13

 カサンのことを、部屋の隅で談笑している女の子達を、隊長が来るまでの暇を持て余してカードで遊んでいる人たちを、いったい誰が覚えているのだろう。流石に家族は覚えてくれているはずだとしても、隊長は覚えてくれているだろうか。あれ以来一度も話したことのない隊長が覚えてくれているだろうか。

「ねえフォル……」

「なんだよ、覚えてんじゃねえか……」

 カサンは自分が言った言葉に些か愕然とした。口からこぼれた言葉が分からない。名札にはフォラカと書かれているが、そう呼んだとは思えないのだ。愛称……そう、昔そうやって呼んでいたようなあだ名だったと思う。

「僕は今なんて?」

「聞くなよせっかく感動してたんだから」

「ごめん」

 彼は眉を下げて許してくれたが、結局フォラカの呼び名はわからなかった。

 彼は「カミサマのご意向なんだから、お前を責めても仕方ない」と諦めていた。こういう表情をする人は珍しくないどころかここでは普通だ。誰と言われると困るが、意識して見渡せばそこらじゅうでこんな顔が見られる。四班の人はいつも笑っていて明るいが、よく見ると無理して顔を作っていた。

 思考が暗闇に引き込まれるのを遮るように、フォラカという男は唐突に何かを思い出したように手を叩いた。

「俺お前に貸した本返してもらってねえわ」

「え? 嘘、ごめん。取ってくるよ」

 カサンの曖昧な記憶の中に、部屋に置いてある自分の物ではない本が一冊あった。どこかで拾ってきたのか、誰かに借りたままなのか思い出せなかったのだ。どうやら返すべき人はこの人だったらしい。

「……待て、やっぱいいわ。そのままお前が持っててくれ」

「え、でも」

 借りっぱなしだった今までのことを思うと申し訳なくて仕方ない。今からでも返した方が良いんじゃないか、と渋るが、彼は頑として譲らなかった。

「プレゼントだ。やるよ。お前再来月誕生日だろ」

「うん……」

「それに俺が持ってるとさ……」

 言葉を濁す。


 ――全て消えてしまいます。


 隊長の言う通りなら、あの本はこの男に返したら世界からも消えてしまう、ということなのだろう。

 フォラカに借りた物を返さなくて良いと言われ微妙な顔をするが、この人は引きそうにない。それに、なくなってしまうのは虚しいのでありがたくもらっておくことにした。誕生日にはまだ早い気がするが、邪魔だったわけではない。

「あと、俺明日誕生日なんだよ。やっと……だな。お前と話せて良かったよ、カサン」

 男は名残惜しそうに俯き、それを振り払うように明るく微笑んだ。

 カサンは名を呼ばれてはっと息をのんだ。名前を呼ばれた、ただそれだけの事なのに凄く胸が暖かくなって、優しく包まれるような安らぎを感じる。

 どうしてこの班では名前を呼ぶことがタブーになっているのだろう。君、とかお前、とかそういう曖昧な呼び名はとても不便だ。名前が無いとなかなか友人になれないし、目的の人を呼び止めることも困難だ。そして、自分が呼ばれたこともわかりにくい。肩を叩かれてやっと振り向く。

 だから、名前を呼ばれることがこんなに嬉しいのだ。自分のことを認識している人がいるという確証がもてること、それがあまりにも嬉しくてしかたない。

「そっか、誕生日おめでとう、フォラカ」

「ああ」

 名札をチラ見してからお祝いを述べる。フォラカという人は気まずそうに恥ずかしそうに頬を掻いて四班を出て行った。そういえば誕生日前日は隊長を呼べと言われていたので、きっと彼はこれから隊長に会いに行くのだろう。

 彼が部屋を出て数分後、いつも通り金髪の浮遊物体が一人で入ってきてドア近くの少女を驚かせていた。

 

 ……あれ、

 ……今まで僕は何をしていたんだっけ。


 カサンは隊長に敬礼をしながらふと瞬きした。なんだか四班に来てから物忘れが酷い。朝礼の前まで誰かと話していたような気がするが、なんの話だっただろう。忘れるくらいどうでもいい話だったのだろうか。ただ、理由も分からず両目から涙があふれてきた。

 何故? 何かあった? いや、何も無いはず。タリアードにもまた会えたし、むしろここがより居心地良い場所になったはずだ。

「でも、タリは僕のこと忘れてて……」

 突如、カサンを強烈な疎外感が襲った。まるで誰かが悪意を持って「お前を覚えている人なんてだァれもいないんだよ」とねっとり囁くように。

「僕の居場所はここにはないんだ……」

 謎の痛みに耐えることの出来なくなったカサンは生まれて初めて任務を放り出し、制服のまま治安維持部隊から飛び出していった。

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