勝者の権利として、人質に危害は及ぼさない。君が従順でさえあればいい。彼女は就寝中に拉致した。我々の姿さえ見ていない。作業終了後には解放する』

「彼女、って……?」

『画面を見たまえ』

 今度は弓子のMacに分割された画面が現れた。すぐに3つの画面が明るくなる。今度は同じ部屋を3方向から捕らえた画像だ。部屋の中央に、低体重児を保護する保育器ような、透明なケースが据えられている。中に人が入っていた。大人の女のようだ。ケースはダブルベッド以上の大きさがあることになる。画像はやはり荒かった。だが、それが誰だか、弓子にはすぐに分かった。

「里奈さん……」

 画面の中で、白衣を着た里奈が寝返りを打つ。胎児のように体を折り、まるで指をしゃぶっているような姿勢になった。

 弓子がモニタにしがみつく。

「いや!」

『家族がないのなら、友人を選ぶしかない』

 家族はいたのだ。姉同然の、里奈が……。

 弓子が叫ぶ。

「やめて!」

 弓子のMacの画面が消えた。だが、里奈が拉致されたのは間違いない。

『葉山君は眠っているだけだ。場所は、君たちと同じフロアだ』

 弓子はモニタを離して立ち尽くす。

「なんで……? 関係ないのに……」

『従順でさえあればいい。我々が欲しいのは完璧なデータだけだ。作業後は君たちも解放する。君は葉山君と共に日本に帰れる』

 弓子は振り返って天井を見上げた。 

「うそ!」

『信じなくとも構わない。作業に悪影響を及ぼさなければいい』

「うそ! 殺したくせに! 6人も!」

『現時点では彼らを解放できない。古巣に戻って騒がれれば、計画に齟齬が生じかねない。神の再生には数年を要するかもしれない。作業量が膨大だから、時間がかかることはやむを得ない。反面、終わるまで6人もの男を監禁しておくことは困難だ。だが終わってからなら、神はサイバースペースにあまねく降臨する。どう騒がれようと問題はない。この建物自体も、消滅する』

「里奈さんを……解放して……」

『彼女は眠り続けるだけだ。我々の医師が見守る。体に変調はあろうが、死ぬことはない。だから、一刻も早く神のデータを完成させることだ。君たちの能力には満足している。だが、君は不安定で、宮崎君は反抗的だ。それさえなくなれば、作業は速やかに進む』 

「そんな……」

 もはや弓子には、働く以外の選択肢は残されていない。

 高志はゆっくりと椅子に戻った。亡霊のようにつぶやく。

「彼女が里奈さんか……。だが君は、彼女を救える。仕事をすればいい。僕も家族を救える。僕らも自身も助かる」

 弓子が高志にすがるような目を向けた。

「だって……嘘かも……」

「信じるしかない。可能性は、ゼロじゃない」

「平気なんですか……?」

「平気なもんか! 6人も殺したんだぞ! ……たった今……殺したばかりだ……僕が、この手で……平気なわけないだろう……」

 高志の言葉が、ゆっくりと弓子にしみ込んでいく。がっくりと首を落としてつぶやく。

「そうですよね……」

「だけど、まだ生きてる人は救える。君の友達も、僕らも、僕の家族も……」

「本当だと思いますか?」

「何が?」

「わたしたちを殺さないって……」

「信じるしかない。他にできることがない。抵抗すれば、家族が殺される。だが、言ったことは守ってきた連中だ。信じるしかないじゃないか」

 正論だ。弓子にも、理屈は分かる。だが、感情が受け入れない。全身が小刻みに震え始める。

「だって……」

 受け入れられないことが、高志にも分かったようだ。

 危険な兆候だった。〝腕〟の解剖で一度は切れた精神が、再び分断されそうだ……。弓子が落ち着かなければ、作業は続けられない。

 高志はゆっくりと言った。

「奴らが嘘つきなら、里奈さんも捕まっていない。奴ら、嘘をついてる」

 弓子が震えたまま高志を見つめる。

「嘘……? だって、さっき……」

 高志は弓子の目をじっと見つめる。そうすれば落ち着きを取り戻すと分かっているように。あえて強い口調で断言する。

「さっきの映像はトリックだ。僕は映像のプロだぞ。映像で人を騙すなんて、簡単だ。日本で拉致した人間を中東に運ぶなんて、その方がよっぽど難しい。嘘に決まっている」

 弓子の震えが目立たなくなる。

「そうなの……?」

「僕なら信じられるだろう? 僕はプロだ」

「はい……」

 そのとき、再び〝天の声〟が降る。

『勝手な解釈は困る。現に君たちは、日本からここに運ばれている。我々にとっては、容易いことだ』

 高志が天井に叫ぶ。

「黙れ! 働かせたいんだろうが!」

 必死の形相だった。理性的に説得できないなら、感情のよりどころを与えるしかない。失敗すれば、弓子が奈落に引きずり込まれる。戻れるかどうかは誰にも分からない。

『君の判断は正しい。精神病理学的には。だが、我々が求めているのは従順さだ。騙し騙しでは、長期間の作業に耐えられない。だから嘘はつかない。それが我々の判断だ』

 弓子もぼんやり天井を見上げている。

 高志が立ち上がって弓子の肩をつかむ。

「信じるな。奴らは嘘つきだ!」

 論理は破綻している。相手が嘘つきなら、生きて帰すという約束も意味を失う。だが、論理を拒否した弓子の感情には届く。

 騙し騙し――。

 それが高志のやろうとしていたことだった。

 弓子が高志の目を覗き込む。

「高志さん……」

「大丈夫だから。僕だけ信じろ!」

〝天の声〟が割って入る。

『勝手な判断は慎め。では、現実を見せよう』

 ドアの鍵が外される音がした。

 弓子がうめく。

「現実……?」

『突き当たりの右側のドアだ』

 一度も鍵が開いたことがない部屋だ。白い廊下の端。行き止まりの防火扉。左右の壁にドアがあるが、この2つは常に鍵がかかっていた。

 弓子が飛び出そうとする。

 高志は力づくで押さえ込む。

「だめだ! 行くな! あいつらは嘘つきだ!」

〝天の声〟が、不愉快そうに命じた。

『手を離せ。行かせろ』

 高志は天井に叫ぶ。

「アシスタントがいなければ困る!」

『潰れれば、次を探す』

 高志は必死だった。

「有能なんだ!」

『有能な人間を探す』

 高志も反論できなかった。反抗し続ければ、自分を含めた全員を危機にさらす。弓子が再び現実を受け入れることに期待するしかない。少なくとも、一度は戻って来られたのだ。

 高志は腕の力を抜いた。弓子はドアへ向かった。高志も後を追う。

 弓子は廊下へ出て防火扉まで走った。右側のドアノブを握る。始めて鍵が外されていた。扉を押した弓子は、動きを止めた。ドアを開いた瞬間、石に変えられてしまったように。

 高志がその後ろから部屋を覗き込む。

 画面で見せられた、そのままだった。中央に、ベッドより大きな透明のケース。その中に、女が横たえられている。仰向けの女はゆったりした白衣を着せられ、かすかに呼吸しているようだった。

 高志は、その美しさに息を呑んだ。

 弓子がつぶやく。

「里奈さん……」

 そして、その場にぺったりと座り込んだ。

 弓子の言葉に押されたように、里奈が再び寝返りをうって背中を向ける。意識があるようには見えなかったが、拘束はされていない。里奈は着ている白衣に顔を埋めるように体を丸めた。画面で見せた、指をしゃぶる胎児のような姿勢だ。

 弓子が里奈の動きに気づいて立ち上がる。

「里奈さん!」

 弓子を再び止めたのは、〝天の声〟だった。

『我々は嘘はつかない』

 弓子は、動けずにつぶやいた。

「どうして里奈さんなの……? 時々会うだけなのに……」

『君への圧力になる』

「ただの知り合いなのに……」

『決めるのは我々だ』

 弓子は不意に立ち上がって里奈のそばに駆け寄った。

「なんであんたが決めるの⁉」

 高志が行動を起こした。弓子を後ろから羽交い締めにする。

「落ち着け!」

 弓子の理性が吹き飛びかけている。何をするか分からない。どんな結果につながるかも分からない。

 弓子が叫ぶ。

「助けなくちゃ!」

 高志に抑えらながら、アクリル製のケースにしがみつく。両側には、外から手を入れられるように、黒いゴムで縁取られた丸い穴が開いている。ケースは手術台ほどの高さがあり、ベッドの下には何本かのボンベが固定されていた。そこから延びたホースが1本、アクリルケースの頭部に接続されている。おそらくは、酸素だ。薬物で生体機能を抑制しているために、高濃度の酸素が必要なのだろう。

 ケースの中の里奈の呼吸が、早くなったように見える。

 弓子は不意にケースの脇から手を入れた。里奈の細い腕を背中越しにわしづかみにして、揺する。里奈の全身が揺れる。だが、自ら動こうとはしない。薬物を投与されているようだ。

「起きて!」

 高志が後ろから引き戻す。

「起こしちゃ危険だ!」

 弓子は高志の腕を振り払って、今度はケースにしがみつく。フタを開けようともがく。

「開けなきゃ!」

 高志が叫ぶ。

「何をする⁉」

「助けるのよ!」

「やめろ! 逆らうな!」

 弓子はなおも高志の手を振り払いながら、アクリルケースの周りを探る。ケースを開ける場所を探している。

「開けなくちゃ! 里奈さんが死んじゃう!」

 高志も必死に押さえ込もうとする。

「開けたら危険だ! 酸素が減る!」

「いや! ここじゃ死んじゃう!」

〝天の声〟が降る。

『やめろ』

「里奈さんが死んじゃう!」

〝天の声〟は、高志に命じる。

『やめさせろ』

「やってる!」

 高志は後ろから弓子を押さえる。

「だめだ! 暴れちゃだめだ! 落ち着け!」

「死んじゃう!」

 弓子は高志の腕を振り払いながら、ケースの部品が手に触れるたびにそれを引きちぎろうとした。弓子の爪がケースに引っかかり、割れた。血がにじむ。それでも弓子は、ケースを開けようと暴れる。透明なケースに、指紋と血糊がこすりつけられていく。理性を失った弓子を見る目が、うっすらと涙ぐむ。

「開けなきゃ! 死んじゃう!」

 高志にも手がつけられなかった。

「落ち着いて!」

 弓子が酸素供給のホースを掴んだ。力一杯引く抜く。抜けたホースから、酸素が吹き出す音が聞こえた。高志は弓子を離してホースを掴んだ。元の位置に差し込もうとする。

 それを弓子がはねのける。

「助けるんだから!」

 高志は床に尻餅をついた。

 里奈は2人がうるさいとでも言うように、背を向けたままさらに体を折った。夢に怯えた幼児が泣いているようにも見える。

〝天の声〟が降った。

『無駄だな』

 高志が起き上がれないまま叫ぶ。

「待って! 落ち着かせるから!」

 声が、淡々と続ける。

『ガスを使う』

 高志が跳ね起きて、再び弓子を抑える。高志は明らかに涙を流していた。

「待て! やるから!」

 弓子は、またもケースを開けようと高志を押しのけた。ケースの横から手を入れる。里奈の腕を白衣の上から掴み、必死に揺さぶる。

「里奈さん! 起きて! フタを開けて!」

 里奈の体がぐらぐら揺れる。意識が戻る気配がある。

〝天の声〟が結論を下した。

『無駄だ』

「やめろ! 本当に死ぬぞ!」

『ガスを使う』

 同時にアクリルケースの下から白い煙が噴出する。正面からガスを浴びた弓子が、膝を折る。里奈を掴む手が離れた。腕が、ケースから抜けていく。遠のく意識の中で、必死に叫ぼうとする。

「起きて! 里奈さん、起きて……そこから出て……死んじゃう……里奈さんが……」

 里奈は目の前にいる。目が覚めかけている。だが、フタは開かない。弓子には、里奈が泣いているように見えた。

 弓子はアクリルケースにしがみつきながら、床に倒れた。

 その上に、両手で鼻と口を押さえた高志が崩れる。くぐもった声が漏れる。

「死ぬぞ……ほんとに……」

 そして高志も目を閉じた。

 里奈が眠るケースの中にも、じわりとガスが侵入していく。その中で里奈は、早い呼吸を繰り返した。

 ケースの周囲を濃いガスが包み込んでいく――。

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