・第293話:「見失うべきでないこと:1」
エリックに向かってスティレットをかまえ、叫びながら突進してくる、少年。
その少年を斬り捨てることは、エリックにとっていともたやすいことだった。
ただ、斬る、と、そう思うだけ。
それだけで、まばたきするような一瞬でエリックは聖剣を引き抜き、聖母の信者である少年を斬り捨てることができる。
少年の動きは、しかし、見るからに素人だ。
まともな戦闘訓練を持っていない者に武器をもたせ、ただ、チャンスと思えば突っ込めと、そう命じられているだけの者の動き。
聖母の教えは、正しい。
人類社会で教え込まれて来たその思想から抜け出すほどの自立性の育っていない、信じ込まされた[絶対]のために、疑念なく従う少年。
それは、かつてのエリックそのものであるようにも思える。
聖母の正義を信じ、魔王を悪と断じ、人類を救うためには魔王を、魔物を、亜人種を、一切の区別なく滅ぼさなければならないと信じていた、勇者であったころのエリックと。
信じていた聖母に、ヘルマンに、仲間に裏切られ、使い捨てにされたエリックと。
(この少年は、オレと同じだ! )
エリックはそう思うのと同時に、聖剣の柄にかけていた手を離し、脚を軽く開いてやや腰を落とし、身構えていた。
狂ったような叫び声をあげながら、少年が突っ込んで来る。
リディアが血相を変えて駆けて来るが、彼女も間に合わない。
他の誰も、エリックと少年の間に割り込むことはできない。
エリックは少年が至近に近づくのに合わせて、一気に動いた。
少年の手を、エリックに向かって突き入れて来るスティレットを固く握りしめている手を取り、エリック自身は片足を引いて身体を半身にしてスティレットの先端を回避しながら、少年を強く引き込むように動く。
少年のかまえたスティレットは空振りとなり、そして、エリックに引っ張られたことと、自分自身の突進の勢いによって、少年の足が宙に浮く。
そしてエリックはその瞬間に、少年を下に向かって軽く引っ張った。
すると、少年の身体は、エリックに捕まれた手を中心として、ぐるんと一回転する。
エリックに向かって駆けてきた勢いと、エリックに引かれた勢いとが合わさり、エリックに捕まれた手が回転の中心となって、勢いが回転する力に変わったのだ。
そうして、なにが起こったのか少年が全く理解できずにいる間に、エリックは少年を取り押さえていた。
手刀で少年の手を強打してスティレットを叩き落とし、それから、少年が事態を理解して動き出す前に、少年の鳩尾に素早く拳を突き入れる。
「げへッ!? 」
少年は、カエルが潰されるような悲鳴を漏らし、身体をくねらせてもだえ苦しむ。
息が詰まり、呼吸の苦しさと痛みとで、少年は抵抗できなくなる。
しかし、それもほんの数秒のことだけだ。
「クラリッサ! この少年を、拘束する魔法を! 」
エリックが再び少年が動き出す前にそう叫ぶと、クラリッサは慌てて、なにも聞かずに魔法の呪文をとなえ、少年の手足を拘束して動けなくする魔法をかける。
その間にエリックは、捕虜となっていた聖母の信徒たちを険しい表情で睨みつけていた。
少年と同じように、チャンスがあればエリックの命を狙おうとする信徒が混ざっているかもしれないからだ。
聖母の信徒たちは、みな、怯えたような顔をしていた。
降伏を申し出たにもかかわらず、その中にエリックへの刺客が混ざっていたことで、自分たちが処刑されるのではないかと、そう思ったようだった。
すでに、エリックの周囲にいた兵士たちはみな、剣を引き抜き、降伏した信徒たちを取り囲んでいる。
降伏したのにも関わらずその中に刺客が紛れ込んでいたというのは、信徒たちの明確な裏切り行為だった。
武装解除し、抵抗しないと誓ったからこそ、信徒たちは捕虜となり、生きることが許されたのだ。
あの信徒たちの中にはきっと、少年がスティレットを隠し持っていたことを知っていただけでなく、それを隠す手助けをした者さえいるだろう。
武装解除されたはずなのに、まだ武器を隠し持っている者さえいるかもしれない。
幾人かの信徒たちは、すでに死を覚悟したのだろう。
その場にひざまずき、「どうか天国に行けますように……」と、悲痛な祈りを捧げ始めている者さえいる。
エリックは、その祈りが無意味であることを知っていた。
なぜなら、聖母にとって人間とは加護する存在ではなく、支配し、自身をこの世界の[神]として存在させ続けるためだけの存在だからだ。
「殺すな! 」
エリックは、兵士たちに向かって鋭い声でそう命じていた。
「あらためて、捕虜たちの武装解除を徹底させろ!
魔法使いたちに協力してもらい、捕虜たちを拘束してから、1人ずつ確実に武装を解除していくんだ!
その段階で無暗に抵抗するようなら、その場で殺しても、かまわない!
しかし、そうして本当に武装解除をしたら、必ず、捕虜として丁重に扱え!
命を奪うことも、拷問することも、許可しない! 」
そのエリックの叫び声を、仲間たちも、兵士たちも、信徒たちも、意外そうな顔で見ていた。
降伏して来た信徒たちも裏切るかもしれないと明らかとなった以上、危険を回避するため、そして見せしめとするために、信徒たちは皆殺しにされるのも仕方ないと、そう思っていたからだ。
そんな人々に向かって、エリックは叫ぶ。
「確かに、あの捕虜たちは、こちらの慈悲を裏切った!
彼らをもう信用できないというのは、当然のことだし、生かしておくことは、それだけでリスクになるかもしれない!
だが、見失わないで欲しい!
真の敵は、聖母だけだ!
彼らはただ、聖母のことを信じ込まされているだけに過ぎない!
信徒たちもまた、聖母による犠牲者であることに、違いはない!
そして、なにより!
無差別な、無思慮な殺戮をしてしまえば、それは、聖母と何ら変わらない!
ここにいる兵士たちの中には、あの魔王城での戦いを知っている者もいるだろう!
そしてそこでオレたちが行ったことが間違っているということも、今は知っているはずだ!
なにより、聖母は自分のために戦ったはずの兵士たちを、生き埋めにした!
そんな、残酷な聖母を滅ぼすために、オレたちは戦っている!
しかし、ここで捕虜たちを無差別に殺してしまえば、オレたちは聖母と同じことをしてしまったことになる!
オレは、オレたちは、聖母と同じになっては、いけないんだ! 」
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