第2話 地獄の新人研修
「お前、これ本当に掃除したのか?」
「はい……しました」
「これがか? ふざけんな!」
デッキブラシでトイレの床を掃除している俺の耳に、野太い怒号が飛んできた。怒鳴られているのは、個室の便器を磨いていた白石という男だ。彼の傍で、角刈りの大男、吉崎が怒鳴り散らしながら竹刀で彼の小さな背を叩いている。
吉崎は床に置いていたビニール袋からりんごを取り出した。吉崎の頬と同じ赤い色をした果実が、便器の水溜まりに投げ落とされた。
「綺麗だってんなら、これを口で取り出してみろ」
「えっ……」
「ちゃんと掃除したって言ったの自分だろ? 掃除終わったんなら便器は綺麗になってるよなぁ? だったら何でためらうんだ」
「……やります」
「聞こえねぇよ」
「やります!」
「そうか、じゃあさっさとやれ」
白石が便座に顔を突っ込んだところで、俺はよそ見をやめた。あまりじろじろ見ていると、こっちにも怒りの矛先が向かってくる。俺はすでに擦り切れるまで履いたであろうトイレの床を、デッキブラシでなおも履き続けた。実際にトイレを清潔に保つことが大事なのではない。一生懸命やっている姿を見せることが、身を守ることに繋がるのだ。少なくとも、ここでは。
吉崎という男は新人研修の担当者で、いわば「鬼教官」とも言うべき存在であった。少しでも気に食わないことがあると、大声で怒鳴り散らしながら竹刀でぶっ叩いてくる。それ以外にも、信じられないような懲罰を科してくるのだからたまらない。新人研修が始まってから、俺もすでに何発か竹刀を食らっている。
「よし、今日はここまでだ。寝る前に今日の反省をしっかり書いておけよクズども」
吉崎の言葉で、ようやく俺たちは解放された。俺は地面にへたり込みたかったが、そんなことをすれば、また竹刀で叩かれる。疲れた様子を少しでも見せようものなら、それこそ鬼教官に暴力の口実を与えることとなる、と学習した俺たちは、なるべく疲労の色を表に出さないようにして、無言でとぼとぼ多目的スペースを退出した。
就活が上手く行かずに焦っていた俺のところに、就活支援サイト経由でスカウトメールが送られてきた。メールを送ってきた企業は、テレビCMで度々見かける有名企業の関連会社である。俺はすがる思いで書類を送ると、とんとん拍子で選考が進み、あっさりと採用が決まった。
この時、少しでも違和感を覚えていれば、こんな目には遭っていなかったかも知れない。いや、違和感を覚えたとて、がむしゃらに職を求めていた当時の自分が冷静になれたかどうかは疑問だ。
一家の大黒柱として働いてきた父親がここ数年病気がちで、その上弟は来年に高校受験を控えている。そのため、実家の財政には常に不安が付きまとっていた。それに奨学金も返さなくてはならないので、就職浪人だけは何が何でも避けたかった。
新卒採用者たちが連れていかれたのは、雪山の山荘であった。三月の雪山はまだ冬化粧を落としておらず、その上寒波の到来で殊の外寒さが厳しかった。バスを下りた俺は思わずくしゃみをしてしまったが、その時はまだ、寒さよりももっと恐ろしいものが待ち受けているとは思わなかった。
山荘に着くなり、新人研究の担当者はスマホを含む俺たちの手荷物を全て預かった。その上で「研修の内容を一切他言しないこと」という契約書にサインさせられた。新人研修担当者の名札には、俺を採用した企業とは違う社名が載っていて、どうやらこの研修は外部委託されたものらしい。この時に危険を察知していたとしても、こんな雪山では身一つで逃げ出す方が危険だ。山荘に連れてこられた時点で詰みだったのだ。
始まったのは、研修とは名ばかりの、過酷なシゴキであった。俺たちは朝四時に起床させられ、雪かき作業や館内の掃除から一日を始める。疲れで一息ついたりすれば、大声で怒鳴られ竹刀で叩かれる。それが終わると、今度は多目的スペースで体力トレーニング。やはりここでも、疲れを見せると竹刀の一撃が飛んでくる。昼間は教養を問う試験問題を解かされるが、心身ともに疲れた状態でまともに解答できるはずもない。その成績は翌日多目的スペースに貼り出された上で、その不出来をあげつらわれる。そして「自己批判精神を育てる」という名目で、自分がなぜこんなに不出来であったのかを大声で発表するよう指示される。声が小さいと怒鳴られるのは言うまでもない。それ以外にも、肉体や精神を追い込むような課題が夜中まで与えられる。
休憩時間はほとんどなく、食事も五分で済ませろと言われる。寝床に就くのは、どんなに早くても午前一時を回る頃である。昨日などは一時間程度の睡眠時間しかなかった。
毎日毎日、とにかく俺たち新入社員は、肉体的にも精神的にも追い込まれていった。研修開始から五日で、四名の新入社員が何処かへ消えた。この監獄で摩耗するより、白銀の雪原に飛び込んで死中に活を求めたのだろう。四名はいずれも小柄な女性であったから、雪山を下りて街に向かうのは厳しいのであろうが、助かる可能性がないわけではない。
逃げた彼女らは、まだ「逃げる」という能動的な選択を取れるだけの意志があった。残った俺たちは違う。そんな気を起こせないほどに、精神が辛苦麻痺してしまった。
「大丈夫? トイレ掃除の時の……」
「ああ、それは大丈夫っすけど……」
大浴場での入浴中、俺はトイレ清掃中にさんざんな目に遭っていた白石に声をかけた。高卒で就職した白石は俺と同室で、なおかつ俺と同じ西多摩の出身だったから、入浴時間にはよく話をしていた。
新入社員同士で雑談ができるのは、入浴中か就寝前ぐらいである。寝床に入れば疲れですぐに寝てしまうので、白石と話すのはほぼ入浴中のみだ。
「俺たち、何でこんなことしてるんだろうな」
「分かんねぇっす。これがいつまで続くのかも……」
白石は、はぁ、と大きなため息をついた。温柔そうな彼の目元には大きな隈がくっきりと現れており、心身の疲労のほどを物語っている。そして鏡に映る俺の顔にも、それと同じくらい大きな隈ができていた。白石の背中には、竹刀で叩かれたことでできた大きな
「だからさ、実は僕、脱走のために色々探ってるんすよ」
「えっ」
「しっ、声が大きい……」
驚いた。俺は白石という男に、そこまでの度胸があるとは全く思っていなかったからだ。逃げ出すよりも寧ろ、施設内で自殺でもするんじゃないかと心配していたぐらいだったからだ。
「誰にも言わないでくださいっすよ」
白石に釘を刺されたが、他言するつもりはもちろんなかった。
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