15

「もう、いいや」

 ゆらりと立ち上がり、ふらふらと川へ向かった。

「僕は誰からも必要とされてない」

 革のブーツを冷たい水に浸し、何かに誘われるようにずぶずぶと沈もうとする。澄んだ水は想像以上に冷たく、少し足を踏み入れただけなのに凍ってしまいそうだった。

 涙の涸れた虚ろな目の少年が川に沈もうとしていても、誰も止めようとしない。そもそもそこに人がいることすら認識されていない。

「死んでも誰も悲しまない」

 皮肉なことに川は沈んでしまえるほど深くはなかった。流されてしまえるほどの急流でもなかった。顔をつけて窒息するためにしゃがもうとすると、耐えられないほどの冷たい水がカサンを拒絶する。

 思い切って顔を水につけるが、想像以上の冷たさに愕然とした。

「ぷはっ!」

 死んでも構わないし生きる意味など無いのに、死ぬほどの勇気はなかった。この苦しさから早く解き放たれたいのに、それよりも今一瞬の寒さの方が辛い。子供を世界から消そうとする意地悪な神は、逃げ出すことすら許してはいなかった。

 水を被った頭を振って冷水を振り払う。そのカサンの瞳に朱い色が映った。

 少し薄汚れた朱色の腕章。濡れた目でもすぐ分かるほど目立つ朱い色。


 ―― カサン、これだけは絶対に覚えておきなさい。


 嫌みたらしい隊長の声が聞こえた気がした。


 ――朱色は貴方の家の場所を示す色です。


「朱色……」

 重たい頭を上げると、配属後すぐに直した小さな橋の下から朱色が見えた。

 それは飛び出してきてしまった建物。忘れたくても忘れられない、大好きなユニオンの中心地にそびえ立つ立派な朱だ。

「……帰って来いってことですか、隊長」

 寒さで震える足で立ち上がり、全身から水をしたたらせて川から上がる。幽霊のような少年の後ろに黒い染みが広がっていった。

 飛び出てきたときは全速力だったが、帰りは亀のように一歩一歩踏みしめて朱色を目指す。

 道行く人の視界にびしょびしょの少年は映っていない。

 相変わらず声をかけてくる人はいないが、もう知らない人に存在を認められなくてもよかった。

 もし、一人でも覚えてくれている人がいるなら。それならもう下を向くことは無い。一縷の望みに消えそうな光を託し、朱色を求めて一歩一歩確実に進んでいった。


 一班にいたころに設けられていた門限はとっくに過ぎていたが、門は口を開いていた。本棟には明かりが無く、代わりに寮の窓が淡く光っている。

「……っ」

 ここまで来たのに、少年は大きな朱色の獣の前で怖じ気づいてしまった。門は開かれているが、部外者は立ち入るな、とピリピリと恐ろしい空気が体を押し返した。

 カサンのことを誰も覚えていないのはわかりきっている。今は治安維持部隊の制服を着た赤の他人だ。

「やっぱりやめておこうかな……」

 門を後にしようとしたとき、すぐ真後ろから声がした。

「おや、帰ってきたんですね。もう少しで閉めてしまうところでした」

「ぎゃっ!」

 振り向いて腰を抜かす。降ってきたタオルから顔を出すと、目の前に人を驚かせることができてたいそうご機嫌な隊長が浮いていた。隣には背の高い、黒髪で顔面傷だらけの副隊長が立っている。二人とも表情が読めず、怒っているのかと思ったカサンはぎゅっと目を瞑って首を縮めた。

「おかえり」

 強面の副隊長は大きな手で少年の頭をくしゃっと撫でた。続いてKがカサンと目線を合わせる。

「カサン、よく帰ってきました」

 はっと胸元を見る。名札はタオルの下に隠れていた。

「僕の名前、覚えていたんですか」

「隊長ですから。さあ、さっさと入ってください川に魅入られた子……いや、ふふ、見放された子でしたねぇ」

「えっ、いつから見ていたんですか」

「ははは」

 名前を呼ばれたことが嬉しくて仕方ない。隊長と副隊長はここに居てもいいんだと認めてくれていた。

 他の人が自分のことを完璧に忘れてしまっても、隊長は最後まで覚えてくれる。もし忘れてしまったとしても、この制服がある限り存在を認めて居場所をくれる。そう信じさせてくれる。それがとてつもなく嬉しくて、幸せに思えた。

「ゼン、送ってって」

「御意」

「貴方の誕生日は二ヶ月後ですよね」

「はい」

「私が出張の予定を入れてしまう前にちゃんと呼んでくださいね」

 Kはにこりと笑って本棟二階の窓に向かって飛んだ。ズボンの裾がヒラヒラとはためく。

「奴め、玄関を知らんのか」

「あはは……飛べるっていいですよね」

 副隊長は飛べないらしくカサンと並んで歩いた。ただ、Kと違って無口で何も会話がなく、話が続かない。隊長は勝手に話し出しておちょくってくるが、副隊長は建物の雰囲気に合った性格をしていた。

 寮に着くまで長く気まずい時間が流れていった。

「送ってくれてありがとうございます、ここまでで……」

「いや、部屋まで送る」

「……ありがとうございます」

 カサンはゼンを怖がってロボットのように歩いた。一歩進む毎にゼンがカサンを「どうせ消えるだけの奴」と思っているんじゃないかと疑心暗鬼になっている。


「帰ってきてくれてありがとう」

 ゼンは部屋の戸を閉めようとするカサンにそう呟いた。不意に話しかけてきた副隊長に固まり、そのまま閉めることも出来ず口を間抜けに開けたまま答えた。

「え、あ、はい……」

「出て行った奴は多いが、帰ってきた奴は少ない……感謝する」

 ゼンは柔らかい表情をしていた。

 え、と去っていく背中に手を伸ばすが、伝えたいことを伝え終えた副隊長は振り向かずに行ってしまった。

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