第349話悪魔編・偽その38
きっとアレは、悪夢だったのだろう。俺の心を苦しめる世界。そんなものを見せられた。あのままあんな世界に居続けたら俺の精神は参ってしまっていただろう。それぐらいに追い込まれつつあった。
けれど、俺はそんな世界から離れることが出来た。それは実力でも気合いでもなんでもない。ただ、助けがあったんだ。大切な……彼女によって。
「ふじ……み」
口元に暖かな温もりを感じる。目を開けると、富士見の顔が目と鼻の先にあった。
「怪奇谷君……」
俺が意識を取り戻したのがわかったからなのか、彼女の顔が俺のそばから離れていく。そこで俺は気づいた。今俺は、彼女の膝の上で寝そべっている状態だった。いわば膝枕をしてもらっていた。
「ほ、ほんとに意識が戻った……す、すげぇ。キ、キスするだけで目覚めるなんて」
ヘッドホンの声も変わらず聞こえる。よかった。俺は本当に無事にこの世界に戻ってくることができたんだ。
そしてヘッドホンのセリフを聞いて確信に至る。やはり富士見は俺にキスを――。
「怪奇谷君。大丈夫?」
富士見は心配そうに俺を見つめる。おもむろに俺の額を撫で始めた。いくらなんでもさすがに恥ずかしすぎる。
「だ、大丈夫だ」
あまりの恥ずかしさに、つい勢いよく起き上がってしまう。
「ちょ、ちょっと! 急にそんな動かない方が――」
富士見もあわてて俺を抑えようとする。互いが同時に動いた結果、それぞれ頭をぶつけてしまった。
「い、ちちち……お、おい富士見。大丈夫か?」
「え、ええ……私は大丈夫」
「ふう、よかった」
しかし、なんだろうか。富士見はいつもに比べて様子がおかしい。なんというか……おとなしすぎるというか……いつものような自信満々な覇気が感じられない。
「富士見が、助けてくれたのか?」
俺はわかりきった質問を問いかけた。この場で他に誰が俺のことを助けたと言うんだ。
富士見は無言で俯いたままだ。だけど、富士見が助けてくれたのは間違いない。
「俺……多分、悪夢ってやつを見ていた」
俺はゆっくりと立ち上がり、空を見上げた。あたりは暗くなり、陽は完全に沈んでいた。
「その世界はさ……地獄のような世界だけじゃなくて、ただただ平和な世界もあった。本当に……脳が混乱するぐらいに酷い夢だった。前に見た悪夢なんかとは比べ物にならないぐらいに」
消えたはずの幽霊。動物霊、地縛霊。そして冬峰。彼らは俺たちが恐れていた最悪の展開、悪魔化を果たしていた。夢の中ではなんとも思わなかったが、今思えばあり得ない話だ。だって彼らはもうこの世界に存在していないのだから。
「夢の中では夢と実感することは出来ないよな。だからさ、それが現実だと思い込んじゃったんだ。俺のせいで……みんなを苦しめていたって」
俺が智奈と付き合っている世界。アレはまだしも、同志先生が睦美さんや指導霊の状態じゃないあの2人と一緒にいるのもおかしい。それに冬峰もだ。美夏君どころか、暮奈さん、それに椎奈さんも一緒だった。
アレは俺が選ぶ以前の問題だ。俺の選択で影響の出る問題ではなかった。最も、悪夢を見ているときは完全に受け入れてしまっていたが。
「でもさ。そんな世界の中に、富士見の姿はなかった。富士見だけは……俺を元の世界に戻そうとしてくれたんだ」
俺は富士見に手を差し伸べた。彼女は黙って俺の手を取る。その白くて冷たいを手を引っ張り、立ち上がらせた。
「だからありがとう。富士見のおかげで俺は戻って来れた。本当に、ありがとうな」
そして何より、富士見にやっと会えたことが心から嬉しかった。ずっと、ずっと待っていた。俺はそんな富士見に会うために、昨日今日と走り回っていたのだから。
だけど、まだ終わっていない。俺たちの平和を脅かす存在がまだ、この世界には存在している。
「富士見。風香先輩を止めよう。今あの人はどこに――」
「ねぇ、怪奇谷君」
富士見は俺の言葉を遮り、ただ俯いている。
「ごめんなさい」
俯いているからか、その表情は読み取れない。しかし、声色で想像はつく。彼女の声は震えている。何かを恐れている……緊張しているような声だった。
「な、なんだよ。なんで富士見が謝るんだ?」
「私……私、もう……自分の気持ちを、抑えられない」
そう言って俺の腕を掴む富士見。力強く掴む。まるで、絶対に離さないと言わんばかりに。
「怪奇谷君が死ぬかもしれないと思った時、心が酷く震えた。怖かった。あなたが死ぬことが……ううん。そうじゃない。きっと、こう思った。私のそばからあなたがいなくなるのを恐れた。怖かった。あなたが……あなたが私のそばからいなくなることが」
富士見の声は酷く震えている。こんな……こんなにも悲しそうな、今にも泣き出しそうな声を聞いたのは初めてのことだった。
そこまで、俺のことを想っていてくれたなんて。もしかしたら富士見は……俺のことを……いや、そんなはずはない。そうであるわけが、ないんだ。
「私は、あなたを失いたくない。だって、私はあなたのことがこんなにも大好きだから」
そう思っていた。思っていたんだ。だけどハッキリと、彼女の声で、言葉で。聞き間違いかと思えるぐらいにあり得ない言葉を、聞いた。
「いけないことだとわかっている。私みたいな人間がこんな感情を抱くことは許されない。それにあなたの事情も全て知っている。それでも……それでも私はあなたが好き。あなたが死にそうになって、いなくなってしまいそうになって……より一層わかったの。私は……怪奇谷魁斗君のことが、大好きなんだって」
富士見の瞳からは涙が溢れていた。彼女が涙をハッキリと流したのは、俺が知る限りでは初めてのことだ。
「きっと……ずっと前からそう思ってた。だけど考えないようにしてた。それはいけないことだと。でも……もう抑えられない。私は私の気持ちに嘘をつけない!! お願い……もう、私のそばから離れないで! どこにも、行かないで……1人に、しないでっ!!」
思わず、抱きついてくる富士見。彼女の泣き声、心臓の鼓動が響く。
ああ、そうか。富士見はこんなにも……辛い思いをしていたんだな。
だけどそれと同時に、俺も理解できたことがある。
「富士見……俺も……俺も、一緒だ。俺も、富士見と一緒なんだ」
そんなこと、とっくに理解していた。理解しないようにしていた。俺は、人を好きになることはない。いや、違う。好きになってはいけない。それが、俺に与えられた罰なのだから。
それでも、やっぱり俺も富士見と同じだった。
「多分……多分なんだけどさ。俺は富士見と最初に会ったあの日。私を殺してくれませんか、なんてとんでもないこと言ってきたあの日。俺はきっと……あの日からとっくに、富士見のことを好きになっていたんだろうな」
だってそうだろう。俺はずっと言っていたじゃないか。
俺が好きになる人間は、頭のネジが外れたぶっ飛んだ奴だって。
そんな人間、すぐそばにずっといたんだ。気づいていないわけがない。ただ気づかないふりをしていた。そうしなければならない。そうしなければ、誰も苦しまずにすんだから。
「だから……ありがとう。俺も同じ気持ちだ。それが一緒で、本当に嬉しい」
俺たちは互いに好き合っている。多分それも心のどこかで気づいていたと思う。だけどそれを互いに言い出さなかった。それは気まずいからや、関係性が変わることを恐れているからじゃない。
ただ純粋に、
「富士見の気持ちが知れただけでよかった。俺も富士見も、同じなんだって」
例えどれだけ俺たちが好き合っていたとしても。
「だけど、この気持ちは……しまっておこう」
俺たちが結ばれることは、決して無いことなんだ。それが俺に与えられた罰。あの時、俺がやりたいことをした結果。その選択を、間違いだったことにしたくない。
「…………ええ。わかってる。でも……ありがとう。私の気持ちを、聞いてくれて」
富士見は涙を拭うと、その輝いた瞳で俺を見つめた。
「……ごめん。本当に」
きっと富士見はこれからも苦しむ。それを考えると、俺の心は酷く締め付けられる。
「ただし、もう二度と……私のそばから離れないでね?」
富士見は不適な笑みを浮かべて俺の頬を撫でた。
ああ――俺は富士見を守るためだったら、どんなことでも出来る。そんなふうに感じた。
俺が見た世界。それは間違いなく悪夢だったと言えるだろう。決していい経験ではなかったし、出来ることならもう二度と見たくない。
それでも……不謹慎だとわかっていても、唯一よかったことがある。
それは、俺たち2人の気持ちがようやく分かり合えたことだ。
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