・第230話:「逃走:2」

「せめてっ……!


 せめて、アイツに、復讐(ふくしゅう)を! 」


 ヘルマンは、エリックに敗北したという屈辱を噛みしめながら、いまや、その一心で歩き続けていた。


 ヘルマンは、すでにすべてを失った。

 ヘルマンの力も権力もすべて聖母から与えられたものであり、度重なる失態を帳消しにできる最後の機会を失ったヘルマンはもう、聖母からは見限られる運命にある。

 聖母によって、ヘルマンに与えられた力も権力もすべて、ヘルマンははく奪されることになるのだ。


 それは、人によっては、死んだ方がマシだと思えるような屈辱であるはずだった。

 なぜなら、ヘルマンがなんとしてでも生き延びたとしても、これから生きる未来は、汚辱(おじょく)にまみれたものとなるからだ。


これまで聖母の最大の共犯者として得てきた特権をすべてはく奪され、無能者、役立たずという烙印(らくいん)を押され、不名誉の中で、蔑みを受けながら、ヘルマンは生きることになる。

 それは、今まで散々、優越感にひたり、他者を見下して来たヘルマンにとって、あまりにも惨めな未来だった。


 それでもヘルマンは、死ぬことができなかった。

 エリックを前にしていた時は恐怖に支配されてなりふりかまわずに逃げ出し、そして逃げ延びることができた後も、自ら命を絶つこともできず、聖母の力にすがりつくために聖都を目指している。


 それは、ヘルマンの死への恐れ、強い嫌悪感から来る行動だった。

 だが、1人だけで惨めに歩いているうちに、自分をこのような惨状に追い込んだエリックのことを、ヘルマンは強く憎むようになっていた。


 あの、エリックさえ、いなければ。

 魔王城でエリックを裏切った時、きちんと、始末することさえできていれば。


 こんな、辛く、苦しく、惨めな思いはしなくて済んだのだ。


 ヘルマンは、エリックに対して復讐(ふくしゅう)を果たさなければ、死ぬに死ねないと、そう思うようになっていた。


 だが、ヘルマンが負った傷は、重かった。

 リディアにつけられた細かな傷も多かったが、エリックによって片方の翼と尻尾を切断され、自身の毒によって身体を焼かれ、そして、何度も落下したことで、ヘルマンの身体は大きなダメージを負っている。


 逃げ出した時は必死だったから痛みもなにもほとんど感じなかったが、冷静さが戻ってくると、全身が痛みを発していた。

 傷口は露出したままだったし、全身のいたるところに打撲や、骨折がある。


 普通なら、多少の傷は、瞬時に再生するはずだった。

 聖母の手によってキメラに作り変えられたヘルマンの身体は、特殊能力を与えられ、強靭な力を発揮できるのに加えて、傷を瞬時に回復する再生力をもっている。

 さすがに斬り飛ばされた部位を自力で再生できるほどではないものの、切り傷や打撲、骨折などは、少し時間がかかっても修復されていくはずだった。


 そうならないのは、ヘルマンが今、空腹だったからだ。


 ヘルマンの本当の姿、キメラの姿は、ヘルマンの通常の姿である人間だった時よりも、大きく、重い。

 ということは、ヘルマンが変身してその本来の姿をあらわすためには、増える大きさや質量を補うなにかを、大量に外部から摂取する必要があるということだった。


 ヘルマンは、変身するたびに、強い空腹感に襲われる。

 だから、エリックとの戦いの場で、自身の手で屠(ほふ)った人々を、貪(むさぼり)り食らったのだ。


 それにはもちろん、エリックたちを挑発し、冷静さを失わせてその動きを単調なものとし、ヘルマンの術中にはめて始末しやすくするという作戦もあったのだが、変身の直後で極度の空腹にあったヘルマンは、その空腹を満たし、本来の力を発揮できるようにするために、多量の食物を摂取する必要があった。


 人間たちを食らったことでひとまずはこと足りていたのだが、エリックから大きな傷を負わされ、必死に逃げ延びてきた今のヘルマンにはもう、自身の身体の傷を再生させることのできる余力も残っていなかったのだ。


 そこから聖都までの距離は、遠い。

 そして、失敗したヘルマンに、聖母が救助を差し向けてくれる可能性は、ない。


 自力で聖都までたどり着かなければならないヘルマンは、逃げる途中で人間の小さな集落を見つけると、力を振り絞って突進していった。


 その集落は、無人だった。

 おそらく、デューク伯爵の領地では聖母たちとの交戦を想定して動員令が発せられており、また、あちこちに点在する小さな集落まではとても守り切れないために、人々を1か所に集めていたのだろう。


 だが、そこにはまだ、村人たちが残していった家畜たちがいた。

 村人たちが動員されたり避難したりしている間も生きて行けるように放牧地に放たれ、のびのびと暮らしていたその家畜たちに、ヘルマンは野生のケモノのように本能をむき出しにし、襲いかかった。


 牛に、馬に、豚に、羊に。

 目についた家畜は手当たり次第に襲い、そして、食らった。


 やがて空腹が満たされると、ヘルマンの身体は、少しずつ再生されていった。

 すでに傷を負ってからかなりの時間が経過していたために治りも遅くなってしまっていたが、ひとまず、エリックに斬り飛ばされた部位はのぞいて、ヘルマンの傷は治った。


 それからヘルマンは、自身の変身を解いて、元の人間の姿へと戻った。

 傷が治ったのだから、そのままの姿で聖都まで駆けて戻れば速いのだが、その姿ではあまりにも目立ち過ぎ、そして、道中、あちこちで警備についている人間の兵士たちから、魔物と勘違いされて攻撃を受ける恐れがあった。


 それならば、人間の姿へと戻り、たとえ今さらになってエリックが追いかけてこようともすぐに隠れてやり過ごせるようにして、聖都へ向かう方がたどり着ける確率が高いと、ヘルマンはそう判断していた。


 人間に戻ったヘルマンは、無人となった家屋を乱雑にあさり、そこからできるだけ上等な衣服を見つけ、聖都に向かって逃亡する間に必要になりそうな物資を奪って身につけると、再び歩き出した。


「許さん……!


 許さんぞ、エリック……! 」


 そして歩き続けながら、ヘルマンはくり返し、屈辱を噛みしめながら、何度も何度も、エリックに対する怨嗟(えんさ)の言葉を吐き続けた。

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