5
弓子が高志を治療したのはその1回だけだった。高志は麻酔が覚めた後、痛み止めの注射すらしなかったという。正体も目的も分からない〝天の声〟の言いなりにされることを拒否したのだ。
痛みは激しいはずだ。だが高志は何事もなかったように振る舞いながら、弓子の耳元に囁いた。
「その分、意識ははっきりする。冷静でいられるし、怒りも忘れない」
抵抗する気力を保とうと必死なのだ。
2人は高志の仕事場で過ごした。弓子は自分の部屋の食材で料理を作り、高志のもとへ運んだ。最初は食欲がないと言っていた高志も、一口食べた後は恥ずかしそうに頬を緩め、弓子の分まで平らげた。普通の料理に飢えていたようだった。
弓子も微笑みながら応えた。
「好きなだけ食べてください。わたしの分は、また作りますから」
実際は、まだ食事を受け付けない。
高志は真顔になって言った。
「材料はどこから?」
「最初から用意してありました。まだ、残ってます」
「君を料理番にする気らしいな。僕は食べるだけだけど?」
「料理は好きですから。落ち着くし、気分転換になるし」
そして2人は、互いのことを話した。
高志は、若い頃は引きこもりだったと語った。
「コミケって知ってる? コミックマーケットの略。コミックやアニメをネタにしたパロディー本や小説を売ったりする、同人誌即売会のことだ。アニメのラブコメとかじゃ使い勝手のいい定番イベントだけど、普通の人から見たら汗臭いオタクのお祭りだね。20歳前の僕は、どっぷり浸かっていた」
コミケのことは友人のモデル――葉山里奈から聞いたことがあった。里奈は今でこそプロのショーモデルだが、そのスタートは同人サークルだったという。コスプレの競い合いをきっかけに注目を浴びたことを嬉しそうに語ったことがあった。
拉致される直前も、ワインで酔った里奈は弓子をカラオケに誘い、2人きりで3時間歌い続けた。弓子は、里奈のお気に入りが杏里の〝キャッツアイ〟だったことを覚えている。帰るまでに3回も繰り返したのだ。古い曲だが、古くからのアニメファンの間では定番化している。歌う里奈は、見とれるほど美しかった。『瞳のコスプレ、十八番なの』と恥じらう笑顔が記憶に焼き付いている。
アニメの〝キャッツアイ〟は、弓子もよく覚えていた。美人三姉妹のセクシーな泥棒たち。その真ん中の娘が、主人公に当たる〝瞳〟だ。幼い頃に何度目かの再放送を欠かさず見ていた。今でも、思い出したように他作品に登場するなどして、密かな人気を保っている。
弓子は高志に言った。
「里奈さんから聞いたことがあります」
「リナさん……?」
「モデルさん。拉致される前に会ってた友達です」
「サークル、やってたの?」
「コスプレ、とか……」
「それなら、見かけたこともあるかもしれないね。今じゃ、コミケは何10万という集客がある最先端のサブカルチャーだ。オタク自体が世界的なビジネスマーケットに成長した。でも、あの頃の僕は孤独だった。学校とか会社とか常識とか、そんなものが重要だなんて、どうしても納得できなくてね……」一度口を開いた高志は、堰を切ったように身の上を打ち明け始めた。「ゲームも好きだし、プログラムも面白い、イラストも描きたいし、ストーリー作りもエキサイティングだ……どれが本当の自分なのか、分裂していたんだ。親ともうまく行ってなくて……。僕の父は中堅商社の中間管理職で、いわゆる企業戦士だ。何のことはない、家族と正面から向き合うことができず、仕事を言い訳に逃げまわっていただけだ。休日といえば接待ゴルフで、ぺこぺこと頭を下げて回るのが役目だったらしい。父と楽しく笑い合った記憶は、僕にはない。実質的には、母子家庭のようなものだった。母親は、きょろきょろと周囲を見回して世間体ばかりを気にしていた。世の中に溢れている〝普通〟とか〝常識〟とか言う観念に縛られて、身動きできなくなったような人間だ。貫くべき自我もなく、ただ流されるだけ。僕は行きたくもない塾に通わされ、成績だけで評価された。僕の興味や気持ちには関心がなく、世間様に恥ずかしくない数字や成果だけを要求された。父から無視された分、僕に執着し、しがみつくしか自分を保つ術がなかったんだろう。僕は関心があることしかしようとしなかったから、成績も極端に偏っていた。大人になってから分かったことだが、日本ではどこにでもある、それこそ普通の家庭だったよ。それが息苦しかった。耐えられなかった。自分の気持ちに正直に生きることが許されない毎日に押しつぶされそうになっていた。でも、混沌がデフォのコミケでは、どれもが受け入れられた。オタク仲間となら、会話もできたし意志も通じた。彼らの嗜好や考え方に違和感がなかったわけじゃないけど、家や学校なんかよりはるかに素直でいられた。僕はそんな環境にしか出て行けなかったから、オンラインゲームを自作したのは当然の成り行きだった。飛び散っていた自我が、ゲームに収斂したんだ。それが〝デッドエンド〟だ」
ゲームに関心がない弓子でも、その名は知っていた。高志は、〝デッドエンド〟の開発者だったのだ。何かの雑誌で読んだ紹介記事が、宮崎高志の名を記憶に刻んでいたらしい。
「有名なゲーム……ですよね」
「超、有名。最初のネット版は全部1人で制作したけど、ソースを調査した大手が肝をつぶした。プログラミングが独創的だったそうだ。のめり込んだグラフィクスも成功の要因だった。で、〝ドリームメーカー〟版を任された。〝ドリームメーカー〟はニンテンドーやソニーに押されていたゲーム機だけど、潜在能力は抜群に高かった。だから僕は、性能を極限まで絞り尽くすプログラムとグラフィックスを組み上げた。今でこそ当たり前の3Dアクションを、5年早く実現したんだ。もっとも、チーム制と秘密主義のおかげで、胃はボロボロになったけどね。前作の〝デッドエンド5〟でもひどい目にあった。メーカーは発売日を守るのに必死だ。僕は僕で、クオリティでは絶対手を抜かない。結局、発売日を何度も延期させたよ。殴り合いにこそならなかったけど、毎日が戦争だった」
弓子は記事の概要を思い出した。〝デッドエンド〟は、爆発的なヒットを飛ばしたホラーゲームだ。一時は消滅寸前まで追い込まれたゲーム機〝ドリームメーカー〟を、表舞台に引き戻したモンスターソフトだった。業界内では、衰退の一途をたどっていたアップルを立ち直らせたiMacに匹敵する快挙だと讃えられている。
「じゃあ、お金持ちなんですか……?」
高志は当然のことのように言った。
「金? 充分すぎるほどに。今だって、黙っていても毎月100万単位で入って来る。ハリウッドの映画化権だけで、3億円は軽く超えるし」
記事では〝デッドエンド〟シリーズの次回作の予測が結びになっていた。中心人物である高志が消えたのでは、業界は大騒ぎになっているにちがいない。
弓子の期待が膨らむ。
「みんな、血眼で探しているんじゃありません?」
高志が肩をすくめる。
「はずれ。僕の我がままはゲーム界の常識。2、3か月の休暇を宣言したばかりだ。基本はフリーでやっている身だし、シナリオもまだ固まってないから。そもそも僕は、今じゃ〝監修〟の立場で、コアになるアイデアを出すだけ。実務からもほとんど離れた。今時の開発はゲームエンジン任せの人海戦術で面白みがないし、企業戦士は懲りた。僕は、自分が満足できる物を1人で作り込むのが好きなんだ」
「財産目当ての誘拐って可能性は……」
高志は寂しげに眼を伏せた。
「ゼロ。君も知ってる通り、要求は皆無。しかも、いきなり制裁、って……。金なら、全部持って行かれてもいいんだけど……」
高志が黙り込むと弓子もまた、自分の生活を語った。
会社の個室で単純作業に追われる日常。それ以外に話せることは、自分でも呆れるほど少ない。だが、文哉の自殺は話せなかった。高志も、聞こうとしなかった。
高志は言った。
「結婚もしていない、彼氏もいない?」
弓子は語りたくなかった。うつむいて黙り込む。
高志も弓子の素振りに気づき、肩をすくめる。
「ま、僕も別居中だけどね」
「……なぜ?」
「我がままだから。でも、子供ができたそうだ。また一緒に暮らす決心をした矢先だったのに……」
「そんな大事な時に……?」
高志はわずかに苦渋を滲ませた。話を変える。
「拉致の前に友だちと飲んでたって言ったね。モデルさん? どんな人?」
弓子は顔を上げて高志を見つめた。
「なぜ?」
今度は高志が口ごもる。
「言いにくいんだけど……この件に関わっている可能性もあるかな、って……」
弓子は不快感を滲ませた。
「そんな人じゃない……」
里奈を侮辱されることは、家族を侮辱されるのと同じだった。
弓子は、唯一とも言っていい友人のことを語った。
*
里奈に始めて会ったのは1年ほど前、職場でだった。映画の脇役でグラフィックデザイナーを演じるために、本物の職場を見学したかったのだという。里奈は社長に伴われ、1人で作業する弓子の部屋までやってきた。弓子は内線の対応とMacの操作に追われて仕事の説明もできず、アドレスを交換しただけで終わった。
里奈は後に、個室で機敏に働く弓子に興味を引かれたと言った。実際は、大部屋の人数が増えて個室に追いやられたようなものなのだが、里奈には社会の荒波に果敢に立ち向かうキャリアウーマンに見えたようだ。結局、映画は制作中止になったが、そこからメールの付き合いが始まった。内容はモデル業界の内輪話がほとんどで、里奈の一方的な愚痴と言っていい。弓子はいつの間にか、格好の話し相手にされてしまったのだ。それでも弓子は、メールを心待ちにした。華やかな業界と接点を持つことが、人生を変える転機になる予感があった。
心の底では、立ち上がるきっかけを求めていたのだろう。
そのうちに、里奈から食事に誘われるようになった。プライベートで再会した弓子は、まず里奈の美しさに驚かされた。会社では、ろくに顔を見る余裕もなかったのだ。年齢は弓子より2歳上だと知っていた。だが、圧倒的に若々しく見える。それなのに、シャネルのスーツを隙なく着こなし、ボリュームがある髪をアップにした姿には大人の風格が備わっていた。しかもスタイルが抜群だった。華奢で細身なのに、体の線が豊かなのだ。モデルとしては盛りを過ぎた年齢かもしれないが、衰えは微塵も感じさせない。
里奈が予約したレストランは、ふんだんに使った木材と間接照明で高級感を醸し出していた。里奈は、その雰囲気に完璧に溶け込みながら、しかも輝いていた。自分がどう見えるかを、正確に計算できる能力を備えている証だ。
弓子はファッションには無頓着だ。仕事上、座っている時間が長いので、身体を締め付けるものは嫌う。普段はほとんどジーンズとトレーナーで過ごし、セミロングを束ねた髪型も手間がかからないからだ。フレンチと聞いて唯一のスーツを着てきたものの、似合っているとはとうてい思えなかった。食事の間ずっと、場違いな居心地悪さを感じていた。料理やワインも、落ち着いて味わうことはできなかった。だが、若者が集まる気さくなカフェに場所を移した後、里奈は悲しそうに言った。
『モデルだから、見かけを飾る方法には詳しいの。これでも必至に勉強したのよ。ドラマなんかじゃ、可愛いだけでプロになれたりするけど、あんなのウソ。わたしたちの仕事をバカにしてるよね。ぽっと出ですぐ一流だなんて、ありえないから。それでもわたし、しがみつくしかなかったんだ。あなたみたいな才能がないし、男の人って、外見にしか関心がないから。きれいでいさえすれば、みんなに認めてもらえるし、居場所ももらえるし……。わたしの取り柄なんて、それだけ……』
里奈も独身で、実は異性には疎遠だったのだ。美しいが故の悩みもあるのだと知らされた弓子は、築きかけた心の壁を取り払うことができた。それからはメールも増え、月に1度ほど会う関係が始まった。ありふれたガールズトークも、気がつけばいつも互いの悩みを打ち明ける場に変わる。そんな里奈に弓子はいつの間にか心を許し、実の姉のように慕うようになった。
弓子の部屋を訪れた里奈から、iPhoneに入ったキャッツアイのコスプレビデオを自慢されたこともあった。モデルにスカウトされる前、アニメサークルで撮影したものだという。
――若い里奈は歌いながらステージを踏み外し、照れ笑いを浮かべながらぴょんと戻る。ステージを取り囲んで手拍子を打っていたオタクたちが、どっと湧く。そして一層豊かな表情で〝瞳〟を演じ続ける里奈。取り巻きと一緒にエキサイトして、弾けんばかりの笑顔を振りまき続ける――。
ビデオを見せた里奈は、こう言った。
『熱心なファンもいたんだよ。ビデオを撮って送ってくれたりするの。あれから、わたし、自信が持てた気がする』
不意に優しい目つきに変わった里奈は、まるで恋を語っているように思えた。弓子は〝熱心なファン〟が里奈の初恋の相手だったのではないかと直感した。
弓子も、里奈には壁を作らなかった。里奈の部屋でひどく酔った夜、文哉の自殺のことを話して甘えたこともある。他の誰にも打ち明けたことはなかったのに……。
話を聞き終えた里奈は言った。
『死のう……とはしなかった?』
なぜか、自殺を考えたことはない。
『消えたい……とは思ったけど……』
『わたし、死のうとしたことがある。何度も……』
そして唐突に、無表情に、囁くように、里奈は生い立ちを語り始めた。
ギャンブルと覚せい剤に溺れた里奈の両親は、大きな借金を残して行方をくらました。借金を肩代わりした叔父に、里奈は8才で預けられ、15才でその家を逃げ出した。美しく大人びた容姿を持つリナは、そこで奴隷のように扱われた。性的暴行を受け続け、売春を強要され、堕胎も経験した。里奈は、親に邪魔者扱いされ、捨てられ、預けられた先で虐待され、ろくな教育も受けられず、その責任は自分にあると思い込まされて育った。それでも、境遇に潰されなかった。家出をきっかけに自分の道を探し始め、バイトをしながら自活した。そして、ようやくアニメのサークルに心が安らぐ場所を見つけ、モデルクラブから誘いがかかった――。
里奈は美しさによってどん底に落され、美しさによって救われた女だった。古いコスプレ映像は、凄絶な過去との決別を記録した記念碑だったのだ。
その夜、2人は手を握り合って1つのベッドで眠った。
一度心を開いた里奈は、隠し事はしなかった。長い間、心を病み、1年ほど治療に専念していたことも打ち明けた。映画界への進出は、再起をかけた冒険だったのだ。それも不発に終わり、今は業界への復帰も望めない状況にある。
原因は、幼い頃のトラウマだと診断されたという。
『もう、自由になれたことは分かってる。とっくに終わったことだから。でも、頭では分かっているのに、心がそれを認めてくれない。大人になるにつれて、どんどんつらくなってくる……。いつもびくびくして、生きているのが怖くて……。今だって、おばあちゃんなっていくのがすごくつらい。見た目しか自慢できないわたしなんて、しわしわになったら誰も認めてくれなくなっちゃう……』
弓子は、里奈の恐怖に〝触れた〟ような気がした。
弓子自身、愛する者を死に追いやった傷に怯え続けてきたのだ。悩み事とは無縁に見えた里奈もまた、深淵の上に張られたロープの上でかろうじてバランスを保って生きている。誰にも理解されずに、たった1人で……。
その瞬間、里奈は姉以上の存在になった。運命と闘う〝戦友〟だ。
自分は里奈の助けで世界を変え始めるきっかけを得た。ならば、次は自分が里奈を支える番だ。身を削ってでも、苦痛から守ってやりたい。
弓子は自然とつぶやいていた。
『わたし、あなたのためなら何でもするから……』
里奈は弓子を見つめ、母親の声に応える赤ん坊のような微笑みを見せた。
『本当に?』
弓子は、里奈の目を見つめてきっぱりとうなずいた。
だが、最後に会った日、里奈の表情は暗かった。
『わたし、ストーカーに狙われているみたい。事務所にも警察にも言ったんだけど……。ゆみちゃん、一緒に暮らしてくれないかな……』
里奈なら、ストーカーにつきまとわれても当然だ。気弱になっているだけだと思ったが、弓子は即座に応えた。
『いいよ』
里奈の不安が収まらないのなら、しばらく同居してもいいと考えた。そろそろ自分も生活を変えるべき頃だ、と。その後は里奈も笑顔を取り戻し、カラオケ店へと向かったのだった。
拉致されたのは、次の朝だ――
*
弓子は里奈について、当たり障りのない部分だけを語った。それでも高志には、里奈に寄せる信頼が伝わったようだ。
高志はうなずいた。
「確かに、その人が関係あるとは思えないね……」
と、不意に〝天の声〟が割り込んだ。
『自己紹介も終わったな。ゲームを始める前に、君たちが置かれた状況を確認しておこう。モニタを見たまえ』
2人の視線は、いつの間にかワイヤレスキーボードが置かれていたMacのディスプレイへ向かった。画面に、クイックタイムプレーヤーが起動する。映像を管理するアップル純正のソフトだ。リモートコントロールされている。そこに、セキュリティー用の監視カメラの画像のようなものが表示された。病院の一室を、壁の上から見下ろしたような荒い映像だ。
白衣を着た太めの女性の背中が映っている。医師らしい。その正面のドアが開く。1人の女性が入ってくる。痩せ形だが、体の線を隠すような服を着ている。妊娠しているようだった。産婦人科の診察室らしい。
高志が大きく息を呑む。
「まさか……」
声が言った。
『君の奥さんだ。奥さんと、お腹の子供』
高志が立ち上がって天井に向かって叫ぶ。
「子供には手を出すな!」
かすかな笑い声が漏れる。2人を見下したような口調――勝利を確信した声だ。
『出さない。君たちさえ反抗しなければ。だが、覚えておくように。この医者は金に困っている。ホストに入れ込んだそうだ。勤務がつらすぎて、逃げ場がなかったと言った。だから、我々が大金を用意した。命令に従えば、それが手に入る。彼女は命令を待ってる』
高志が必死に怒りをこらえながら問いただす。
「命令って、何だよ……」
『薬を渡すだけだ。〝精神安定剤だ〟と偽ってね。眠れないらしい。君と急に連絡が取れなくなったからだ』
「何の薬だ⁉」
『ミフェプリストン。EUやアメリカでは承認されている薬で、奥さんには影響がない。だが、お子さんには安全とは言い切れない。妊娠初期に使用される経口中絶薬だ』
「やめろ!」
『君たち次第だ。佐野君の抵抗も許さない。だから宮崎君は、佐野君にも指示を守らせるように。我々は、言ったことは実行する。それはすでに体験しているはずだ』
高志は言葉を返せなかった。
弓子が間に入った。
「命令に従います。だから、これ以上何もしないで……」
『君が従順な点は評価する。だからといって、安心はしない。今は気力を失っているようだが、この先もそうだとは限らない。君の抵抗を防ぐ手だても、もうすぐ整う』
弓子は小さく息を呑んでからつぶやいた。
「わたしにも何かするの……?」
『しばらくすれば分かる。さて、これで状況は整理できた。ここからがゲームの説明だ。いいかな?』
高志が厳しい顔でうなずく。
「ゲーム、か。勝てばいいんだろう?」
『話が早いな。さて、今、君たちと同じ状況に陥っているチームが4つある。君たちはそのひとつだ』
「4つ?」
『LAからデジタルドメインのアイザック・ブラウン。ニュージーランドからウェタデジタルのピーター・ギルモア。ロンドンからMPCのダン・ウォーターズだ。それぞれにアシスタントが1人ずつ』
高志は口を半開きにして返事もできなかった。
弓子が高志に問う。
「誰? 知ってる人たち?」
高志がはっと我に返る。
「みんなプロ中のプロだ。3Dアニメーションのね。ピーターとは組んだこともある」
『そう。この3組が君たちの〝敵〟だ』
「敵?」
『技術を競い合ってもらう』
「みんな誘拐したのか⁉」
『強敵揃いだろう?』
高志の表情が曇る。
「でも……なぜアイザック? LAではティム・アンダーソンがナンバー1だ」
『能力の評価は、作業の内容で変わる。ティムはチームリーダーとしては抜群のセンスを持っている。だが、少人数で自らの手で作業するなら、アイザックに優位性がある。なにより、我々には君やアイザックのような一匹狼が必要だった。しばらく姿が見えなくても騒ぐ人間が少ない』
「職場じゃそうはいかない」
『今はみんなオフだ』
高志は納得できない表情を見せた。
「そうはいっても、アイザックは周回遅れの2番手だ。というか、ティムのアイデアが突き抜けている……」
『この競技には、彼の独創性が逆に邪魔になる』
高志は小さく肩をすくめた。
「まあいいさ、〝天の声〟がそう言うなら。他のチームもみんなこの建物にいるのか?」
『それぞれ別のフロアにいる。人知れず全チームを集めて拘束するには、ドバイが最適地だった』
「なんのために、そこまで……」
『君たちに、ある哺乳類を渡す。それを解析して、3Dアニメーションとしてデータ化し、スピードと完成度を争う』
高志が呆れたようにつぶやく。
「そんなことかよ……。金さえ出せばすむじゃないか。彼らのスタジオなら、どんな生き物でも作り出せる。ウェタは〝アバター〟シリーズで架空の生態系を深めている」
『確かに、見た目だけのデータなら、CG制作会社に依頼すればいい。我々が求めているのはハリボテの画像じゃない』
「じゃあ、なんだ?」
『一言で言えば、生物の内部まで可能な限り忠実に再現したデータだ。皮膚や体毛の質感や柔らかさは当然として、筋肉の色や形、血管の太さや通り道、骨の曲がりや歪み――。臓器のひとつひとつを独立したデータとして実物通りに再現する。そしてそのパーツを組み合わせた総合体として、対象物をモニタ上に生き返らせる。当然、自由に動かせることが必要だ』
「そんな……無意味だ。どれだけでかいデータになるか……」
『意味を決めるのは我々だ。データが膨大なことは確かだがね。誰もやったことがないから、正確には分からない』
「意味って、なんだ?」
『その種の質問は、反抗と見なすが?』
高志が小さく息を呑む。
「悪かった……。で、どこまで正確なデータが必要なんだ?」
『可能な限り』
「精度をほんの少し高めるだけで、データ量は幾何級数的に増えていく」
『その限界を探るのもゲームの目的だ』
高志の目に、鋭い光が宿る。
「実験……か?」
『4つのチームには、同じ命題が与えられる。どのチームが最も早く、優秀なデータを制作できたかを競う』
高志は、与えられたテーマにどう切り込むかを瞬時に計算し始めた様子だ。
「どちらを優先する? 時間か、精度か」
『時間は重要だ。だが、精度を犠牲にしては意味がない』
「アニメ化はどの程度必要なんだ?」
『自在に動かせなければ生き返ったとはいえない。しかも、動きはあくまでも実物に忠実に』
高志は深くうなずき、天井をにらみつける。
「勝てば子供を救えるんだな?」
『勝ててからの話だ』
「負けたら?」
『女医が笑う』
高志が叫ぼうとするのを、弓子が制する。
「哺乳類って、何⁉」
『廊下に出て右へ。突き当たりのドアの先だ』
高志と弓子は目を合わせてから、ドアへ走った。出て、すぐ右へ。
白いドアを開けた先は、グレーの部屋だった。高志が制裁を受けた部屋、弓子がビデオを録画された部屋らしい。床に広がった高志の血は消され、弓子が縛られた椅子もない。カーテンに覆われた部屋に残っていたのは、白い手術台だけだった。
その上に、〝哺乳類〟が載せられていた。
肘から切断された、人間の腕だった。
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