第4話 脱走開始

「久留米さん、起きてください」


 俺は目覚ましではなく、白石の声に起こされた。時計を見ると午前三時を回った所で、起床時間にはまだ早い。朝というより深夜である。


「さて、行くっすよ」

「え、もう行くのか?」

「善は急げ、っす。鍾さんにも声かけてあるっす」

「いつの間に?」


 どうやら、白石は今日脱走するつもりらしい。俺はあの夜廊下で見たもののことを、白石に打ち明けられずにいる。


「いや……やめておいた方がいい」


 俺の頭の中には、深夜の廊下を我が物顔で這い回る、純白の巨大ムカデの姿があった。あのムカデに出くわせば、脱走どころではない。けれども逃げなければ、怪物ムカデの這う山荘に身を置いたまま、過酷なシゴキを受け続けることとなる……どちらにせよ、リスクを取ることに変わりはない。


「何でっすか?」

「いや、あの……多分守衛の人が巡回してると思うんだよ。この間トイレ行った時も見回りの人がいたし」


 つい、俺は苦し紛れの出まかせを言ってしまった。


「それなら寧ろ好都合っすよ。守衛室はオッサン一人しかいないっすから、見回ってる間の守衛室は無人になるんすよ」

「えっそうなのか?」

「館内は施錠されて外に出られないようになってるっすけど、守衛室に鍵があるみたいなんで、一人が気を引いてる隙にもう一人が鍵を持ち去れば行けるっす」


 どうやら俺の出まかせは、却って白石の背を押してしまったようだ。


「わ、分かった、じゃあ俺も行くよ」

「じゃあ決まりっすね」


 結局、俺は押し負けた。


 その後すぐ、俺と白石、それから鍾さんの三人で、館内の守衛室に向かっていた。俺たち以外に誰もいない廊下を歩きながら、俺は怯えていた。階段を下りる時も、階下にあの怪物が現れやしないかと思うと気が気でない。

 そんな心配は、杞憂に終わった。俺たち三人は何に出くわすでもなく、守衛室へとたどり着いた。受付のガラスは内側からブラインドが下げられていて、中の様子は分からないが、白石曰く男が一人いるだけだという。

 俺はガラス張りの受付から少し離れた所にある守衛室のドアを開けようとしたが、やはり鍵がかかっていて、ドアノブは回らない。


「ここどうやって入るんだ?」

「コレっすよコレ。ちょちょいっとね」


 白石はポケットから短い針金のようなものを取り出すと、鍵穴に突っ込んでがちゃがちゃやり始めた。その後、白石がドアノブをひねると、ドアはあっさりと開いた。


「ピッキングとかできたのか……」

「まぁ……昔はワルだったんで」


 白石という男、もしかして何か、ワケアリなのではないか……俺は初めてこいつを怪しんだが、このお陰で突破口が開けたのは事実だ。中に入って電灯をつけると、そこには大口を開けて眠りこけている中年男がいた。


「さて、これでいいかな」


 俺は壁にかけてあったキーホルダーを手に取った。ホルダーにはたくさんの鍵がぶら下がっていて、玄関の鍵がどれかは分からないが、全部試せばどれかは当たりだろう。


「これだけじゃダメっす。車がなきゃ出られないっすからね」

「そっか……こんな雪の中歩いて逃げるのは厳しいよな……」


 俺の隣で、鍾さんが頷いていた。日本語でのコミュニケーションに自信がないのか、それとも性格によるのか、鍾さんは口数が少なく、朴訥ぼくとつな印象を受ける。そういえば論語には「剛毅朴訥ごうきぼくとつ、仁に近し」なんて言葉があったっけ。


「吉崎たちは別棟にいて、取られた荷物も多分そこにあるっす。とりま外に出ましょ」

「そうだな」


 キーホルダーを持ち去り、守衛室を出た俺は、そのまま玄関へと向かった。たくさんある鍵をあれこれ試しに差し込むも、どれも鍵穴に合わない。


「クソッ、これも違うか」


 いい加減イライラしてきた俺の耳が、突然奇妙な音を拾った。廊下の突き当たりの、さっき下りてきた階段がある場所から、こつこつこつ……という、足音のようなものが聞こえてくる。


 ――いや、これは人の足音じゃない!


 振り向いた俺が見たのは、森川さんを連れ去ったのと同じ、純白の巨大ムカデであった。ムカデとしてはあり得ない、アナコンダのような巨躯をもつ怪虫は、波打つように脚を動かして急速に近づいてきた。俺は震える手で何とか鍵を差そうとするが、なかなか入らない。


「何っすかあれは!?」

蜈蚣ウーゴン!?」

「ウーゴンって何ですか鍾さん」

「中国語でムカデのこと言います。でもあんな大きいのいない」 

 

 どうやら鍾さんも、あれは初めて見たのだろう。何であんなものが存在しているのかは分からない。だが今重要なのは、怪物の起源などではない。とにかくあれから逃げることだ。

 

「やった!」


 何とか鍵を差し込むことに成功した俺は、思い切り回した。急いでドアを開けた俺は、脱兎の如き足取りで外に飛び出した。

 日の出にはまだ早く、山荘の壁に取り付けられた常夜灯以外に明かりはない。寒さに身を震わせながら、駐車場目指して走った。俺たちが身を粉にして雪かきをしたお陰で、駐車場までにはアスファルトの露出した道がでできている。その道は車が通れる幅があり、敷地外の山道まで続いている。

 何とも幸運なことに、あのムカデはこちらを追ってきてはいなかった。もし全力で追いかけられたらと思うとぞっとする。


「はぁ、はぁ、やべぇ……置いてきちまった……」


 駐車場にたどり着く前に、俺は息を切らして立ち止まってしまった。気づけば、他の二人と離れ離れになっている。白石も鍾さんも無事だろうか。またあの場所に戻りたくはない、が、二人の安否も気になる。何より俺一人では、吉崎と鮫島から荷物を取り戻し、車を奪って逃げるなんてことはできない。


「クソッ……何なんだよここは!」


 人道にもとる研修が行われているのみならず、夜は巨大な化け物ムカデが闊歩するこの山荘……この世にこんなものが、存在していいはずはない。

 顔をあげて山荘を睨みつけた、その時であった。


「ぎゃあっ!」


 叫び声が、玄関の方から聞こえた。野太い声だったから、鍾さんがムカデに襲われたのかも知れない。

 助けなければ……と思ったが、素手で立ち向かえる相手ではない。行くべきか、留まるべきか、戸惑う俺の目に入ったのは、薪置き場に立てかけてあった手斧であった。

 武器があれば、助けられるかも知れない。お守りのようにぎゅっと斧を握りしめながら、俺は玄関に向かって走り出した。

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