・第267話:「聖母のミス」
戦闘を放棄して逃げ出しただけではなく、反乱軍に降伏し、その情けを受けた。
なるほどそれは、聖母から見れば罪であったのだろう。
だからそれを断罪し、聖母の意向に逆らえばこうなるのだということを民衆に示して、新勇者の敗北で動揺する民心を鎮めようとしたのだろう。
実際、人類社会に広まっていた動揺は、この虐殺事件のことが広まると、表面的には鎮まったように見えた。
表立って聖母への疑念や不信を口にすれば、なにをされるかわからないと、誰もがそう思い知らされ、恐怖したからだ。
しかしそれは、あくまで表面的には、という話だった。
一見、動揺が治まったように見える裏では、着実に、人類社会の聖母からの離反は進んでいった。
それはむしろ、以前よりも急速に進み始めていた。
聖母は、人心を引きしめようと捕虜を虐殺したことで、図らずも、エリックたちが人類社会に広めようとしていたウワサを、自ら肯定してしまったのだ。
人々はみな、この虐殺事件によって、聖母がただ、自分たち人間に加護を与えてくれていた存在ではないのだと理解した。
聖母にとって人間とは、守るべき、加護するべき対象ではなく、自身にとって都合の良い下僕であり、不必要な者、邪魔になった者は、聖母の都合によって一方的に斬り捨てられるのだということが、聖母が命じた捕虜の生き埋め事件によって人々の知るところとなったのだ。
表面的には平穏なままだったが、その裏では、聖母からの離反が広まって行った。
それは、エリックたち反乱軍の元に、密かに接触を計ろうとする人類側の諸侯の使者があらわれはじめたことからも、明らかなことだった。
新勇者を新魔王・エリックに倒されただけではなく、自らの命令により、捕虜を虐殺した聖母。
人間を守護する絶対の存在であるというこれまでの権威を失い、その残忍さを示してしまった聖母に、多くの人々が、「このまま従っていていいのか」と疑念を抱くようになっていた。
エリックたち反乱軍に、密かに接触を図って来る者たちの意図するところは、様々なものだ。
もっとも積極的なものでは、反乱軍が聖母を討伐するために進軍を開始した場合は、指揮下の兵力を率いて反乱軍に参加したいという、明確な離反の申し出だった。
反対に消極的なものでは、反乱軍が聖母を討伐するために進軍を開始した際には、中立を約束するから、自身の領内を荒さないで欲しいという要請もあった。
その中間は、たとえば、エリックたち反乱軍のために物資を提供することを申し出たり、反乱軍の意図するところ、聖母を打倒した後に目指すものはなんであるのかを問い合わせたりする内容のものだった。
いずれにしろ、多くの人々がすでに、反乱軍は聖母を討伐するために動き出すということを前提として、考えているようだった。
そしてそれは、人々の望みとなっているようだった。
聖母に対する疑心を募らせ、その残虐さを知って、聖母のことを崇敬するのではなく、恐れるようになった人類は、反乱軍が進撃を開始し、聖母が倒されることを心待ちにするようになり始めたのだ。
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聖母の下から、人々が離反し始めている。
それを具体的な形で実感したエリックたち反乱軍は、[とうとう、機は熟した]と考えるようになっていた。
今、反乱軍が動き出せば、人類社会の反響は大きなものになる。
強大であったはずの人類軍の多くが、反乱軍による聖母への攻撃を傍観(ぼうかん)するか、自ら反乱軍に加わって聖母と戦うとさえ申し出てきているのだ。
反乱軍は5000名に過ぎない兵力だったが、今、進軍を開始すれば、その数は一気に膨れあがることになるだろう。
聖母の支配に反対する立場を表明した諸侯が参集すれば、その数は数万にもなる。
対して、聖母の下には、大した戦力は集まらないし、残されてもいない。
聖母の残虐性を知ってその正当性に疑問を持った諸侯の多くが、反乱軍に参加しないまでも、聖母の軍にも参加することはないと表明してきており、聖母が動員をかけても、いろいろ都合をつけて参加しないか、到着を遅らせることになっている。
そして聖母の直接の武力集団であった教会騎士団も壊滅状態であり、残っているのはわずかな数の教会騎士たちや、最近、教会に所属している聖職者や修道士などから徴収された、練度の低い教会騎士たちばかりだった。
おそらく、エリックたち反乱軍が聖都へと進撃した場合、その兵力差は、反乱軍の側が聖母を上回ることになるだろう。
そしてその状況を活用し、聖都を攻撃して、新魔王・エリックを聖母の下へと送り込むことに成功すれば、十分に勝利を望むことができるのだ。
聖母は、長い間この世界の支配者として君臨してきたことから、傲慢(ごうまん)になり、判断を誤ってしまっていた。
表面的には確かに聖母の命令によって人々の動揺は治まったかに見えたが、聖母は自身の行動によって人々の心がどのように動くのかを、きちんと配慮していなかった。
聖母は致命的なミスを犯し、そして、エリックたちにはこれまでで最大のチャンスが訪れていた。
エリックたち反乱軍は、聖母に対する反撃を開始することを決心して、根拠地であるデューク伯爵の城館には、そこの維持管理に必要なわずかな人数だけを残し、ほぼ総力をもって出撃することを決めた。
聖母を、倒す。
その最終目的を果たすために、ようやく得られたこの絶好の機会を逃すことなどできないからだった。
幸い、反乱軍は物資が充実していた。
魔法学院に、そこに避難している解放区の人々を数か月は余裕で食べさせることのできる物資を運び込んでもまだ、エリックたち反乱軍は満足に活動できるだけの物資を持っているのだ。
すべて、人類軍が残していった物資のおかげだ。
人類軍の攻撃によって反乱軍は少なくない犠牲を出したが、その戦いの勝利によって得られた物資で、聖母に対する反撃に出ることが可能となっていた。
反乱軍は出撃の準備を整えると、リーダーであるエリックを先頭にして、デューク伯爵の城から打って出た。
目指すのは、聖都。
そこに今も鎮座している聖母、この世界で長年にわたってくり返されて来た人類軍と魔王軍との戦争の、その元凶だった。
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