ジブチでも自衛隊の車両が突如グリップを失い、自衛隊員が死傷するという事故が ──隊員の死亡は、事故に付随して発生した戦闘によるものだったが── 発生していた。それも輸送用のトラックでだ。今居家のトラックと同じ大型車両でだ。

 大輔の知る限り、あのトレッドゴムは乗用車タイヤにしか搭載されていない。しかし、大輔のテストドライバーとして感触から、同じ材料が大型車用タイヤにも用いられているとしか考えられなかった。

 そして、そんな大輔の疑念を裏打ちする情報が本山からもたらされたのは、彼の元に防衛省の幹部が姿を現してから二週間後のことだった。


 そもそも限界走行の「限界」とは、単に速度だけではない。気温や荷重、路面温度、湿度などによっては、大型車でも低速走行車両でも「限界」が訪れる可能性は有るのだ。従って、ジブチのような灼熱の環境下では、例の欠陥部材の安全マージンは、限りなくゼロに近いと言わざるを得ない。

 しかしコービータイヤは、大型車が乗用車ほどのスピードで走ることは無いとの理屈で ──それは理屈ではなく、単に自分たちに有利な事象を語っただけに過ぎない── あのトレッドゴムを大型車用タイヤにも採用したのだった。


 乗用車においては周知の通り、欠陥部材の使用を認めリコールを実施。タイヤが原因で発生した事故の被害者や遺族には、和解金を支払うなどの対応を行って来たコービータイヤだが、裏ではその欠陥部材の大型車用タイヤへの採用を拡大していったのだった。

 その採用理由は火を見るより明らかだろう。屁理屈をこねまわして、技術的な妥当性を謳ったところで、結局、その裏側にあるのは金である。つまり新素材の開発に投じた、莫大な開発費の回収が目的だったのだ。その為に、問題が有ることが判明している部材を使い続けたのだ。


 『なるほど。そういうことでしたか。今居さんが仰っていた通りだったわけですね?』

 電話の向こうで、統合幕僚監部の杉山が唸った。

 「えぇ、悪い想像が当たってしまいました」

 『でも良かった』

 「良かった?」

 『えぇ。今居さんが告訴されたのは乗車用タイヤに関してですが、コービータイヤの不可解な行動を考えると、今居さんが何らかの事実を握っているものと推察されました。更に絶妙なタイミングで大型車の自損事故が起こり、調べてみたらそのトラックを運転していたのが、その今居さんだと言うじゃないですか。

 そこで我々は、ジブチで起きているトラック用タイヤの問題に関しても、今居さんが突破口になるのではないかと踏んで、コンタクトを取ったわけです。そしてそれが、まんまと功を奏した』

 「はぁ・・・」


 防衛省が警察の協力を得て、交通事故の情報をリアルタイムで入手していたということなのだろうか? ここでも一般人の知らないが、蜘蛛の巣のように張り巡らされているということか?

 大輔は自分の見えている世界が、得体の知れない生物のように思えて、居心地の悪い想いを払拭することが出来なかった。


 『パンクした例のタイヤと、同時期にコービータイヤから納入されたタイヤは全品、既に日本に戻ってきております。一部は防衛大学の研究室に送られ、ゴム素材の解析が進められていて、残りの一部はフランスのタイヤメーカー、ヴェリテ・コンフィションスに送られて、あらゆる視点での性能評価が実施されています』

 「ヴェ、ヴェリテですか? ず、随分と手回しがいいですね?」

 確かに、コービータイヤの最大のライバル企業であるヴェリテであれば、この調査に全身全霊をかけて協力してくれるに違いない。ライバルを蹴落とす絶好のチャンスなのだから。

 『まぁ、自衛官が二名、亡くなっていますからね。ご遺族の心中を思えば、モタモタした対応は許されませんよ』


 しかし大輔は思った。本当にそれは杉山の、いや防衛省の本心なのだろうかと。

 自衛官が海外での戦闘で命を失ったとすれば、それは憲法違反に相当しかねない一大事だ。彼らは報道管制を敷いていると言っていたが、それもいつまで持つか判らないではないか。場合によっては、内部からのリークだって考えられるのだ。

 もしその情報が、防衛省にとって不本意な形で表に出れば、自衛隊の海外派遣という国家政策の根幹を揺るがしかねない事態になることは、素人目にだって解かる。


 つまり防衛省は「犯人」を仕立て、用意周到に準備しておく必要が有るのだ。


 輸送トラックが横転したのは、コービータイヤのせいである。それが元で銃撃戦が発生したのも、コービータイヤのせいである。そして自衛官二名の尊き命が失われたことも、全てがコービータイヤのせいなのである。そう申し開きをする為の下準備が、着々と進んでいるということではなかろうか。

 結局、防衛省も自衛隊も組織優先。自分たちを守るために別の誰かを生贄にしているだけで、やっていることはコービータイヤとさほど変わらないのだ。その相手が私人であるか、法人であるかの違いしかないように、大輔には思えるのだった。


 杉山が思い出したように言う。

 『あぁ。それから、新潟の江南警察署で作成された今居さんの供述調書。あれも入手しておきました。当該タイヤの解析結果と併せて、証拠として提出できるように』

 「証拠? まさか、防衛省がコービータイヤを訴えるんですか?」

 防衛省と警察庁。省と庁は、どっちが各上だったかな? そんなことを考えている大輔の耳に、杉山の笑い声が響いた。

 『ははははは。あくまでも可能性の話ですよ』

 杉山は大輔の言葉を笑い飛ばした。


 しかし、防衛省はコービータイヤを告訴するに違いない。世間の厳しい視線を躱すには、誰か別の悪人を差し出す必要が有るのだから。それは大輔が告訴された時と、全く同じ理屈だ。同じ理屈で、今度はコービータイヤが告訴される側に回るのだ。

 「ざまぁみろ」という気持ちが湧かなかったと言えば嘘になるが、それ以上に大輔は悲しい気持ちに苛まれるのだった。


 この世の中、常に弱い者に皺寄せが行くように出来ているのだ。弱者は抗う術も持たず、上げる悲鳴は誰にも届かず、黙って圧し潰されるだけ。そのどちら側に立つかは、神様が振るサイコロの目で決まる。そこでの勝者とか敗者とか、いったいどれ程の意味を持つと言うのだ。


 なんて無情な世界なのだろう。


 大輔はそんな風に思いながら、電話の向こうの杉山の声を聞いていた。



 「送ったか?」

 八階の窓から眼下に広がる景色を見下ろしながら、男は確認した。

 「はい。昨日、PDFを彼のメールアドレスに送っておきました」

 「彼は何か言って来たかい?」

 「送ったら直ぐに返信が来ました。どうしてこんな物が有るんだって。そりゃ驚きますよね。堀田さん達が改竄する前のが、今更出て来たんですから」


 豪奢な事務机の前に立つ馬淵がそう答えても、男が後ろを振り返る素振りを見せることは無かった。背後からその表情をそっと盗み見た限り、男の目は何処か遠くを見ている様にも、あるいは直ぐ近くを見ている様にも見えるのだった。


 「何て説明したんだ? そんな報告書が存在すること自体もそうだが、それをこのタイミングで、ましてや設計本部の君が送り付けたんだ。今居君はその理由を知りたがっただろ?」

 「直接会って渡したわけじゃありませんからね。適当に誤魔化しておきました。『もし必要だったらお使い下さい』とだけ書いて」

 「そうか」

 男は「ふぅ」と溜息のようなものをついた。

 「後は彼が、それをどう使うかだが・・・ まず間違い無く、それは防衛省に渡るだろうな。彼らがコービータイヤを追い詰める為の、重要な証拠になる筈だ」

 「えぇ、多分。それにしても驚きました。うちの会社が防衛省から訴えられるなんて。しかも、既に辞職した今居さんに接触して証拠固めをするとか、考えてもみなかった・・・」

 「どうした? 心配なのか?」


 この時になって初めて男は振り返り、馬淵に正対した。しかし窓から差し込む夏の明るい日差しが背景となり、男の姿は暗く沈んだ影となってその表情を見通すことが、馬淵には出来ないのだった。


 「負けますよね、この裁判」

 「あぁ、十中八九、負けるね。勝ち目なんて無いさ。法務部が腕利きの弁護士団を雇ってるそうだが、敗色は濃厚だ」

 「・・・・・・」 

 打ち沈む馬淵を見て、男は可笑しそうに笑う。

 「ふふふふ。君みたいな若い社員は不安だろうな。自分の会社が、ましてや防衛省みたいな所から訴えられてるんだ。一時的には業績にだって響くだろう。今期のボーナスが減額の憂き目にあう可能性だって有る」

 「はい」

 「でも高く跳ぶためには、一度しゃがまないとダメなんだ。今はその力を両脚に蓄える時なのさ」

 「はい・・・」


 馬淵には、男の言う言葉の意味は解っても、それをそのままポジティブな感情に結びつけることが出来なかった。ただ、彼の言うことを信じる以外に、今の自分に出来ることは無いのだということも、また揺るがし様の無い事実なのであった。


 「あっはっは。心配するな。コービータイヤはそれほどやわな会社じゃないよ。

 それに防衛省だって、何処まで本気なのか判ったものじゃない。それは君だって知ってるだろ? 何せつい最近、その前例を見せつけられたばかりだからな」


 彼が本気で笑っているのか、それとも部下の前で虚勢を張っているだけなのかは、馬淵には判らない。しかし、信頼に足ると判断した上司の判断に異を唱えられるほど、彼の社会人としての経験は深くはないし、会社内での発言力も無い。実績だって無い。

 ここは黙って、彼の指示に従うべきなのだろう。そしてそれが、サラリーマンとしての在るべき姿だとも思えた。


 「それより私は、君が自分のPCにオリジナルの報告書を保存していたことの方が驚きだったけどね。お陰で我々には戦略上の選択肢が出来たわけだが・・・。どうして君はそれを個人持ちしていたのかね?

 社内のデータベースシステムが運用を開始して以来、自分が依頼した試験の報告書をそんな風に、律儀に手元に置いておくエンジニアはいなくなったと思ってたんだが。特に若い世代ではね」

 男の伺うような視線を感じて ──あくまでも感じてである。男の表情は影となって見えないのだから── 馬淵は姿勢を正して答えた。

 「上司命令です」

 「上司命令?」

 「はい。Eagle Pilot 2の問題が市場で顕在化し始めた頃、『念のためにコピーを確保しておけ』と言われたんです。最初は意味が判りませんでしたが、とにかく言われた通りに」

 「本部長がか? いや、長田君はそんな策士じゃないな。多分、鷲尾部長だな?」

 「はい」

 「そうか。奴も中々切れる男だからな」

 男はまた振り返り、馬淵に背を向けた。そして再び、窓の外を一心に見詰め始めたのだった。



 それから半月後、東京地方裁判所において全国民が注目する裁判の第一審が始まり、第一回口頭弁論では、おおかたの予想通り双方の主張が真っ向から対立した。この防衛省 vs. コービータイヤという、前代未聞の裁判沙汰の詳細は、マスメディア各社がこぞって取り上げたが、それに拍車をかけたのは防衛省側が提出した証人リストであった。

 目ざといジャーナリストたちがリストの中に、かつての従業員であった今居大輔の名前を見つけ ──大輔がコービータイヤから告訴されていた当人であることは、報道関係者の間では周知の事実だ── 憶測が憶測を呼ぶ、加熱報道の幕が切って落とされた。

 「今居さんっ! コービータイヤの不正を最初から知っていたんですか!?」

 防衛省の黒塗りの公用車が裁判所の正門に差し掛かっていた。数多くの報道陣たちが、それを取り囲むようにしてフラッシュの雨を降り注ぐ。

 「組織ぐるみの不正を暴こうとした為に、今居さんがコービータイヤに不当に解雇されたというのは本当ですか!?」

 「コービータイヤに対して、何か言いたいことは有りませんか?」

 その群衆を押し退けるようにして車が門をくぐると、そのスライド式の鉄扉がガラガラと音を立てて閉まった。しかし、なおもテレビ局のレポーターたちが、芝居がかった声を投げ付ける。

 「今居さんっ! 今居さんっ! 今のお気持ちをお聞かせ下さいっ!」



組織図8

────────────────────

コービータイヤ

 ├CEO

 │├販売事業管掌

 ││└販売部門

 ││ └消費財販売本部(大門)

 ││

 │└知財・法務管掌

 │ ├法務部門

 │ │└法務部

 │ │ ├渉外室

 │ │ │・田後基也

 │ │ └コンプライアンス室

 │ │  ・森山友美

 │ └知的財産部門

 │

 └COO

  └技術分掌(野坂)

   └技術統括部門(堀田)

    ├材料研究本部(田辺)

    │└材料研究部(川嶋)

    │ └機能性材料研究課

    │  ・光重真紀

    │  ・本山真治 → 出向

    │

    ├構造開発本部(横溝)

    │└構造開発部

    │ └数値解析ユニット

    │

    ├設計本部(長田)

    │└乗用車タイヤ設計部(鷲尾)

    │ └消費財タイヤ設計課

    │  ・馬淵一成

    │

    └支援本部

     ├試作工場

     ├室内試験所(堂下)

     │└小型タイヤ試験ユニット

     │ ・神谷直樹

     └実車試験部(川渡)

      ├管理課

      │・橋野由佳

      ├生産財試験課

      │・高山元春

      └消費財試験課

       ・今居大輔 → 辞職

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