第3話 深夜の魔物
かび臭い布団にその身を包んだのは、午前一時のことであった。さすがに凍死の危険があるからか、申し訳程度に暖房がついてはいるものの、それでも設定温度は厳しく管理されており、依然として部屋は肌寒い。俺たちは身を守るように薄い布団に身をくるみ、厳寒の夜を過ごす。
いつもはすぐ泥のように眠ってしまうのだが、この日は強い尿意を覚え、廊下に出て共用のトイレへと向かった。人感センサー式の電灯がぼんやり灯っている廊下は、部屋にも増して寒い。あまりの冷え込み様に、俺はぶるっと身震いした。寝間着用のスウェットは生地が薄く、寒さをほとんど防いでくれない。
「あれ、森川さん……?」
トイレを済ませて部屋へと戻る途中、こちらへと歩いてくる人影があった。それは隣部屋の森川さんであった。俺と同じ新卒者であるが、大学を二留していて俺よりも年上だ。元々老けた印象の顔だったが、その老化はますます進行しているように見える。
森川さんもトイレだろうか……なんて考えていた俺は、信じられないものを目にした。
「――っ!」
廊下の向こう側の暗がりから、何かがぬらり、と姿を現した。黄色い電灯に照らされたそれは、白く細長い体をしている。その姿形も、くねくね近づいてくる動きも、明らかに人間のものではない。何か大きな生き物が、廊下を這っている――俺は恐怖でがちがちと歯を鳴らした。逃げ出そうにも、脚が動いでくれない。
ぞっとするほど不気味なそれは、するすると素早く森川さんの背後に迫った。そしてコブラのように鎌首をもたげ、彼の頭上から白い息のようなものを吐きかけた。息は霧のようになって、あっという間に森川さんの全身を包んでしまった。やがて霧が晴れると、森川さんは蝋人形のように、直立したまま動かなくなっていた。
俺はまるで凍りついたかのように、その光景を眺めていた。それは人形と化した森川さんを咥えて、ずるっずるっと引きずりながら、暗がりの中へ消えていった。
俺の脚が、ようやく動くようになった。俺は素早く踵を返して自分の部屋に飛び込み、乱暴にドアを閉めた。心臓は
「はぁ、はぁ」
今し方自分が見たものは、この世に存在しないはずのものであった。廊下の向こう側に現れたのは、真っ白な体をした、ありえないほどに巨大なムカデであった。人間の背丈よりもずっと大きいそいつが森川さんに白い息を吹きかけ、顎の牙を突き刺して連れて行ったのだ。森川さんがどこに連れていかれたのかは分からないし、あいつの後を追いかけて行って突き止めようとも思わない。
疲労と恐怖、その二つが頂点に達した時、俺の意識はふっ、とかき消えた。
午後四時、俺はけたたましく鳴る館内放送の目覚ましの音で目を覚ました。どうやら昨晩は、壁にもたれたまま眠っていたようだ。あんな寒さの中でよくぞ布団もかぶらず眠れたものである。
多目的スペースに、死んだ目をした新入社員たちが集まった。今日も過酷な一日が始まる。今日の研修は吉崎だけでなく、スキンヘッドの鮫島を加えた二人体制のようだ。この研修には二人の研修担当者がいるのだが、普段はどちらか一方しか俺たちの前に出てこないので、二人揃ったのは初めてだ。やはり二人とも、お馴染みの竹刀を手にしている。
「何で奴を逃がした?」
「いえ、してません。朝起きたらいないでした……」
「ふざけんな! 同じ部屋なんだから、しっかり見張っとけ!」
朝の作業前には朝礼がある。その場に森川さんが姿を現さなかったことで、彼と同室の鍾さんが鮫島に胸ぐらを掴まれ面罵されていた。
俺だけは知っている……森川は逃げたのではない。得体のしれない怪物に連れ去られたのだと。でも、この場でそれを言ったとして、誰が信じてくれようか。
「よし、今日も始めるぞ。鍾、お前だけはこっち来い」
「はい……」
「お前には特別メニューがある。吉崎さんのところに行け」
鮫島の声を合図に、この日の研修が始まった。俺たちに課されたメニューはスクワットやら、駐車場でランニングやら、相変わらず過酷なものであったが、鍾さんだけは吉崎がつきっきりになり、特別なメニューが課されていた。それは俺たちのものよりさらに厳しいもので、鍾さんへの制裁であることは明らかであった。言うなれば見せしめの懲罰である。
そんな中、俺は森川さんを連れ去った大きなムカデのことを考えていた。そもそもあれは、心身疲労した俺の見た幻覚なのではないか……と思ったが、森川さんが失踪したのは紛れもない事実である。となれば、昨夜の出来事は妄想の産物などではない。あのような化け物が深夜の館内を闊歩しているかと思うと、恐ろしいことこの上なかった。
その次の日も、俺たちと同じ三階にいた男性二名がいっぺんに失踪した。失踪に次ぐ失踪で、残った新入社員は俺と白石、そして鍾さんの三人だけであった。
吉崎や鮫島はその口ぶりから、本当にあのムカデのことを知らないと思われる。多分、あれのことを知っているのは俺だけなんだろう。けど、知っていたからといって、俺にできることは何もなかった。
***
真夜中の山道を、赤いボディをした一台の軽自動車が走っていた。月明かりすらない中、真っ白な外套を羽織った木々を、車のライトが照らしている。
運転する女の眼差しは険しく、ハンドルを握る手には力がこもっている。後部座席には、黒光りする散弾銃が寝かされている。
「間に合ってるといいが……」
女は目指す。姉の命が失われた、忌むべき土地を……
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