・第16話:「谷底で:1」

 エリックは、自分は死ぬのだと思った。


 世界を救うために戦い、すべてを捧げ、そして、期待された通りにその役割を果たしたというのに。

 エリックに待っていたのは、裏切りだった。


 その、裏切られたことへの怒りも、絶望も。

 どうすることもできない。

 エリックはもう、ここで終わってしまうのだから。


 だが、エリックはまた、目覚めた。

 その意識は、覚醒(かくせい)した。


 自分は、まだ、生きている。

 エリックはぼんやりとした意識の中でうっすらとそんなことを考えていたが、すぐに、自分はもう、生きているとは言えないのではと考え直す。


 谷底へと落ちていく途中で、エリックの意識は途絶えた。

 そのおかげか、落下して、地面にたたきつけられた際の記憶はない。


 だが、記憶にないからといって、エリックが無傷であったわけがなかった。

 谷は深く、そこを落下したエリックはその全身を叩きつけられることとなった。


 エリックの身体中の骨が、砕かれたようだった。

 手や足はもちろん、背骨や肋骨、頭の骨まで。

 無事である場所などどこにもなく、エリックの身体はあちこちが傷つき、皮膚と肉が裂けて骨がむき出しになっている場所まであった。


 もはや、息をしているのかどうかさえ、怪しい。

 エリックは、もしかするとすでに肉体を離れ、魂だけの存在となって、だが、どこにも行くことができずに、その場にとどまっているだけなのかもしれなかった。


 エリックはもう、自身の身体を、ピクリともさせることができない。

 声を出すこともできはしない。


 幸いなのは、おそらくは全身を襲っているであろう激痛を感じずにいられる、ということだけだった。


 そんなエリックの周囲で、断続的に、バシーン、という、なにか重量のあるモノが激しく叩きつけられるような音がしている。


 なぜかまだ感じることのできる五感を利用してエリックがそれはなんであるのかを探ると、それは、どうやら、上から降って来る、遺体であるようだった。


 かつて、魔王軍だった者たち。

 魔物や、亜人種たちの亡骸。


 それが、降って来る。

 谷の上から投げ込まれ、谷底に叩きつけられて、エリックと同じように全身をズタボロにされ、力なく横たわり、そして、次から次へと降って来る遺体が積み重なっていく。


 どうやら、魔王軍の遺体を投げ込んでいるのは、人類軍であるようだった。


 人類軍は、二度と魔王軍が復活できないよう、魔王城を完全に破却し、魔王軍を徹底的に消滅させるようにと命じられている。

 魔王城を南北に貫いていた深く巨大な谷は、その[後始末]のために、死体を遺棄する場所として有効活用されているらしかった。


 やがて、死体以外も降って来た。

 人類軍の捕虜となった魔王軍の生き残りたちが、谷の上にかかる橋に集められ、そして、その欄干(らんかん)の上に立たされて、人類軍の兵士たちによって生きたまま蹴り落されているのだ。


 おぞましい、悲痛な悲鳴と共に落ちてきた捕虜たちは、谷底に叩きつけられるとみな、静かになった。

 あるいは、エリックのようにまだ若干の意識が残っているような者もあったが、それもいずれは動かなくなっていくことだろう。


 戦場は、地獄だった。

 人類軍と魔王軍はその生存をかけた絶滅戦争を戦っていて、エリックが経験した戦いはどれも、悲惨だった。


 だが、これは。

 とりわけ、凄惨(せいさん)だ。


 エリックは、地獄は地獄でも、その中にはさらに階層があると思い知らされるのと同時に、ここがその最下層なのだろうと思った。


────────────────────────────────────────


 やがて、辺りにぽつ、ぽつ、と雨が降り出した。

 不毛な大地である魔大陸(セルウス・テラ)では、雨が降るのは珍しいことではあったが、皆無なことではない。


 どうやら、魔王城を焼いていた炎によって熱せられた空気が上空に舞い上がって冷却され、立ち上っていた黒煙の中に含まれる煤(すす)やゴミなどが核となって水蒸気が集まり、雨雲を生み出した様子だった。


 降り始めた雨は、やがて、強くなっていく。

 乾いた大地に水分がしみ込み、やがてしみこみ切れなかった水分は地表を洗い、流された大量の流血と混ざり合い、谷底には血の川が流れ始める。


 エリックは、まだ、そこにいた。

 自分がまだ生きているのか、もう死んでいるのか、そんな判断もつかないままに、ただ、そこにいて、無数の遺体の中で、降り注ぐ雨の音を知覚している。


(寒い……)


 エリックはおそらくは冷たいものであるはずの雨の感覚と、自分がここに1人、打ち捨てられ、朽ち果て、消え去っていく運命であることを思いながら、凍えていた。

 エリックの身体は相変わらずまったく動くことがなく、もう、寒さをまぎらわせるために身体を震わせることさえできない。


 もしかすれば、誰か、仲間が助けに来てくれるかも。

 エリックは、そんな淡い期待を未だに捨ててはいなかったが、それは望み薄だった。


 だが、そんなエリックの感覚に、雨の中に混じって足音が聞こえてくる。


 それは、どうやら杖をついた誰かである様子だった。

 歩くのもやっと、という様子で、不規則な足音で、エリックがいる場所へ近づいてくる。


(誰、だ……? )


 まさか、谷底へと突き落とされた者の中に、まだ、息のある者がいたのだろうか。


 誰だって、なんだって、いい。

 エリックは、自分をこの地獄の最下層から救い出してくれるか、あるいは、これ以上苦しみ、絶望しなくて済むように終わらせてくれる者であるのなら、それこそ、敵であった魔物でも、亜人種でもかまわなかった。

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