4
弓子は、部屋の片隅のソファーに横にされていた。拘束は解かれている。起き上がって周囲をじっくり見回す。初めて見る部屋だった。普通の家の寝室にしか見えない。監禁にはそぐわない。高志の寝室をコピーしたのだろう。相変わらず同じ服装だった。だが、不快感はなかった。空調は最適で、湿度も温度も意識せずにすむ。
すぐ脇のベッドで、高志が横になっている。薄く白い毛布だけをかけられ、不自然ないびきを立てていた。
近寄りたくなかった。何もかもが謎のままなのだ。
高志は一体何者なのか。ここは中東なのだという。確かに、廊下にはアラビア語が印刷されたタグが落ちていた。だが、なぜそんな場所に連れてこられたのか。誰が、そんな犯罪を必要とするのか。拘束された自分を、何のためにビデオで撮影したのか。
そもそも、なぜ自分が拉致されなければならないのか――。
そして、意識を失う前に聞かされた〝音〟が耳に蘇った。
オフロードバイク独特の単気筒のエンジン音。転倒して路面を滑る金属音。救急車のサイレン――。
あの音、だ。
文哉の事故――。
弓子が佐藤文哉と出会ったのは、両親が望んでいた大学に入学して1年後だった。交通遺児の奨学金と事故の慰謝料で一人暮らしをしていた弓子は、文哉のアパートに足繁く通い、朝を迎えた。なるべく早く結婚しようと話し合ってはいたが、互いが就職して一人前になるまでは文哉の親に関係を明かすつもりはなかった。
最初の事故は、弓子が20歳になった1ヶ月後に起きた。バイト先からオフロードバイクで戻ってきた文哉は、アパートで待つ弓子の目前でダンプに巻き込まれた。文哉は意識を失ったが、幸い傷を負ったのは右頬とバイクだけだった。セミプロ級のモトクロスの腕が、命を救ったのだ。弓子は救急車で病院へ付き添った。文哉の両親が山梨から到着するまで病室を離れなかったが、両親には会わなかった。7年間、会わなかったことを責め続けてきた。
異変が起こったのは、文哉が退院してからだった。
文哉の顔は、事故を起こす前とほとんど変わりなかった。高度な皮膚移植が成功した成果だった。頬の脇にわずかにケロイド状の手術跡が残るだけで、始めて出会った相手なら違和感も持たなかっただろう。弓子も手術の成功を喜んだ。しかし弓子の記憶からは、救急車の中で見た文哉の〝顔〟が消えていなかった。
皮膚がざっくり切り裂かれ、めくれ上がった頬。にじみ出す血の中に、真っ赤な筋肉の束と白い脂肪のかたまりがうごめく――。
サイレンが鳴り響く救急車の中では、文哉が死ぬのではないかという恐怖を味わっただけだ。なのに、恋人の〝内部〟を見たショックは心の底に根を下ろし、いつの間にか成長を始めた。
――わたし……なにが許せなかったんだろう……
明るい場所で文哉と向き合う時は、不気味さも嫌悪も感じなかった。それなのに、薄暗いベッドでは顔を見上げることができなくなった。目をつぶっても、明かりを消しても、血まみれの頬が目の前に浮かぶ。何度かは、我慢できた。文哉は、それまで繰り返してきたように絶頂を迎え、穏やかに眠った。乳首を転がす指先の優しさも、背中を抱きしめるたくましさも、何も変わっていなかった。
だから弓子は、耐えた。
きっとすぐに、今まで通りに戻れる――と、言い聞かせて。
だが抱かれるたびに、救急車の記憶は強まった。あまりにもろい人間の身体に対する疑念に、胸を締め付けられた。あやふやな人間の存在そのものに、不安を覚えるようになった。そしてある日、我慢が嫌悪に変わった。次には、嫌悪が恐怖に変わった。文哉が眠るまで、吐き気をこらえるのに必死だったのだ。
たった一度見ただけの恋人の惨状は、弓子を根底から変えた。
その朝、弓子は文哉が起きるのを待たずに部屋を去った。
『お別れさせてください』とだけ書いたメモを残して――。
友人からの電話で文哉の死を知らされたのは、その日の昼だった。弓子の部屋へ向かう通い慣れた道で、バイクが転倒して反対車線に飛び出し、バスにひかれたのだ。即死だった。弓子は自殺だと直感した。たとえ動転していても、積み重ねた訓練と反射神経は初歩的なミスを許さないはずだ。世間的には単純な〝事故〟でしかなかったが、弓子にはまぎれもない〝事件〟だったのだ。それも、殺人に近い事件……。
弓子は文哉が何を考えていたのかを思い知った。
文哉自身は顔の傷を忘れたように明るく装っていたが、内心では怯えていたのだ。自分を拒むようになった弓子の態度に、自信を失っていた。そのストレスに耐えていたのだ。
そして弓子のメモが、文哉が生き続ける意志を断ち切った。
弓子は、山梨での葬式には出られなかった。メモを書いたのが自分であることは、とうてい両親には話せない。病院で恋人として名乗りでなかったことを、今でも悔やんでいる。最初に打ち明けていれば、逃げ続けずに話せたものを……。
その後、弓子は大学を辞め、専門学校に通い始めた。親が望んだ大学は、自分の希望ではなかったからだ。しかも通う場所や友人が同じなら、文哉を思い出す。
弓子は、自分を支えられる夢を求めた。
その頃の弓子は、グラフィックデザインに関心を持ち始めていた。だから専門学校でMacによるDTP――デスクトップパブリッシングを学んだ。印刷物のデータをコンピュータで作る仕事だ。学んだ技術を生かせる職場にもついた。だが、現実は厳しかった。デザイナーとして生きるチャンスは与えられたが、活かせなかった。能力が足りなかったのだ。自然と、仕事の内容は地味な裏方に変わっていった。自らを救うためにすがった夢に手が届かないことを思い知って、辞職を申し出たこともある。それでも会社は、手慣れたスタッフを失うことを嫌い、弓子を慰留した。引き換えに要求したのが、誰とも顔を合わせずに済む〝個室〟、つまりサーバルームでの孤独な作業だったのだ。
ようやく社内に居場所を見出した今は、データ管理に追われる単調な日々に耐えていた。夢を追う翼を失なえば、地上で朽ちるしかない。その上に、女としての気持ちの高ぶりは、あの〝事件〟から消え去ったままだ。
運命の分岐点が、文哉の自殺だったのだ。
――どうして許せなかったの……? ほんの少し、顔が変わっただけで……
ここ数年、弓子の胸を塞ぎ、じわじわと成長し続ける難問だった。
だが、今はそんな苦悩をあざ笑うかのような危機の渦中にある。
――どうすればいいのよ……
うなだれている余裕すらなかった。目の前で、共に捕われた男が傷つけられた。抵抗すれば、次は刃が自分に向かってくるだろう。
抵抗しなければ無事でいられるのか?
その確信もない。
ないが、従うしかない。少なくとも、全てが謎の今は……。
ともかく、行動しなければならない。
ドアがふたつあった。ベッドで横になったままの高志を横目で見ながら、開ける。中は、ゆったりとした浴槽が備えられたバスルームだった。もうひとつのドアを開けると、高志の仕事場だった。トイレの横のドアが寝室につながっていたのだ。
仕事場のテーブルの上には、カップラーメンが10個以上積まれていた。見慣れないパッケージだったが、カップヌードルのようだ。手に取って表示を見ると、インドで生産されたものらしい。その横には大型の電気ポットが置かれ、すでに湯は沸いてた。コンセントはテーブルの下の床に据え付けられている。
じっとカップラーメンを見つめる。空腹だった。
口をテープで塞がれ、拘束され、しかも高志への〝制裁〟の引き金を引かされた。神経はずたずただ。全身に冷や汗が吹き出したのも覚えている。
それでも、空腹だった。
溜息が1つ、漏れる。この溜息も、監視されているに違いない。今は、正体不明の〝天の声〟に一挙一動を監視されている。理由はどうあれ、監禁されているのだ。自由など、ほんの一瞬もあるはずがない。何も考えたくない。
カップラーメンを作り始める。
ラーメンの陰に、iPad miniが置かれていた。手に取ると、指先が何かに触れる。裏返すとポストイットが貼ってある。下手な字で『びでおをみろ』と青いマーカーで書かれている。その下に〝Part 1〟の文字が彫り込まれている。数分間、ポストイットの文字を見つめた。見つめても、意図が分かろうはずはなかった。
弓子は再び溜息を漏らすと、iPadのホームボタンに触れた。液晶画面に明かりが灯る。弓子の指紋はすでに登録されていたのだ。ムービーファイルを開くと、1つだけデータが入っていた。再生を始めると机に置き、カップラーメンをすすりながらビデオを見る。一度も食べたことがない、奇妙なスパイスの風味があった。麺は、伸びきっている。
iPadの画面に登場したのは、異様ににこやかな若い女性だった。まるで、デビューしたてのアイドルタレントだ。白衣を着ているにもかかわらず、全く医療関係者に見えない。甲高い声でシナリオを読み、わざとらしい演技を続ける。傷の消毒方法など、高志に必要な医療処置が解説されていた。用具や薬品は、バスルームの棚に揃えられているという。
食事を終えた弓子は、白い廊下へのドアを開けた。鍵はかかっていなかった。最初に目覚めた、自分のオフィスへ行ってみる。やはり鍵はかかっておらず、内部は目覚めた時と変わっていないようだ。ただ、iMacの前にはキーボードが置かれていた。
〝天の声〟は、抵抗を封じたと確信したのだろう。
突き当たりの壁に、2つのドアがあった。壁と同色なので、最初は気づかなかったのだ。ドアのひとつは、バスルーム。洗濯機も据え付けられていた。その横にはトイレがあった。
シャワーを浴びたかった。そして、不意に気づいた。
弓子は椅子に縛り付けられ、高志への制裁を目の当たりにした。恐怖の汗を全身から絞り出された。それなのに、ブラウスの腕はさらりと心地よく、首周りにべたつきもない。眼鏡に、シミもない。確実に、全く同じ服に着替えている。いや、着替えさせられている。
他人の手で……。
全身に悪寒が走った。意識を失っている間に服を脱がされ、全身を拭われ、新しい服を着せられた。自分が知らないうちに――
着替えの他に何をされたのか、考えるのもおぞましい。
とたんに、胃が収縮した。口に入れたばかりのカップヌードルが一気に喉にこみ上げてくる。便座を抱え込むようにしゃがみ込み、残らず吐き出す。
胃液の臭いが口の中から鼻を突く。涙があふれる。レンズが曇る。
自由など、一瞬たりとも存在しないのだ。
それでも、空腹感は残った。眼鏡を額に上げて、手のひらで涙を拭った。亡霊のように力なく立ち上がると、バスルームを出る。
もうひとつのドアの先は、弓子のアパートを真似た部屋だった。ただ、実際のワンルームよりもふた回りほど広く感じる。ベッドの脇には、友人のショーモデルからプレゼントされた大きなスヌーピーのぬいぐるみまで置いてあった。新品のようだ。その横に据えられているクローゼットハンガーを開いてみる。中には、弓子が普段着ている服が詰まっていた。トレーナーやコットンシャツ、そしてゆるめのジーンズが多い。ざっと見て、10着ほどのセットが吊り下げられている。皆、タグは付いていないが新品のようだ。まれにしか着ないスーツやジャケットが、隅に数着下がっている。
ふと気づいた。
――廊下に落ちてた値札、ここから取ったんだ……。
再び溜息を漏らし、普段着に着替える。
小さなキッチンも、実際のアパートと似た位置に据え付けられていた。コンロだけはガスではなく、IHだった。その脇の冷蔵庫には、野菜も含めて様々な食材が入っている。日本で買うものに似ているが、包装のテープや表示に微妙な違和感がある。日本語はどこにも書かれていない。冷蔵庫の横のカラーボックスには、米の袋やインスタント食品が揃えられている。それらは日本から運んだらしく、見慣れたものも多い。食材は量も種類も豊富だ。シンクの下には、アラビア語のラベルがついたミネラルウォーターがぎっしり詰め込まれている。
その脇に、プラスティック製のゴミ箱があった。小学生が書いたような字が書かれたポストイットが貼ってある。『ごみはここにいれろ ろうかにだしておけ』
突き当たりのカーテンを開く。そこも壁で、窓はなかった。
自分に与えられた部屋を調べ終わった弓子は、白い廊下に戻った。廊下にあるドアは全部で6か所。そのうち2つは弓子と高志の部屋で、残りの4つは鍵がかかったままだ。右側の突き当たりは、廊下を遮断するように閉ざされた防火扉だった。スティールの防火扉には通常の大きさのドアが取り付けられている。
弓子は高志の部屋に戻った。
仕事場に入ったとたん〝天の声〟が降った。
『体を壊してほしくない。何か食べたまえ』
意外なことに、怒りが沸き上がる。
「食べたわ。見てたんでしょう?」
『固形物を受け付けないなら、冷蔵庫にゼリーと牛乳がある』
「さっき見た」
『ここが君たちの生活の場だ。早く慣れることだ。君が働けなくなることを我々は望まない。釘を刺しておくが、自殺などは考えないように。仮に試みても、阻止する』
「自殺? わたしが?」
文哉の死に打ちのめされた直後でさえ、自殺を考えたことはない。弓子は始めて、そういう解決方法もあることに思い当たった。
『可能性の1つだ。宮崎高志君の治療を始めてもらえるか?』
弓子は思わず天井を見上げた。
「そんなこと、やったことがない……」
『覚えたまえ。方法は何度でも見られる。大量出血で弱っているから、早くした方がいい』
「あなた方のお医者さんが見ればいいのに」
『緊急事態には、そう対応する。だが、これからの共同作業を考え、2人だけで事態を解決してもらうことにした。彼が働けなくなれば、君も必要なくなる。それが君たちの関係であることを、はっきり認識したまえ』
理不尽だ。だが、反抗はできない。
弓子は高志の寝室に戻った。高志は小さないびきをかき続けている。麻酔で眠っているようだった。
弓子はバスルームへ入り、用具と薬品を揃えて戻った。高志の毛布をそっとめくる。全裸だ。出血が多かったのか、体全体が青ざめて見える。ペニスを切断された陰部には、大きなガーゼが貼り付けられていた。初対面の男の陰部を見ることには、当然、抵抗がある。その上、ガーゼを剥がして再び大量出血が起これば、命に関わる。処理できる自信などない。なにより、ガーゼを外せば人体の内側を見なければならない。
あの事件がもたらした、運命の分岐点……。
だが、命じられてしまった。今は、やるしかない。
ゆっくりとガーゼをはがす。陰毛はすっかり剃られていた。傷口も、きれいに縫合されている。素人目にも、プロの技術だと分かる。弓子は、かつての恋人の陰部もはっきりと見た記憶はない。それでも、ペニスが根元から切断されている不自然さは衝撃だった。
思わず、涙があふれた。
「どうしてこんな……ひどい……」
弓子は深い深呼吸を何度も繰り返し、iPadの解説を再生した。ビデオの指示に従いながら、消毒し、使い捨て注射器で抗生物質を打つ。その間高志は、わずかなうめき声を上げるだけだった。最後に新しいガーゼに張り替える。再び、手元に涙がこぼれ落ちた。
高志が唐突に、かすれた言葉を発した。
「泣いているんだ……」
弓子ははっと身を起こした。あわてて高志に毛布をかける。
「ごめんなさい……」
眼鏡を上げて涙を拭う。
「謝ることはない。ありがとう。でも、これからは自分でやりたい……。見られたくない……」
「……そうよね」
「だけど、起きられない。身体に力が入らない」
やはり、麻酔をかけられている。
「痛いですか?」
「感じないんだ……何も……」
弓子は高志の視線に入るようにiPadを掲げた。
「治療法のビデオが入っています。次の消毒は6時間後。ベッドの横に置いておきますから。それまでに起きられたら、自分でお願いします。わたし、自分の部屋にいます。治療の時間をちょっと過ぎたら、こちらに来ます。ちゃんとノックしますから」
「ほんとうに……ありがとう……」
弓子は弱々しい足取りで、自分の部屋へ戻った。
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