第1章・拉致

 佐野弓子の足元から、不意に日常が崩れ去った。

「えっ⁉」

 思わず上げた自分の声に驚き、改めて辺りを見渡す――。

 ほんの1分前は、机に突っ伏して眠ったのだ……と思っていた。

 印刷会社の一室。殺風景なサーバルーム。1人きりで画像データに向き合う毎日。

 目覚めた直後は、仕事場だと信じて疑わなかった。疑う理由などなかった。目の前には、見慣れた27インチiMACのモニタ。 淡いグレーの壁に囲まれた窮屈なオフィスだ。

 眠ってしまった――と納得するのも当然だった。いくつものカタログ制作が重なって徹夜が続くような時期には、珍しくもないことだ。永遠に続くかと思われる単調な作業に区切りを付けたくて、あえて頬杖をついて眠ることもある。

 だが、思い出せない。

――今、何をしていたっけ……?

 ぽっかりと空いた記憶の穴。

――疲れているのかな……。

 違和感があった。何かが微妙に違う。静かなのだ。

 いつもなら、壁際のラックに詰め込まれたサーバが空調とせめぎあい、小さなうなり声を上げている。サーバの発熱を抑えるため、一年中肌寒さを我慢しなければならない部屋だった。なのに、生暖かい。そして、あるべき物がなかった。キーボードだ。iMac本体の前に、マジックマウスだけが置かれている。

――何のいたずら? 誰の仕業?

 思い当たる節はない。いつも、1人で仕事を進めているからだ。同僚たちは少人数のチームを組んで大部屋に散らばり、様々な印刷物やウェブページをデザインしている。が、彼らは弓子が整理したデータを出し入れするだけで、内線電話や社内メールでやり取りするのが常だ。

 弓子はクリエイティブ部門の一員ではあるが、飲み会に出席しなくても誰も気づかないような存在だった。直接顔を合わせて話をするのは、トイレで鉢合わせする時ぐらいだ。

 その孤独感は、弓子が自ら望んだものだった。

 家族もいない。独身で、彼氏もいない。大学を中退してから、7年が過ぎた。それでもまだ、心は自由になれない。捨ててしまいたい記憶から逃れるための、穴ぐら――。

 いたずらするほど自分に関心を持つ社員を、弓子は知らない。もやもやとした疑念を抱きながら、記憶を掘り起こそうとする。

――何の仕事をしてたんだっけ……。

 鈍い頭痛がする。喉がひりつくように渇いている。泥酔した翌朝のようだ。

 記憶の歯車がかみ合った。

 酒を飲んだのだ。数少ない、というより、唯一の女友達と。

 不意に昨夜の情景が頭に広がる。友人に誘われて行った先は、洒落たカフェレストランだった。ショーのモデルとして活躍していた友人にふさわしく、有名人がお忍びで訪れるような店だ。何事にも地味な弓子は居心地悪さを感じながらも、友人の業界話ににこやかに相づちを打った。深刻な話もした。その後はカラオケでストレスを解き放ち、深夜1時に別れてタクシーに乗った。翌日は、久々に休暇が取れると分かっていたからだ。でなければ、夜遊びなどできない。

 なのに、今、オフィスにいる。タクシーに乗った後のことが思い出せない。

――服は?

 胸元を見る。友人に恥をかかせないために買った、バーバリー・ブルーレーベルのジャケット。着替えてもいない。

 のどの渇きが急に激しくなった。空腹でもあった。オフィスの背後には、飲み物やおやつを入れる小型の冷蔵庫がある。

 振り返った。

 冷蔵庫がなかった。それどころか、背面の壁に並んでいるはずの棚も、ぎっしり詰め込まれた資料類も消えている。いきなりのっぺりとした壁になり、部屋の寸法が縮まっている。

「えっ⁉」

 思わず声が出た。理解できない。

 オフィスを改装したのか? それとも、別の部屋なのか? 改装の予定など知らないし、一晩で行える規模でもない。ここは、弓子の職場ではありえないのだ。それを真似た、別のどこか……。

 弓子は室内の備品をじっくりと見つめた。違和感の、別の原因に気づいた。備品が全て新しい。手垢ひとつ付いていないコンピュータのディスプレイ。擦り傷さえ見えないスチール机。引き出しを開くと、空だ。眠気覚ましのガムも、必需品のポストイットもない。埃さえ積もっていない。不意に、真新しい塗装の香りに気づく。

「なんなの……これ……」

 背筋に寒気が走った。慌ただしく辺りを見回す。

 似ている。だが、見える物しか似せていない。死角に入る部分はグレーの壁のまま放置されている。まるで、テレビドラマのセットだ。どこだか分からない。だが、意識をなくしている間に連れて来られたのなら、それは拉致だ。しかも、偽のオフィスをわざわざ造るという、膨大な手間と費用をかけて。

 面白半分のいたずらなどでは、絶対にありえない。

――誰が? なぜ? どうしてわたしを?

 疑問が一気にわき上がる。椅子から立ち上がろうとした。足に力が入らない。自分の身体ではないような気がする。睡眠導入剤のような薬物を投与されたのかもしれない。

――だから喉が乾くの……?

 椅子の肘掛けで身体を支え、無理に身体を押し上げる。立ち上がることはできたが、ふらつく。机に手をついて身体を支え、もつれる足でドアに向かった。スチール製のドアの、金属の丸いノブを掴む。鍵がかかっている。ノブの中心のツマミを回す。固くて回らなかった。内部から解錠できない。

 監禁されているのだ。考えられないことだった。

 弓子は、自惚れとは無縁の存在だった。容姿には自信がない。低い身長に、女らしい豊かさに欠ける貧相な身体。顔つきも中の下で、大きなフレームの眼鏡でなんとか十人並みに誤摩化そうしている。何よりも、その自信のなさが、女としての魅力を半減させていた。

 昨夜も友人から言われた。

〝もっとアクティブになれば、すっごく可愛いのに〟

 可愛いかどうかは別として、活発になるべきことは分かっている。それさえできれば、人生が変わる予感もある。だが、これまでは、エネルギーが涸れていたのだ。

 かつて、恋をしていた頃は、人生は弓子に笑顔を見せていた。しかし、その恋人が不意に命を絶ち、原因が自分にあったと分かった時から、笑顔は消えた。弓子は、他人と深く関わることを避けるようになった。枯渇したエネルギーが戻る時を待って。

 だから、自分が拉致される理由が分からない。

 ストーカーなどではない。そんな魅力はないと言い切れる。拉致する相手は誰でもいい、ということでもない。手間をかけてオフィスを再現している以上、弓子を狙った〝計画〟なのだ。

――なぜ、オフィス? ……何か仕事をさせたいの?

 理由としては成り立つが、それなら会社を通して発注すればすむ。担当者を指定することなど、容易い。それができないのなら、その〝仕事〟には強い犯罪性があるのだろう。だが、拉致や監禁も、それ自体が重罪だ。そんな危険を冒す理由とは、何なのか?

 そもそも、自分には仕事上の取り柄もないと思っている。デザインチームになら〝この仕事はあいつ以外に任せられない〟というクリエイターがひしめいている。弓子も1年間ほどその場に在籍した。才能を競い合い、失敗に怯え、吐き気を堪える毎日だった。自分の限界を思い知って、今の役割に落ち着いたのだ。膨大なデータを整理するだけの、一片のセンスも必要ない仕事。ミスさえなければ誰でもいい、裏方。

 そんな自分が拉致される理由が分からない。

 弓子は途方に暮れ、冷たい床に座り込んだ。頭痛が強まる。

 机のフックに、使い込んだレノマのバッグがかけてあるのが目に入った。弓子がいつも持ち歩いている物だ。出社するとすぐ、そのフックにバッグを引っ掛けるのが習慣だった。

 弓子は慌ててバッグを取った。中に手を入れてiPhoneを探る。ない。バッグを逆さまにし、中身をクッションフロアの床にぶちまけた。出てきたのは簡単な化粧品と日用品だけだった。スマホが消えている。ロフトで探し当てたスヌーピーの弁当箱も入っていない。バッグの口を開いて中を覗き込むが、何も残っていなかった。

 はっと気づいて、コンパクトを開けてみた。鏡に映る顔は、化粧をしていなかった。黒縁の眼鏡の後ろは、素顔だ。タクシーに乗るまでは、精一杯めかしこんでいた。

――誰かが落したの……?

 気味の悪い現実だった。何者かが体に触れ、iPhoneを奪っていった。

 机の角に、社用の電話が見えた。オフィスにいる時はひっきりなしに内線が飛び込んでくる電話だ。まさか、とは思ったが、弓子は机に手をかけて立ち上がり、受話器を取った。プーという電子音が聞こえる。つながっている。迷わず、外線の110番を押した。呼び出し音が聞こえる。

――お願い、出て!

 返ってきた返事は、ワイドショーの匿名証言者のように甲高く歪んだ声だった。ヴォコーダーで音声を変換している。性別も読み取れない。

『目覚めたようだね。では、ゲームを始めよう』

 弓子は受話器を放り投げた。

「いや!」

 後ずさり、背中をドアに押し付けた。監禁されたのなら、外部と連絡できるはずもないのだ。

 その瞬間、ドアの外でコトンという物音がした。背中に、かすかな振動が伝わる。床に落ちた受話器から、小さな声が届く。

『――さあ、外に出なさい』

 弾かれたように振り返った弓子は、ノブを激しく回した。とにかく、この部屋から出たかった。

 今度は、難なくドアが開いた。息を詰めて、わずかに扉を引き、外を見る。

 真っ白な廊下があった。

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