《二度目の夢》①
夢の続きを見たのは、それからきっかり一週間後のことだった。
心の中に容赦なく踏み入ってくる、腹の底が冷えるような恐怖感によってすぐにそれと分かった。
今すぐここから逃げなければという切迫感。
そして、自分が渡り廊下に立ち尽くしていることに気付く。
吉岡が顔を真っ赤にして泣き喚いている。
少し離れた先では、広瀬が中原たちに向かって一生懸命何かを話していた。
──だからっ!
だから、何だというのか。
自分が、〈だから〉と叫んだのか。
それは判然としないが、〈だから〉という言葉だけが確かに耳に残った。
いや、実際は耳には何も届いていない。
何せこれは夢なのだ。
視界に映る鮮明な情景とは対照的に、音に関しては実際には何も聞こえない。広瀬や吉岡が何を叫んでいるのかということも、夢を見ている自分には聞こえないが、夢の中の自分にはそれが分かるらしい。
夢の中の自分というフィルターを通して、断片的に情報が流れ込んでくるのだろうか。あるいは、映像情報から会話の内容を類推しているに過ぎないのだろうか。
とにかく、そうして〈聞こえた〉のは強い憤りを含む〈だから〉だった。
当然知っているべきことなのに、分かっていないことに対する憤りから発せられた〈だから〉……。
知っているべきこととは何か?
命を危険に晒しかねない何かだ。
隣で泣き叫んでいる吉岡の口を掌で塞ぐ。
吉岡は驚いた表情で……、しかし、こちらをしっかりと見つめ返した。それで兎にも角にも落ち着いたようだった。
広瀬の方を見ると、広瀬も何かに気付いたように自分の口を両手で覆う素振りを見せている。
そうだ、音だった、と〈思い出す〉。
夢の中の自分たちは何故かそのことを知っているのだ。
どうやら夢の中に出てくる、あの輪郭のぼやけたモヤモヤした怪物は、音に反応して襲ってくるらしい。大声で泣き叫ぶなど問題外だ。
夢に文句を言っても仕方ないが、如何にも〈ありがち〉な設定だと、どこか俯瞰的な自分が独り言ちる。
だが、脅威に対する対処手段が分かるのはありがたい。如何に陳腐な設定だとしても、夢の中の自分たちにとってはそれが死活問題なのだから。
視界に映っているのは広瀬と吉岡の他に、中原、岩見、倉田の三人。
何故この面子なのか。理由は不明だが、最初に見た夢と全く同じ。
つまり、前回見た夢の続きが忠実に上演されているということなのだろう。
明晰夢というのは見ている者が夢と自覚しつつ見る夢のことで、訓練によっては、夢の中でもある程度思い通りに動くことができるようになるものらしい。だが、まだ訓練が足りていないのか、あるいは、やはりこれが一般的に言う明晰夢ではないからなのか。今の自分は、視界をほんの少し横に振ることすらできない有り様だった。
自分の意思とは関係なしに夢の中の事態は一方的に進行していく。
大きな声や音を立ててはいけないという指示は、広瀬からこの場の全員に伝わったようだった。そして、とにかくここから離れるという点で全員の意志は統一されつつある。
脅威は今も間近にあるのだ。こうしている次の瞬間にも、アレが襲って来ないとも限らない。
そう考えると急に、この場の会話がヤツらの耳に入らないかと心配になった。
いや、ヤツらに耳という器官が存在するのかも分からないのだが……。
広瀬が注意してくれたおかげで、さすがに皆、大声で話すようなことはしていないが、では実際、どのぐらいの大きさの音だと危険なのだろうか。
〈分からない〉という事実を意識すると途端に恐怖が増す。
あれから幾らか時間が経過したはずだが、今ヤツらはどこで何をしているのか。
二階にも上がって来ているのか。
もしも、人を襲う度に増殖しているのであれば、今頃かなりの数に達しているのではないか。
あちこちで大きな悲鳴が上がり、校舎全体が蜂の巣を突いたようになっている。
そうか。相対的にこちらの出す音が小さいから、こちらにはまだヤツらが来ていないのかと想像を働かせる。根拠はないが、理屈は通っている。とにかく〈そう信じる〉ことで安心感が生まれた。
移動しよう、と声を掛けた。
恐らく自分がそう言ったのだ。
今のうちだ、とも言った気がする。
今のうち……。今の、この校舎中が大騒ぎになっている今なら安全に移動できるということだ。自分が言ったはずの言葉の意味を、後を追うようにして理解する。
つまりは、他の大多数の生徒を犠牲にして逃げようと言っているのだった。
仕方がないとはいえ、いや、そもそも夢の中の話だとはいえ、そんなドライな判断を自分が下したことに少なからずショックを受けた。
吉岡の手を握って歩き出す。
やはり夢だなと思う。
いくら緊急事態とはいえ、自分が率先してこんな行動を取るわけがない。
だが、この場にいる唯一の女子である。心細い思いをしているに違いない。
吉岡の手を引いたまま、夢の中の自分が振り返る。
皆が神妙な面持ちでついて来る中、中原だけが窓に張り付いて階下を見下ろしていた。
ヤバいぞこれは、というような呟きをしているのだと思う。
ヤバいのは分かっている。
一人遅れて階下の様子を窺う中原の様子が、それだけで、その人と成りをよく表しているなと思った。
何というか……、妙にそれっぽいのだ。
こいつなら、こんな状況でも、状況にそぐわないこんな行動を取りそうな気がする。我が夢ながら、なかなかの再現度だ。
広瀬と岩見が中原の身体を引っ張って、窓から引き剥がすのを見て再び歩き出す。
体育館と本校舎を繋ぐ渡り廊下の先はT字になっていて、左手に曲がったすぐ先に階段がある。やはり、夢の中でも現実と同じ構造になっていた。
どこにもおかしな所は見当たらない。
自然過ぎて、逆に不自然なくらいだ。もしかしたら細部までよく観察すれば現実と異なる部分があるのかもしれないが、夢の中の自分はそんなことへの興味も、構っている余裕もないらしい。
一瞬、右、左、と視線が忙しなく動いた。
階段付近には多数の生徒がたむろしていた。
校舎の構造的に考えればここにいる多くは二年生だろう。三階に上る階段の上の方から、こちらを覗き込むようにしているのはきっと一年生だ。
いずれも見知った顔ではない。階下の騒ぎに釣られて、好奇心旺盛な者が様子を窺いに教室から出て来た、といったところだろうか。
安易にこちらの方へ進むのは危険ではないか、と心の中で呼び掛けるが、夢の中の自分にその忠告が届くはずもなく、そのまま足早に階段の下り口に向かって進んで行く。
また、腹の底から込み上げる恐怖が増した。
嫌な予感がする。この階段を下りて行く気だろうか……。
視線が生徒たちをかき分けるようにして階段の下を覗き込む。
女の悲鳴、と、何か液体状のものがバシャリと落ちて床を叩く音が聞こえた。
いや、くどいようだが、実際には何も聞こえてはいない。夢の中の自分が聞いた音が、音を聞いたという実感が、恐怖と共に伝わってくるのだ。
まだ姿は見えない。
が、確実にそこにいる。
すぐ近くだ。
階段の上の方で大きな声がした。
野太い男の声だ。教師の誰かではないかと思われた。教室に戻れと声を張り上げているのだろうか。あるいは、逃げろと触れ回っているのか──。
咄嗟に息を殺す。
すぐ傍を、何かが物凄い速さで通り抜けていくのを感じた。
遅れて、生暖かい湿った風が吹き抜ける。
そこかしこで悲鳴や怒声が上がる。
逃げろと叫ぶ声。
何かが階段を転げ落ちる音。
キュッキュッと鳴る内履きの音。
バシャリ。
実際には聞こえない音の数々に意識が集中する。
校舎の隅々にまで恐怖が伝播していく。
ああ、駄目だ駄目だ駄目だ!
分かっていたのに、どうしようもない。
どうにもできないという無力感に苛まれる……!
手が痛い。
吉岡と握りあった右手の痛みだ。
吉岡が恐怖に耐えようと必死で力を込めているのだろう。
振り返る。
渡り廊下からついて来ているメンバーだけは、周囲の生徒とは対照的に、全く騒ぐことなくそこで立ち止まっていた。あの賑やかしの中原までもだ。
落ち着いているというよりも、恐怖で身動きできずにいるといった方が良いかもしれないが、とにかくこの場においてはそれが最善であるように思われた。
広瀬は自分の口に両手を当て、声を出すなと、懸命に身振りで伝えようとしているようだが、周りにいる他の生徒たちは逃げることに必死でそれに気付かない。
もう一度階段の下に視線が移る。
大勢の生徒が駆け上がって来るのが見えた。
皆、騒ぎの中心である一階から逃げて来ているのだ。
──いた。
逃げ惑う人の波の中に、異質な空気をまとい輪郭を曖昧にしたヒト型の何かが見えた。階段を上って来ようとする生徒の背中にしがみ付いて、一緒に二階に上がって来る。
人の波が媒介となって、アレを運んで来ている!
血の気が引くような感覚。
このまま息を殺してやり過ごすべきか。
だが、そんな選択はあり得ない気がした。
じきに周りを囲まれ、身動きが取れなくなる結末しか想像できない。
夢の中の自分も同じ考えに至ったのか、そろりそろりと階段から離れていく。どうやらこの階段から下に行くのは諦め、実習室棟の方に逃げる判断をしたようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます