(6)先生の語る言葉・雨音
【borderless】
ボーダーレス。境界や国境が無いという意味。かつて民宿「満月荘」に旅番組の収録に訪れた
開穂秀作は、明治時代から大切に残されているハイカラ洋風建築物が点在するこの町に感銘を受けて色紙に書き加える形で新たに二つの文言を残していった。
「borderless」
「時間も空間も人の心も──
○
『Kaune-Full moon』
○
「大吉、鼻ほじってる」
「当時まだガキだったし……」
開穂秀作のサイン色紙が入れられた額縁には番組出演者とスタッフ、祖父母の集合写真が添えられているのだが、写真に見切れる形で小学生時代の僕が写っている。だいぶ前に取られた写真なのだ。開穂秀作の頭髪に黒色が残っている。
「佳雨音、英語読めるのか?」
「うん、先生が教えてくれた。今の小学校では英語必修だからお前達にも学ばせるって。不自然にならないようになるべく現代っ子にしこーを合わせるって」
「思考……?」
「しこーって何?」
「……」
○
「ヒヒヒ、佳雨音ちゃんよ。はひふへほを唱えるぞ〜」
「うんー」
「「はーひーふーへーほー」」
話し言葉が定まらないことに気にした祖父が「星川塾を始めるぞ」と言って、ある時から佳雨音に言葉を教えるようになった。
少しずつではあるが佳雨音は言葉の意味を知るようになり、会話の端々で質問することが減った。「先生」という人物に褒められるようになったと喜んでいる姿を見たこともある。
──けれども、いつになっても「先生」という人物がどこの誰なのかを一切語ろうとはしなかった。
○
残暑が続く9月の夜。僕は民宿の縁側にあぐらをかいて夜空に浮かぶまんまるなお月様をぼんやり眺めていた。今日は十五夜。いつにも増して月が大きく綺麗に見える。
今日も雨が降っていないのにザーッと地面を叩く雨粒の音が民宿に響き渡っていた。祖母が作ってくれた月見団子を頬張っていると暗い廊下の奥からぼうっと音もなく佳雨音が現れて、思わず団子を喉に詰まらせるところだった。
「ヒョッ、ゴボッゴホッ! はーっ……驚かせるなよ。佳雨音」
「別にそんなつもりじゃないし」
佳雨音が隣に座ったので、僕は月見団子がのった皿を差し出した。
「ほら、食べるか?」
「私、お団子触れないから」
「そうなのか?」
佳雨音が「むう」と仏頂面で皿に手を伸ばすと月見団子に触れられずそのまますり抜けていった。
「別なとこでご飯食べてるから私はいい」
「えっ? 普段何食ってんだよ」
「分かんない。小さな粒々。美味しいの」
「何だよ、それ……って聞いても教えてくれない、よな。少しくらい秘密教えてくれたっていいじゃないか」
「先生に怒られたくないからイヤー」
「まーた先生かい」
僕は大きな欠伸をしながら立ち上がると、自室の障子戸を開けた。
「ねっむい。そろそろ僕は寝るからな。絶対部屋入ってくるんじゃないぞ」
「よく眠れるといいね」
「ん?」
佳雨音がにこりと笑ってみせた。
○
「はあ……」
なんだか佳雨音の言葉がやけに耳に残る。
『よく眠れるといいね』
敷かれた布団に横になり天井を見上げた。
「なんでまたあんなことを言ったんだ……」
実は……僕はだいぶ前からストレスによる不眠症に悩まされていたんだ。診療所から貰った薬に頼る日々を送っていた。
「……そういえば」
ふと、頭に過るものがあった。それは去年の冬のことだ。廊下を歩いていると雪の降る夜であるというのにしとしとと小雨の音が聞こえたのだ。
襖を開けると祖父が部屋の中でスマホをいじっていて、動画アプリで雨の音を聴いていた。
「何やってんだよ、じっちゃん」
「寝る前に自然音を聴くとよく眠れるって説明文に書いてあってな。試しに聴いてたんだ。お前もやってみろい。不眠症に効くかもしれんぞ」
いわゆる作業用BGM、睡眠用BGMというやつだった。ストレス解消にもいいと言われた。試しに聴いてみようと思っていたのだが、そのことを今の今まですっかり忘れていた。
民宿「満月荘」に晴れ雨現象が発生するようになったのと祖父と雨音の会話をした時期が重なる。
満月の夜に雨音と共に現れる座敷童子──。
「どこからか僕達の会話を聞いていたのか……?」
僕は布団から起き上がると自室の障子戸をそっと開いた。佳雨音が先程と同じように縁側に座って夜空に浮かぶ満月を眺めている後ろ姿があった。
それは──祖母が初めて佳雨音と遭遇した時に見た光景ときっと似ている。
「佳雨音、佳雨音」と僕はボソボソと声を変えた。
「この雨の音はもしかして君が鳴らしているのか? 僕のために」
佳雨音が振り返って再びにこりと可愛げに笑ってみせた。
「……なあ、佳雨音。もう少し雨の音を弱くしてほしいな。『ザーッ』じゃなくて『しとしと』が僕の好みだ」
「そう?」
僕はこくりと頷いた。その瞬間、民宿「満月荘」に響き渡る雨音がふっと急に止んで静まり返った。無音。静かすぎて怖いくらいだ。
「しとしとね」
佳雨音がそう言って手を伸ばすとまるで手品でもするかのようにくるりと円を描き指を「パチン」と弾いた。
小雨、今度は地面や民宿の屋根を優しく叩く雨粒の音が耳に入るようになった。あまどいを伝って落ちる水滴の音も鮮明に聞こえる。
「今度こそ眠れそう?」
「……ああ。と、言いたいところだけどなんだか君と話をしていたら目が冴えてしまったな」
僕は小さく開けた自室の障子戸をさらに開いた。
「佳雨音、君のことをもっと知りたいな。先生という人に怒られるのは嫌だろうから話せる範囲でいい。僕は君と仲良くなりたい」
「私がキノコのお化けかもしれないのに?」
佳雨音が意地悪そうにニヤリと笑みを浮かべた。
「それは……君の話をちゃんと聞いてから考えるさ……」
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