・第229話:「逃走:1」

 ヘルマンは、エリックに背中を向けて、なりふりかまわずに逃げた。

 足元に転がっていたガラクタを蹴散らし、城館の城壁を何度も足を滑らせながら、鉤爪を使ってなんとか登り切り、そして、ためらうことなく城外へと飛び出していった。


 ヘルマンは、城壁の上から飛び降りると、着地の衝撃に耐えることができず、姿勢を崩してそのまま、ゴロゴロと斜面の上を転がって行った。

 今まで殺して来た多くの人間たちの返り血で汚れていたヘルマンの全身は、すっかり土まみれになった。


 斜面を下りきり、ようやく転がり落ちるのが止まると、ヘルマンは急いで立ち上がりながら、恐る恐るデューク伯爵の城館の方を見上げた。


「ひっ、ヒィッ!? 」


 そしてヘルマンは、悲鳴をもらしていた。


 そこには、翼を広げた、エリックの姿があったからだ。


「……こんなところで、死んでたまるかっ! 」


 ヘルマンはそう叫ぶと、再び、逃げ始めた。

 ただただ、エリックにトドメを刺されることを恐れながら、できるだけ遠く、できるだけ死から、終わりから遠くへ、逃げていく。


 逃げたところで、その先に待っているのは惨めな末路だけだと、ヘルマンは理性では理解していた。

 なにしろ、度重なる失態を演じたヘルマンにとって、その汚名を晴らす最後のチャンスとして聖母から与えられた機会を、ヘルマンは失ってしまったからだ。


 エリックたち反乱軍をおびき出し、その間に、デューク伯爵の城館を奇襲して占領する。

 そうして、外に出撃していたエリックたち反乱軍の主力を、ヘルマンたちと教会騎士団とで挟撃し、一気に殲滅(せんめつ)してしまう。


 それが、ヘルマンが考えた作戦だった。


 このために、ヘルマンは自分自身に与えられた力のすべてを投入した。


 1万名の教会騎士団。

 100頭を超える竜。

 ヘルマンと共にデューク伯爵の城館へ突入する数百の精兵。


 そして、ヘルマン自身。


 自分には、もう、後がない。

 長く聖母の共犯者として与えられた力を振りかざして来たヘルマンだったから、聖母の期待に応えることができなかった者、用済みとなった者がどんな扱いを受けるのかは、よく知っている。


 それなのに、ヘルマンはまたも失敗した。


 デューク伯爵の城館を完全に占拠する前に、エリックが戻って来た。

 それだけなら、別になんでもなかったのだ。


 その場でエリックを始末してしまえば、残った反乱軍など自然に瓦解するかもしれなかったし、なんとでも処分することができる。

 だからヘルマンは、むしろ、自分の前にエリックがただ1人だけで乗り込んできたことを、歓迎した。


 ヘルマンには、自信があった。

 聖母から与えられたこの異形の力をもってすれば、いかに魔王の力を得たエリックであろうとも、容易に抹殺できるだろうと思っていたのだ。


 だが、そうはならなかった。


 ヘルマンは、1万の教会騎士団を失った。

 そして、100頭を超す竜たちも、失った。

 自身につき従った数百の精兵も、おそらくは全滅しただろう。


 極めつけには、今、こうして、ヘルマンは惨めにエリックから逃げている。


 聖母から与えられたキメラの身体の尾と翼を失い、全身傷だらけ、汚れまみれのみすぼらしい姿で、ヘルマンは無様に逃げていた。


 エリックに、殺される。

 ヘルマンはそう恐れていたが、しかし、その瞬間は、なかなか訪れない。

 それどころか、エリックがヘルマンを追ってきている気配さえ、感じられない。


 ようやく少し冷静さを取り戻したヘルマンは、手近にあった茂みの中に飛び込んで身を隠すと、目と耳を凝らして、周囲の状況を探る。


 静かだった。

 辺りにはわずかに風になびく植物たちのざわめく音が聞こえて来るだけで、戦いの喧騒(けんそう)も、人間の声すら、聞こえてこない。


 茂みから身を乗り出してより詳しく周囲を確認すると、どうやら、エリックはヘルマンのことを追ってきていない様子だった。


 ヘルマンは、とりあえず逃げられたと安心するのと同時に、屈辱で顔をゆがめた。


 どういうわけか、エリックはヘルマンにトドメを刺しに来なかった。

 しかしながら、ヘルマンがエリックに敗北した、それもエリックよりも遥かに有利な条件であったのにもかかわらず、こんな惨めな結果になったという事実は、なにも変わらないのだ。


 このまま生きて聖母の下に戻ったとしても、ヘルマンを待っているのは、暗い未来だ。

 聖母からは無能、役立たずとして見限られ、厳しい罰を受けることになるかもしれない。

 最悪、聖母の命令によってヘルマンは、粛清(しゅくせい)されるか、実験動物扱いをされて、聖母のオモチャにされるだろう。


 それでもヘルマンは、自身が生き残ったことを確信すると、茂みの中から出て、聖母がいる聖都へ向かって、ケガをしている足を引きずるようにしながら進み始めた。


 なぜなら、ヘルマンにとっては、聖母以外に頼れる者など、なにもなかったからだ。


 ヘルマンに与えられた、力。

 聖母以外のあらゆる者たちに対する、特権と、優越。


 それらを手にしたヘルマンは、傲岸不遜(ごうがんふそん)に振る舞い、人間たちを見下しながら生きてきた。


 だが、それらの力のすべては、聖母によって与えられたモノなのだ。


 それを失ってしまったとしたら、もう、ヘルマンにはなにも残らない。


 ヘルマンは結局、その力や地位を、自身の手で獲得したわけではなかった。

 すべて聖母に与えられただけだ。


 数々の失態を犯し、不名誉の下に、惨めに生き残って、しかし、自ら命を絶つことも、エリックに一矢報いるために戦い抜くことすらできない。

 そんな、卑劣な存在であるヘルマンに残された道は、ひたすら、聖母にすがりつくというものしかなかった。

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