3
意識が戻った弓子は、身動きができなかった。声を出そうとしたが、呻きにしかならない。粘着テープで口を塞がれていた。まぶしい。目の奥に痛みが走り、目蓋を開けない。それでも、ぼやけた意識が次第に焦点を結んでいく。ゆっくりと自分が置かれた状況が理解されていった――
ごつい肘掛けがついた堅い椅子に座らされていた。肘掛けから腕が離れない。縛られている。つま先が床に触れている。力を込めて椅子を持ち上げようとしたが、重い椅子はびくともしない。首は動かせる。精一杯首をひねって足下を見る。椅子はボルトで固定されているようだった。
――今度は、なに……?
冷静にならなければいけない。あふれそうになる涙をこらえて、辺りを見回す。
すべてが淡いグレーの部屋だった。天井も床も、壁も――いや、壁ではない。天井から床まで垂れ下がったグレーのカーテンが周囲を覆っている。服は着たままだったが、ジャケットは脱がされている。それでも、全裸で人前に晒されているかのように羞恥心をかきたてられた。
弓子の真正面にはまぶしいライトがあった。その隣りに、三脚に乗ったビデオカメラが据えられていた。弓子に向いたレンズの脇に、小さな赤いランプが光っている。
――うそ……録画してるの……⁉ わたしを……⁉
椅子の横には、スタンドに立てられた計測器のようなものがあった。警察がスピード違反を取り締まる装置のようにも見える。液晶画面は付いているが、画像を写すものではないらしい。デジタル表示の数字がいくつか並んでいるだけだ。一番目立つ大きい数字が、上部に二段で表示されていた。上も下も数値は000だ。
――何、この機械? なんの数字……?
ライトの奥に据えられたベッドのような物に、意識が焦点を結んだ。目が、光に馴染んでくる。真っ白なパイプベッドに似ているが、横になる位置が高い。
――手術台……?
そこに高志が、仰向けで寝かされていた。文字通り、全裸で。陰部のあたりに、腰を覆うように箱状の装置が取り付けられている。まるで、人体切断を見せるイリュージョンだ。
高志は身動きしない。
〝天の声〟は、〝制裁を加える〟と言った。目覚めさせなければ危険だ。
できるだけ身を乗り出して叫ぶ。
〝起きて!〟
叫び声は粘着テープで止められた。それでも、高志の意識を刺激できたのかもしれない。
高志が身じろぎする。ゆっくりと目を開けた。ガスの効果が消え始めているようだ。よく見ると高志の体も手術台に拘束されていた。腕も足も、太い革バンドで締められている。
高志は状況に気付いたようだった。不意に動きが激しくなる。身をよじって拘束を解こうと試みる。陰部の装置がぐらぐらと揺れる。
「畜生! なんだ、これは⁉」
もがいても拘束は外れない。
そして、甲高い〝天の声〟が降ってきた。
『2人とも、目覚めたようだね。ではルールを説明しよう』
「うるさい! 自由にしろ!」
『それはできない。制裁を加えなければならない』
高志の記憶が戻ったようだった。一瞬息を呑み、つぶやく。
「これが制裁なのか……?」
弓子は、ただ会話を聞く傍観者でしかなかった。
またしても〝天の声〟に含み笑いが混じる。
『制裁の、ほんの始まりだよ。君は、全裸だ。そして腰に、ある装置をつけさせてもらった。車のエアバッグに手を加えた物でね。遠隔操作で中の火薬が爆発する』
「爆発⁉」
『火薬といっても、おもちゃの花火程度だ。日本車のパーツだから、動作は確実で安全性も高い。ただし、この爆発でちょっとした刃物が作動する。ミニュチアサイズのギロチンだと考えてもらえばいいだろう。そのギロチンには、君のペニスが挟まれている』
「は? ばかな……」
『我々の意図は明快だよ。君たちには今後、あるゲームに参加してもらう。それには、絶対服従が前提となる』
「するか! そんなもん!」
『君の性格は充分調査した。精神的な拘束を嫌う――というよりは、極端に社会性が欠けている。だから、こんな非道な装置を準備せざるを得なかった。すべては、君を服従させる手段だ』
「そんな勝手な話が……」
『我々が、そう要求している。君の意思は考慮の対象ではない』
それは、弓子に向けられた言葉でもあった。弓子の意思など、意味を持たないのだ。弓子は、自分が拘束されていることもビデオ撮影されていることも忘れていた。
高志は言った。
「命令に従う。ゲームは僕の本職だ。だから、自由にしてくれ」
『嘘だ。事実、我々の目をかいくぐって抵抗を始めた。だから、今のうちに反抗心を打ち砕くべきだとの結論が出された』
「こじつけだ! iPadはわざと残したんじゃないのか⁉」
『その目敏さが危険なのだ』
「やっぱり……。でも、なんでギロチンなんだよ……」
『今後のゲームには、手も足も必要だ。だが、ペニスは要らない。精神的なダメージを与えるにも、最も適した部位だ』
高志がうめき声を絞り出す。
「なんだって、こんなこと……」
『君がこのゲームにふさわしい才能を持っているからだ。大丈夫、局所麻酔で、痛みは感じない。専従の医師もいる。切断後の処置は引き受ける。しばらくは働いてもらわなければならないからね』
「やめてくれ……そんなばかなこと……」
『これほどの手間と資金をかけているのに、なぜやめると思う? 君が逃げられることはあり得ない』
「従う! 従うから、ギロチンはやめてくれ!」
また、含み笑いが聞こえた。
『場所を知りたかったんだろう? 確かにここは、アブダビだ。中東最大の都市、ドバイのすぐ近く――』
「聞きたくない! 知らなくていい!」
『知らなければ制裁を逃れられる、という問題ではない。知ろうとした事実が危険なのだ』
「服従するから!」
『UAEは、マスダールシティという環境都市を建造しようとした』
「聞きたくない!」
『石油で稼いだ巨額の資金を投じて、いっさい石油に頼らないで生活できる都市を生み出そうと計画したのだ』
「黙れ!」
『君は、命令を下せる立場にはない』
高志の顔色が変わる。
「……すまなかった」
『それが、制裁を必要とする理由だ。君は一匹狼だ。猛獣、と呼んでもいい。君が、我々を猛獣使いにさせるのだ』
高志のつぶやきは、涙声に変わっていた。
「なんだってこんなことに……」
〝天の声〟は、何事もなかったかのように先を続ける。
『マスダールシティの建設には多くの日本企業が参画している。環境技術では日本がトップランナーだからだ。だがドバイショック以降、その建設は鈍化した。コロナウイルスのパンデミック後は、文字通り忘れ去られている。計画は遅れに遅れ、この先の展望も描けていない。そして、破産した建物のひとつを我々が買い取った。実験施設、としてね。外部は我々の仲間で固めてある。内部をのぞき見ることもできない。逃げることもできない』
「わかったよ……わかったから……」
〝天の声〟は淡々と続ける。
『では、始めようか。佐野君の腕には今、自動血圧計がセットされている。君たちが協調してゲームを進められるかどうか、テストしてみよう』
唐突に名前を呼ばれた弓子が、天井を見上げる。
〝え?〟
そして気付いた。弓子の腕は、肘掛けに革バンドで固定されているだけではない。右の二の腕には、ブラウスの上に血圧計の太い帯が巻かれているのだ。
『彼女の平均血圧は、上が110程度だ。これから3分おきに血圧を測定していく。冷静に対応できれば、血圧は上昇しない。だがアドレナリンが大量に排出されれば血圧は上がる。測定値が180を超えた時点で、エアバックに点火する。測定は、5回行う。すべてが範囲内であれば、今回の制裁はなかったことにする。佐野君が5ラウンド立ち続けることに期待したまえ。幸運を祈る』
高志の怯えた目が弓子に向かう。
言葉を発する間もなく、椅子の下からブーンというポンプの音がした。血圧計の帯が次第に膨らみ、弓子の腕を圧迫していく
――うそ……いや……
自分の呼吸が激しくなっていくのが分かる。
高志が叫ぶ。
「血圧を上げるな!」
弓子にはどうしようもなかった。モニタの数値がぐんぐん上がっていく。
130……140……。
止められるものなら、止めたい。だが、そんな方法は知らない。
高志が命じる。
「深呼吸だ! 深呼吸で血圧は下がる!」
弓子は激しくうなずき、慌ただしく呼吸を繰り返す。だがそれは、浅く激しい呼吸だ。
160……170……。モニタの数値はどんどん上昇していく。
――だめ……止まらない……
高志もじっとモニタを見つめている。そして、180を超えた。
弓子は固く目をつぶった。
高志も息を詰める。
何も起こらない――
ポンプ音が止まる。数値は185を表示している。
「故障か……?」
エアーが抜けるかすかな音が起きた。数値がぐんぐん下がっていく。測定が開始されるのは、これからなのだ。
180……170……。
二人が息を詰めて見守る中、測定値が表示された。
164│92。
通常の弓子では考えられない高い数値だった。
高志は大きな溜息を漏らしてから言った。
「助かった。これなら大丈夫……。いいかい、深呼吸だ。それじゃ早過ぎる。ゆっくり、深く、大きく。とにかく、落ち着いて」
高志の要求は分かる。自分が我を失ったことも分かる。弓子はうなずき、息を吸い始める。
――ゆっくり……深く……
そのとき、突然バイクのエンジン音が聞こえた。〝天の声〟と同じスピーカーから流されている。
高志が天井に目を向けてつぶやく。
「何だ、この音……?」
安定したエンジン音に、唐突に急ブレーキの音が混じる。タイヤが甲高い音を上げる。
弓子は理解した。
――彼の事故……
バイクのエンジン音は、壁に激突するようなクラッシュ音で止まった。そしてかすかな救急車のサイレンの音。
弓子の表情を見つめていた高志もバイク音の意味を察した。
「なんだ……何かの事故か⁉ 関係あるのか⁉ 大丈夫、落ち着け! 何も起こらないから! 脅かしだ!」
大丈夫ではなかった。弓子の記憶が鮮明に蘇る。頬の皮膚がはがれ、筋肉が露出した恋人の顔――
「深呼吸だ! 気を鎮めろ!」
弓子の呼吸は、浅く、激しくなっていく。それは、不意に目の前に現れた〝亡霊〟への拒否反応だった。眼を閉じた。だが、耳は塞げない。サイレンが大きくなっていく。
――いや……
全身から汗が噴き出す。眼鏡が曇る。額から落ちたしずくが、レンズにしたたる。
弓子の表情を見つめる高志の目にも、恐怖が吹き出している。
「だめだ、深呼吸だ! ゆっくり息を吸え! ゆっくり! 何も思い出すな! こっちを見ろ!」
ポンプ音が始まった。数値が上昇していく。
高志が天井に向かって叫ぶ。
「やり方が汚いぞ!」
〝天の声〟は反応しない。数値が180を超える。
190……200……。205で止まった。エアーが排出されていく。測定値は、184だった。
「よせ!」
高志の腰を覆う装置の中で、パンと小さな破裂音がした。
弓子は堅く目をつぶったまま、唇を噛み締める。救急車の音に動転し、高志を見ることもできない。何も考えられない。
高志は痛みを感じていないようだった。麻酔が効いているのだ。精一杯首を起こし、息を詰めて装置を見つめる。見た目には変化がない。
「脅かし……か……?」
そうつぶやいた時、装置の下に血がにじみ出した。血はあっという間に手術台にあふれ、床に落ちて広がる。
「ウソだろう……」
手術台と弓子の椅子の下から、ガスが噴出した。
弓子がガスに包まれる――
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