・第225話:「毒の霧」

 ヘルマンがエリックに浴びせかけたのは、猛毒の霧だった。

 それは吸い込んだ者の粘膜を溶かし、内側からその身体を破壊して命を奪う、相手に激しい苦痛と残酷な死をもたらすものだった。


 だが、エリックは倒れなかった。

 エリックは自身の身体にかけられた黒魔術によって、[死に続けながら][生き続けて]いるのだ。


 毒の霧の中で、エリックは鼻と口から血を滴らせながら、よろよろと立ち尽くしていた。

 黒魔術の力によって死を迎えることはまだないものの、身体の中を直接焼かれるような苦痛は、エリックの意識を混濁(こんだく)させていた。


「ハハハハ!


 かかったな、エリック! 」


 周囲に毒の霧が散ってやや濃度が薄くなり、その場に意識を朦朧(もうろう)とさせながら立ちつくしているエリックの姿を目にして、ヘルマンは愉快(ゆかい)そうに笑った。

 どうやらこの猛毒も、その毒を放った本人には効果がないようだった。


「さぁ、どうした、どうした、エリック!


 この俺を、殺すんじゃなかったのか!?


 ホラ、さっさと俺を殺さないと、お前の妹がどうなっても、知らんぞォ? 」


 ヘルマンはエリックの周囲をうろつきながら、勝ち誇って煽(あお)り立てる。


 その言葉は、朦朧(もうろう)としたエリックの意識にも届いていた。

 だが、毒ガスによる破壊と、黒魔術による蘇生をくり返している状態のエリックは、少しも身動きを取ることができなかった。


「フン、それが、反逆者の末路さ! 」


 そんなエリックの姿を見て、ヘルマンは吐き捨てるようにそう言った。


「魔王と融合した程度で、聖母様に反抗しようなどと、なんと思いあがったことか!

 余計なことなど考えず、大人しくあの谷底でくたばっていれば、今頃お前は人類を救った英雄で、お前の家族も安穏に暮らせていたはずなのにな!


 だが、お前のその惨めな人生も、これで終わりだ!


 どうやら1回や2回殺されたくらいでは蘇生してしまうようだが?

 さすがに、その首を嚙み砕かれてしまえば、蘇ることもできないだろうさ! 」

(……くっ、くそっ! )


 毒ガスが薄くなってきたおかげで、エリックの意識は少しはっきりとしてきていたが、まだ、その身体は動かすことができなかった。


 このままでは、ヘルマンによって、頭を噛み砕かれてしまう。

 黒魔術の力によってエリックは不死身となってはいたものの、ヘルマンが言うとおり、さすがにそこまでされてしまって、また復活できるかどうかはわからなかったし、試したいとも思えなかった。


(動け、動けよ! )


 エリックは必死に自身の身体を動かそうとするが、力が入らず、立っているだけでも精一杯だった。


「死ね、エリック! 」


 そんなエリックに向かって、ヘルマンは大きく口を開き、発達したその牙を見せつけるようにしながら、襲いかかった。


────────────────────────────────────────


 復讐(ふくしゅう)も遂げられないまま、聖母の支配から人々を救えないまま、終わることになるのか。

 エリックは、深い絶望感を覚えていた。


 しかし、エリックに襲いかかろうとしたヘルマンの牙は、エリックには届かなかった。


「たああああああっ! 」


 その時、横合いからそう鋭い叫び声をはっしながら、リディアがヘルマンに斬りかかったからだ。


 エリックは身動きが取れず、周囲にはまだ毒の霧がただよっている。

 だからヘルマンは、ここでリディアが突っ込んでくることを少しも想定していなかったようで、彼女が振るった剣をもろに受けることになってしまった。


「ぅぎゃっ!? 」


 リディアに顔面を斬りつけられ、左ほおの辺りを深く斬り裂かれたヘルマンは、そう悲鳴をあげて数歩、後ずさった。


 リディアは、ヘルマンをさらに追撃する。

 その剣にはリディアの怒りが込められてはいたが、リディアは冷静さを失ってもおらず、着実にヘルマンの身体を刃が斬り裂いて行った。


 だが、唐突に、リディアの身体がバランスを失い、ぐらついた。


 リディアは倒れそうになる身体を必死に抑えて立っていたが、しかし、身体をかがめて、口元を抑えている。

 そしてその手からは、彼女の口から流れ出た血があふれて、したたり落ちて行った。


 ヘルマンが放った毒の霧は、段々と薄くなってきていた。

 だが、まだ十分に人間の命を奪い去れるほどの濃度が残っていたのだ。


 普通の人間ならば、おそらくは即死だっただろう。

 しかし、リディアは聖女としての力を持っているから、かろうじて耐えることができているようだった。


 リディアは、剣を握りしめたまま、どうにか立ち続けていた。

 立ってはいたが、もう、戦える状態ではない。



 おそらく、リディアはこうなることを承知の上で、毒の霧がまだ残っているのに、突っ込んできてくれたのだろう。


 それはすべて、エリックを救うための行動だった。


「リディア、この、裏切り者が!


 よくも、この俺に傷をつけてくれたな!? 」


 激高したヘルマンが、リディアに向かって怒りをあらわにする。

 そのヘルマンの目の前で、リディアはとうとう、どさり、膝をついてしまっていた。

 毒によるダメージで、もう、立っていることさえできなくなったようだった。


「フン、聖母様に生み出していただいておきながら、反抗などするから、そうなる!

 大人しく従っておれば、道具として、これからも末永く生きられたものを!


 だが、今まで聖母様の手駒として役立ってきたんだ。

この俺が特別に、すぐに楽にしてやる! 」


 そんな、もう抵抗することのできないリディアの様子を見て余裕を取り戻したヘルマンは、リディアの首を斬り飛ばすためにその前足を振り上げた。


「さ……せる、か……、よォォォォォッ!!! 」


 そんなヘルマンに向かって、エリックは、わずかに動かせるまでに回復した自身の身体を無理やり動かして、突進していった。

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