僕の憧れの人【酒豪篇】

 鄭泉ていせん、字は文淵。陳郡の人。中国の三国時代、呉に仕えていた人物です。

 その学識は幅広く、気遣いに優れた人だったといいます。


 彼は常々こう語っていました。


「船を杯に見立てて、美味しいお酒をプールのようにいっぱいにしたいなあ。その両脇に季節の食べ物を置こう。

 その中でバチャバチャしたり潜ったりしながらお酒を飲むんだ。疲れたらご馳走を食べてもいい。少しでもお酒が減ったら、すぐさまつぎ足そう。

 こんな風にできたらなあ」


 そんな鄭泉は主君である孫権そんけんにも物怖じせず、諫言かんげんを繰り返していました。

 ある時、孫権はこんなことを尋ねます。


「お前は大衆の面前で主君をいさめることを好んでいて、時に礼節と敬意を忘れているように見える。お前に主君を畏れる気持ちはないのか?」


 鄭泉は答えました。


「明君を前にした臣下は真っ直ぐであるべきです。現在の朝廷に不信感などありません。私はただご主君あなたの器の広さを心強く感じているので、畏れることなんてないのです」


 この後、宴会が開かれました。

 その席で、孫権はわざと鄭泉を怖がらせようと悪戯を仕掛けます。役人たちをけしかけて鄭泉を引き摺り、罪状を問わせました。

 その間中、鄭泉はチラチラと孫権の方を見ています。


 その様子に孫権は笑いを堪えられなくなり、鄭泉を呼び戻しました。


「お前は畏れないと言っていたのに、どうして私の方をチラチラと見ていたんだ?」


「保護していただけると信じておりましたので、心配はしておりませんでした。ただ、陛下のご威光を感じてなりませんでしたので、ついつい視線を送ってしまったのです」


 この返しの上手さに、孫権は膝を打って感心しました。


 時は夷陵いりょうの合戦直後のことです。孫権に敗北した劉備は手紙を送りました。

 劉備は反省を表し、以前の交流を再開したいと言ってきています。それに対し、孫権は鄭泉を呼んで言いました。


「これまで西の勢力を蜀と呼んで来たのは、漢の皇室がおいでになったからだ。しかし、漢室は廃止となった。ならば、これからは漢中王と呼ぼうではないか」


 この時点で、曹丕そうひは魏の皇帝となり、それに対抗して劉備は漢の皇帝になっていました。しかし、孫権の立場は微妙で、まだ自分が皇帝を名乗るのは時期尚早であることを知っていました。それでいて、やがて自分が皇帝を名乗る野心を持っているので、曹丕も劉備も皇帝と呼ぶことはできません。


 そんな状況の中、鄭泉を劉備への使者に送りました。鄭泉なら機微を理解し、難しい役目をこなせると見たのでしょう。


 劉備は言います。


「呉王(孫権)はどうして返事を書かれぬのであろう。私が皇帝を名乗ったことをまだ許してくださらぬのか」


 鄭泉が返します。


曹操そうそう親子は漢を蹂躙し、ついには帝位を簒奪しました。劉備殿は漢の宗室に属される以上、王室を守る義務があります。だというのに、天下の先駆けとなって魏に攻め入らず、辺境で皇帝を名乗られました。これは天下の理に背くものではありませんか。そのため、我が主君も返事を書くことができないのです」


 この言葉には劉備も恥じ入るばかりでした。


 やがて、鄭泉は自らの死に臨み、こんな遺言を託しました。


「私を陶器作りの家のそばに埋めてほしい。百年も経てば私の身体は土となり、上手くいけばその土が使われて酒壺になれるかもしれない。そうすれば私の願いは叶うのだ」


 剛毅にして柔和で、人間味もたっぷり。二千年も前にいた酒飲みですが、とても憧れる人です。

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