14
「皆僕のこと忘れてる……!」
一班の前を通ってがむしゃらに走り、正門から飛び出した。
何度も権力の使い方を教えて貰った黒髪の先輩の視界に入ったはずなのに、先輩はカサンの姿を認識すらしていなかった。
「どうして僕が見えてないの!」
隊長は最後全てが消えると言っていたが、まだカサンの身体はしっかりとあった。透けてもいないし、どこかが欠損しているわけでもない。今のカサンは「影が薄い」という状態だった。
走って走って、まっすぐ家族の元へ向かう。喉が火を飲んだように焼ける。脇腹は痛いし足がもつれそうになるが、早く両親と弟に会いたかった。お帰りと言って欲しかった。
治安維持部隊に入隊したのは二年と半年前の十一歳。弟が生まれて五年経った時だ。当時は家が貧しくてとてもじゃないがこの先ずっと四人で暮らしていけそうになかった。
しかしカサンは家を追い出されたわけではない。成人もしていないのに働こうとする息子を止める親と離れたがらない弟をなんとか説得して出てきたのだった。親と小さな弟のことが大好きだった少年は、親の負担を減らしたくて働きに出た。
半年に一度の休暇に会いに帰ってくるカサンを、家族はいつも笑顔で出迎えていた。弟はいつも玄関で兄に飛びつき、母は喜んで好物のシチューを作ってくれる。家にいた頃は無口だった父は、カサンの帰りを待ちわびて一日中尽きないほどの話題を用意していた。
「父さん、まだお酒飲んでなければ良いけどなぁ」
たとえ休みでなくても家の近くを通りかかると必ず寄るようにしているし、たまに手紙のやりとりもしている。四班に転属になったことはなんとなく伏せているが、それ以外は何でも話せる唯一無二の大切な家族だ。
朱の建物から数十分歩いたところにところどころヒビ割れた石の家が建っている。周りにも同じような雰囲気の家が並んでいるが、その中のひとつを迷わず見つけて玄関の前に立った。いつものように合鍵を使って玄関を開ける。
「ただい……」
「どなたですか!」
絶句して硬直する。
出迎えた母は包丁を握りしめていた。
「……ご、ごめん、料理中だった、よね」
閉まるドアに押されて玄関の中程まで進む。
カサンは目の前の状況を――玄関近くにキッチンはないが――料理をしていたと言うことで納得しようとした。そういうことであって欲しい。
母はぎこちなく笑い、ユニオンでは馴染みの深い黒と深緑の軍服を一瞥してゆっくり右手を下ろした。そっと後ろに隠し、張り付いた笑顔で息子を迎える。
「お、おかえり。疲れてない? そ、そうだ、何か作ってあげようか……何が食べたい?」
「冗談、だよね……」
覚えていないことを必死に隠そうと優しい声をかけている。両目が潤んで母の姿が霞んだ。久しぶりに母の声を聞いたのに、ちっとも嬉しくなれない。それどころか会ったことで余計に目の前が真っ暗になる。
「あー、そ、そうね、シチューだったね、シチューを作ってあげるね」
「……」
いつも帰ったら、何をしていたってお帰りって言ってきつく抱きしめてくれた。今日だってそうだと信じていた。
「どうした、誰か来たの……か」
母の後ろから父が顔を出す。玄関で顔をぐしゃぐしゃにして泣く見知らぬ少年を前に、父は困惑し立ち尽くしていた。
「どうした、何があった」
「貴方、この子は……」
両親は顔を見合わせて、カサンに聞こえないように耳打ちし合った。
「この子は私達の息子よ。覚えてる? お兄ちゃんがいたじゃない」
「そういえば……」
微かに記憶の奥底に残っていた息子の情報を引っ張り出すも、カサンの性格も癖も思い出せない。父はカサンに声をかけようと思ったが、名前を呼ぶことすら叶わなかった。
「ぼ、僕は……僕は、二人の子供で、よかっ……」
カサンは袖で必死に涙を拭い、精一杯平常を振る舞おうとする。もうこの家にはいられない。
右手を血がにじむほど握って胸が窪むほど押しつけ、これが史上最悪な冗談であればと願った。はやくこんな悪夢から覚めて、四人でいっしょに母特製シチューを食べたい。
夢にしては鮮明すぎる涙の熱さと重苦しい空気が現実を訴え、カサンの壊れかかった心を握りつぶす。今までありがとうなんて口に出来なかった。
「このにーちゃん誰?」
両親の後ろの壁から弟が顔を出す。八つの無邪気な男の子はカサンを見て、不審者が来たと怯えた。しまった、と青ざめた両親が奥に行ってなさい、と弟の背中を押す。三人の輪は完成されていて、訪問者が一人加わる場所は無かった。
「……僕のこと、ずっと、お、覚えていて……ほしかったよ」
いつまでも泣きじゃくるカサンに、両親がやや面倒くさそうな顔をして振り向く。もう一度縋るように見つめるが、名前を呼ばれることは一度もなかった。
カサンは唇を血が出るほど噛み締めた。
「さよなら!」
「ちょ、待ちなさい!」
引き留める両親を容易に振り払う。振り払えなければ良かった、振り払えてしまった。
玄関が後ろで音もなく閉まる。あとはいつも通りの日常に戻るのだろう、部外者に邪魔されない、三人の幸せな家族に。
「ああ、うわああ……あぁぁぁああ!」
星刻九時。枯草色の影が明かりの灯りはじめた住宅街をむちゃくちゃに哭きながら走る。
何事だと皆が足を止め振り返るが、それ以上何をすることも無い。姿が見えなくなったとき、カサンの存在も彼らの記憶から消えてなくなっていた。
走って、走って、息ができないほど走って、疲れて広場に座り込み、やがて泣き止んでも誰もカサンの事を探しに来てはくれなかった。ほんのすこしだけ家族が探しに来てくれると期待していたが、その期待は容易く裏切られてしまった。
つい最近までとても仲が良かっただけに負った傷も大きく、いつも何があったって前向きな彼が今は亡霊のようだった。家族に忘れられた。あとは……飛び出てきた部隊だけだが、あそこにももう居場所はない。カサンのことを覚えている人なんて誰もいない。
二年前一班で知り合って意気投合したタリアードが、まさか忘れているなんて嘘だと思いたかった。何年もカサンを育ててくれた家族すら覚えていないなんて知らなければよかった。世界中の人の記憶から消えているなんて嘘だと信じていたかった。
「父さん、僕の名前も忘れちゃってた」
ベンチにうなだれて妙に冷静になった頭で考えていたら、四班の皆が名前を必要としていない理由が分かってしまった。
「僕らは邪魔だったんだ……だからまとめて隔離したんだ」
普段から名前を呼んでいたら、呼べなくなったとき忘れたことに気がついてしまう。だから四班では最初から名前を呼ばないのだ。
失ったことに気が付かないように。
最初から覚える気なんてなかったんだ。
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