5
彩香が自ら開いたドアの向こうには、隙の無いスーツで身を固めた二人の男が立っていた。彼らは礼儀正しく頭を下げると、玄関には足を踏み入れず、その場から声を掛ける。昼食を採っている大輔の姿を認め、遠慮したのだろう。
「今居大輔さんでいらっしゃいますでしょうか?」
「は、はい・・・」
「私、防衛省の大村と申します。お忙しいところ、申し訳ありません。私どもは表で待たせて頂きますので、お食事が済んだタイミングでお話を伺いたいのですが。宜しいでしょうか?」
丁寧な言葉使いだが、有無を言わせぬ威圧感を感じた。しかし大輔は、その二人に敵対的な感触を持つことなく、むしろそれが信頼できるものであるように感じたのだった。
大輔は卓袱台の前で正座し直すと、クルリと玄関に向かって正対し、佇まいを整えた。
「判りました。直ぐに食事を済ませますので、もう暫くだけお待ち下さい」
それを聞いた大村と名乗る男は顔をほころばせる。
「お急ぎになる必要は有りません。どうぞごゆっくり召上がってください。それでは、我々は表の車の中で待たせて頂きますので、ご都合がつき次第、お声掛け頂けますか? それでは」
男たちが丁寧な挨拶と共に立ち去ると、それを見送った彩香が玄関に突っ立ったまま心配そうに言う。
「何だろう? また面倒なことが始まるの?」
「さぁ、どうかな。そういう感じは受けなかったけどな・・・。まっ、いいや。お昼済ませちゃおうよ。お言葉に甘えて、ゆっくりとね」
コービータイヤに訴えられたり、トラックごと横転しそうになったりと、もう今の大輔は多少のことでは驚かなくなっていた。何がどうなって防衛省のお出ましとなったのかは判らないが、騒いだところでどうなるものでもない。ここは腹をくくって、事の成り行きを見守ろうじゃないか。
そしてこの時、大輔は確信していた。例のタイヤの件に違いないと。
しかし彩香は、流石にそこまでは肝は据わっていないようだ。
「何言ってるの!? ゆっくりとなんて、してられるわけ無いじゃん! 私、こう見えても繊細なんだからねっ!」
思わず彩香が大声を上げると、その声に反応した陽太が眠りながら顔を歪めた。うるさくて安眠が阻害されたのだ。もうちょっとで、目を覚ましてしまうところだったに違いない。
その様子を見た二人は、また急に小声になる。
「またまたぁ。クスクス」
「うるさいわねっ! もう、食欲なんて無いんだってばっ!」
そう言いながらも、以前ほどは狼狽えなくなっている彩香を見て、彼女も強くなっているのだと大輔は思うのだった。
「もう、お昼なんていいから。さっさと話聞いて来てよっ!」
「えぇ~。このチキンソテー、俺の大好物なのにぃ」
「チキンはちゃんと取っといてあげるから、行ってきてってば! 私、生きた心地がしないんだからっ! 早くっ!」
「はいはい、判りましたよ。行ってくりゃぁいいんでしょ、ったく・・・」
渋々の体で立ち上がった大輔は、立ち去り際にチラリと陽太の寝顔を見た。そしてフッと表情を緩めてから部屋を出て行った。
その後ろ姿を、彩香は不安そうな面持ちで見送った。
*
「ジブチ・・・ ですか?」
聞き慣れない言葉に目を白黒させながら、大輔が後部座席から聞き返す。
三人の男は今、大村たちが乗って来た黒塗りのレクサスの中にいた。この低所得者向け集合住居に似つかわしくない高級車が、場違いな雰囲気をまき散らしながら浮き上がっている。
「はい。ジブチ共和国の首都ジブチにある、自衛隊初の海外拠点です。ジブチ国際空港内に在留しております」
自らを防衛事務次官だと紹介した大村が、助手席から説明した。
年の頃なら五十代後半といった感じだろうか? だが大輔には、防衛事務次官という役職がどういったものか判らなかったし、防衛省内においてどれくらいの地位に位置するのかも判らなかった。ただ、とにかく上の方であろうことだけは、彼の自信に満ちた所作の端々から感じられるのだった。
一方、大村に帯同している方はもう少し若いらしく、四十歳前後と思えた。その杉山と名乗る運転席に座る男は、更に意味不明の肩書を持っていて、統合幕僚監部の総括官だという。
その厳つい組織名からして、明らかに自衛隊の中の一組織と思えたが、やっぱり良く判らない。肩書の仰々しさと比較してスラリとした細身の身体は、自衛隊と言えども彼が、いわゆる制服組(武官)ではなく背広組(文官)であることを表しているのだろう。
「何ですか、それ?」と聞き返したい思いを飲み込んで、大輔は杉山の差し出す名刺を受け取った。
「ジブチってアフリカですよね? そんな所に自衛隊の基地が有ったんですか?」
二人から貰った名刺をしげしげと眺めた後、それを胸ポケットに仕舞い込みながら大輔が尋ねた。
「基地という言葉が適切なのかは判りませんが、常時二百名から三百名ほどの自衛官が駐屯しております」
「は、はぁ・・・」
大村の説明では要領を得ない様子の大輔を見て、杉山が解説を加える。
「ソマリアの沖合、アデン湾で頻発している海賊被害から、日本船籍の船舶を守る任務に当たっています。今居さんもニュースとかでお聞きになったことが有るでしょう」
「確かに、タンカーが海賊に襲われたってニュースは、何度か聞いたことが有りますね。あれって、まだ続いていたんですか?」
大輔は記憶の奥を探るように、斜め上の宙を見上げながら応えた。
しかし実情は、杉山の説明とは少し異なっていた。
実は、中国軍も海賊対策の名目でジブチ国内に基地を置いており、自衛隊の任務はその中国軍に対抗するものへと変わりつつあったのだ。つまり、海賊への対処というのは国内世論を躱す為の方便でしかなく、実際はアジア全域への海洋進出を目論む中国を牽制し、日本経済の生命線であるところの、いわゆるシーレーンを防衛することが主目的である。
PKO活動の一環として自衛隊が南スーダンに派遣された際は、国内世論を二分する大論争になったものだが、この海賊対策のジブチ派遣に関しては野党側も黙認の姿勢を貫いた。それはひとえに対中国政策という、日本国民には語られていない裏事情 ──中国を刺激しないために、表立って取り沙汰されることはなかった── を考慮したものであったのだ。
だが、そんな裏事情を説明する必要も無いし、すべきでもない。大村が解説を始めた。
「何となく雰囲気はお判り頂けると思いますが・・・
ジブチは決して治安の良い国ではありません。元々はフランスの植民地でしたが、独立を求める統一民主回復戦線の蜂起により内戦が勃発しました。そこには、従来より燻っていた民族間問題も絡んで複雑な対立構造となり、長く流血が続いたのです。
その後、独立を勝ち取って終戦を迎え、現在のジブチ共和国が誕生したわけですが、これで全てが平和に帰結したわけではありません。結局のところ、どのような政治体制になったとしても、現状に不満を持つ人間は少なからずいるもので、外国の軍隊が駐屯することに対して、良からぬ感情を抱く者は多いと言わざるを得ないのが実情。彼らにしてみれば軍隊も、我々自衛隊も結局は同じようなものですからね。
武力で独立を勝ち取ったという歴史、つまり成功体験からでしょうね。彼らは武力を行使することに躊躇も罪悪感も無く、今もなお内戦の火種が燻っていると言ってもよいのです。
そもそもジブチは・・・」
と、いつまでも続く大村の講義に、大輔がしびれを切らした。そんな何処に有るかも判らない国の建国にまつわる歴史を紐解かれても、どうしたら良いのか判らないではないか。
「あ、あのぉ・・・ すいません」遂に大輔が割り込んだ。「その・・・ 結局、ご用件は何でしょうか? 話を聞きたいということだったと思うんですが・・・」
大輔に急所を突かれた大村は、一瞬だけポカンとした顔を見せたが、直ぐに自分のヘマに気付いて笑い出した。
「あっはっはっは。これは申し訳ありません。つい、つまらない話を長々としてしまいました。どうぞ、ご容赦下さい。わっはっは」
大村は恥ずかしそうに、自分の額を平手でペシリと打った。
「いえ・・・」
自ウケしている大村の代わりに、杉山がルームミラーを覗き込みながら説明を引き継いだ。
「我が自衛隊の陸上部隊の件です。今年の三月頃です。彼らが物資を運んでいる時に、輸送トラックが一台、横転するという事故がおきましてね」
「えっ?」
大輔の頭の中で電灯が灯ったような気がした。そうか、そういうことか。
「その事故が起こった場所が悪かったのです。それは、他国軍の駐留すら認めず、真の独立を求める過激な武装集団の勢力圏内でした。勿論、この件は厳重な報道管制によって日本国民の知るところとはなっておりませんが・・・ 偶発的な交通事故が引き金となって銃撃戦に発展し、二名の自衛官の命が奪われております」
「えぇっ!? 自衛隊の方が亡くなられたんですか? 海外の戦闘で!?」
「この件は、是非とも内密にお願いしますよ。決して他言なさらぬように」と、大村が口を挟んだ。
大村の心配は当然だろう。自衛隊は表向き、海外のいかなる活動においても、戦闘行為など一度たりともしたことはなく、今後もしないことになっているのだから。政治家の言葉遊びの陰で、このような死傷者が出ていることが明るみに出れば、日本中が大騒ぎになることは目に見えている。
しかし、今の主題はそれではない。大村の余計な一言のせいで、再び話が逸れそうになるのを杉山が強引に引き戻した。
「当初、我々は不運な事故と不都合なシチュエーションが、たまたま重なっただけだと考えておりました。あれは不可避だったと報告書にも記載されています。
しかし調査の結果、ジブチにおいて大型車両が走行不能に陥る同様の事故が、他にも散見されることに気付いたのです。一つ一つの事案は単発的な事故として処理されていたとしても、全体を俯瞰してみれば、それらは互いに関連し合う一連の事象としての性質を帯び始めます」
言葉を切った杉山と、大輔の視線がルームミラー越しに重なった。
「それらの事故の共通項が、コービータイヤだった?」
全ての事情が飲み込めた大輔が静かに問うと、杉山が半身になり運転席から後ろを振り返った。
「ご推察の通りです」
*
グランデュオ立川の七階にあるカフェで、クロワッサン・ワッフルを頬張る光重の姿が有った。
今日は火曜日。保育園に通う娘のお迎えは、月・水・金が彼女の担当で、火・木は夫が行ってくれる。そんな時間的余裕が有る日、彼女はたまにこうして駅ビルに入る店に寄り道しては、ほんの少しばかりの息抜きをしてから帰途に就くのだった。
この店の「いちご&練乳バターワッフル」が彼女のお気に入りだ。それを小さく切り分け、トッピングに絡めてから口に運ぶ。そしてそれをレモングラスのハーブティーで流し込めば、至福の時が訪れる。
妻、主婦、そして母親という多面的な要望に応えつつ、エンジニアとして働き続けることは、人には言えないほどの小さなストレスを大量に抱えることに他ならない。そんな自分へのご褒美が無くして、彼女は今の生活を続けることなど出来ないのだ。
舌の上で広がる甘味に、真紀の目が細まった。
その姿をテーブルの向かいに座る本山が、呆れたような顔で見ていた。
「前から言おうと思ってたんですけど・・・ そんな甘いもの好きで、よくその体型を維持できますね? 何か運動でもやってるんですか?」
折角の幸せなひと時を邪魔された真紀は、無遠慮に話しかけてくる本山に渋い顔を作って見せた。
「たまにしか食べてないわよ、たまにしか。それより本山君がこんな店に一人で来る方が、私には信じられないんだけど・・・ いったい、どういう風の吹き回しかしら?」
「ははははは。すいません、実は光重さんが来るのを待ち構えてました。月・水・金はこの店に寄り道して帰るんだって、よく聞かされてましたから」
本山はブラックコーヒーを啜った。彼は人一倍食べるタイプだが、甘いものは苦手だ。
「待ち構えてた?」彼女はフォークを咥えたまま目を丸くする。「あらヤダ。私、あなたと不倫する気なんてサラサラ無いわよ。私、年下には興味無いし、そもそも本山君、タイプじゃないし」
その取り付く島もない言い草に、本山はわざとらしく頭を掻いた。
「酷いなぁ。俺、年上の女性には興味津々ですよ。ついつい言いそびれちゃいましたけど、俺、入社した時から光重さんのこと・・・」
「冗談はいいから、言いなさいよ。わざわざ私を待ち伏せした理由は何? って言うかその前に、最近どうなのよ? 神戸エンジに飛ばされて・・・ 元気でやってるの?」
「はい、お陰様で。以前と変わりなくやってますよ。給料は下がっちゃいましたけどね」
本山は再び頭を掻いたが、今度のは芝居ではなく本当のやつだった。
「ほら言わんこっちゃない。やめとけって言ったのに、私の言うこと聞かないから」
真紀はフォークの先を本山の顔に向けるという、少々い行儀の悪い仕草で言った。
「がはははは。やっぱ先輩の言うことは聞いておくもんですね」
「当たり前でしょ。んで? やっぱり例の件かしら?」
「はい。例の件です」
「えぇっ!? どういうことですか、それ?」
思わず身を乗り出した本山のせいでテーブルがガタリと動き、彼の飲みかけのコーヒーが波立った。真紀はワッフルを終わらせ、今はハーブティーのカップを両手で包み込むようにして飲んでいる。
「どういうことも何も無いわよ。その言葉の通りよ。EP2(Eagle Pilot 2)を回収(リコール)した後、発熱特性を改善した新しいTOP(トレッド用ゴム)が採用されたでしょ? でもそんなもの、誰も開発してないわ。存在すらしてないのよ」
どちらから言い出したわけでもないが、二人は社内のみで通じる用語を使って会話していた。万が一、誰かに聞かれても大丈夫なよう気を使っているのだ。何処にどんな人間がいるか、判ったものではないのだから。
だが、もし同業他社の、つまりタイヤ業界の人間が聞いていたら、凡その話は通じてしまうのだが。
「じゃぁ・・・」
「前モデルに採用されていたコンパウンド(ゴム材料)よ。一つ前の部材に戻しただけ。それを新規材料と偽って、さも新しい技術が搭載されているかのようなことを謳っただけ。社内でも材料系の人間は、みんな気付いてるわ」
本来であれば、真紀はこんな厄介事には首を突っ込まないタイプの筈だった。しかし、直属の可愛い(?)後輩を、あのような形で左遷してしまった会社に対し、彼女は深く憤りを感じずにはいられなかった。それが彼女の心変わりを促してしまったのだ。
もしあの件を部課長に報告したのが自分だったら、会社はどのような態度に出ていただろう? そう考えると、コービータイヤに対し一欠けらの忠誠心も感じることが出なくなっている自分に、真紀は気付くのだった。
本山は乗り出していた身体を引き、信じられないといった様子だ。その時の彼の心中には、大輔の言葉が蘇っていた。
(あの会社は何だってやる)
本山にとっては、京都の一流国立大学で化学を専攻し、修士まで取得して就職を果たした会社だった。自らが望んで入社した、日本を代表するグローバル企業の一つだった。その会社の社員であることに誇りを持ち、希望に満ち溢れた将来に向かって働いていた筈だったのに・・・。
しかし蓋を開けてみたら、彼はその会社から裏切られ、使い捨ての駒のように抹消された。しかもそれだけでは飽き足らず、またしても世間を欺く卑劣な施策に打って出たのだと言う。
夢や希望が現実に圧し潰されるというのは、よく耳にする話ではあるが、こんな形で裏切られることも有るんだなと、彼は呆然とする想いだった。
「それじゃぁ、何でもアリじゃないですか? コンプライアンスだ何だって偉そうに騒いでいたくせに、全く中身が伴っていない」
「有名企業だから、体裁を整えるのだけは得意なのね」
真紀の態度からは、彼女の心境が「呆れ」を通り越して、既に「諦め」の境地に達していることが窺えた。そして本山の質問は、更に核心部へと踏み込んだ。
「PS(乗用車用タイヤ)は判りました。俺が聞きたいのはTB(トラック・バス用タイヤ)の方なんです。そっちの方に関しては、何か聞いてませんか?」
「TBはねぇ・・・」
「あっ、光重さん。ハーブティーのお代わりは如何ですか?」
「えぇ、頂くわ」
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