「ごめん。チョッと聞きたいことが有るんだ。勿論、嫌だったら、遠慮せずに断ってもらってもいいんだけど・・・」


 茨城の自宅に戻った大輔は、本来であればピンクのトラックが駐車されているはずの空き地に立って、スマホを耳に当てていた。丁度、昼寝を始めたばかりの陽太が目を覚まさないよう、外で電話を掛けているのだ。


 「無理強いできるような事じゃないってことは、十分判ってるから」

 『何だい、何だい? 今居っちらしくないじゃん。いや、むしろ今居っちらしいと言うべきだな? そっちこそ遠慮なんかすんなよな』

 スマホの奥からは、相変わらず元気の良い本山の声が漏れ出てくる。

 「うん、有難う。蒸し返すようで悪いんだけど・・・ 例の件なんだ」

 『例の? まさかEagle Pilot 2の話かい?』

 「本当にごめん。きっと思い出したくもないだろうけど・・・」


 相棒を失って気落ちしているかのように黙りこくっているAE86のミラーを弄びながら、大輔は答えた。そして思い出したようにポケットからキーを取り出すと、愛車のドアを開けて運転席に座り込む。


 『いやいや、今居っちに比べたら、俺なんかまだ良い方だし、構いやしないよ。それに、もう子会社に飛ばされた身だ。この先どうなろうと知ったこっちゃないさ。

 で、あのタイヤがどうしたんだい? もう社員じゃないからリアルタイムの情報は無いけど、何か探って欲しいことでも有るのかい?』

 「いや、これ以上、本山が酷い目に遭うのは耐えられないよ。だから、知ってる範囲で教えてくれるだけでいいんだ」


 悪戯好きの子供のような本山が、この話に前のめりになることは判っていた。しかし、今頼れるのは、材料系の彼しかいない。高山も神谷もが違うので、情報を入手するには不必要な危険を冒さねばならないからだ。何がどうなって、会社が彼らに目を付けてしまうか判らない。

 申し訳ないが、今は本山の無謀とも言える行動力に頼らざるを得ないのだ。大輔に出来ることと言えば、せいぜい彼が無謀なことをしでかさないよう、抑え役に回ることくらいだろう。それを承知の上で、大輔は本山にコンタクトを取ったのだった。


 『大丈夫だって。俺はもうの社員じゃないから、アイツらの眼中には無いんだよ。アウト・オブ・眼中ってやつさ。がははは。お陰で、むしろ自由に動けるって言うか、部外者なのに内部に留まってるって言うか』

 「なるほどね。で、今でも本体には顔は利くのかい?」

 『馬鹿にしてもらっちゃ困るね、今居君。俺を誰だと思ってるんだい? っていうか、追い出された経緯をみんな知ってるから、むしろ俺には同情的ですらあるんだな、これが』

 「はっはっは。あんな会社でも、中で働く人間にはが有るってことか。皮肉なもんだね」

 本山の自虐的な口振りに、大輔の胸が少しだけキュンと痛んだ。


 とは言え、それこそが世の中の本質であるようにも思えるのだった。つまり、個々人は皆、悪人などではないのだ。いや「皆」というのは言い過ぎか。多分、「多くの」人間は、善良ですらあるのだろう。

 しかし彼らが、組織という目に見えないプラットフォームの構成要素であることを強いられた時、彼ら自身の心は影を潜め、組織の理論がそれに取って代わるのだ。そしてその理論には、人を思いやる優しさなど微塵も含まれず、ただ己 ──つまり組織── の利潤追求と永続的な存続のみが優先される。


 それは先の新潟で、警察官に事情聴取を受けた時にも感じたことだ。にこやかに接してくる彼らの笑顔の裏に、血の通わぬ組織の都合が見え隠れしていたように、コービータイヤの社員にも同じことが言えるのだろう。

 そこには教育というの名の下で、子供の頃から擦り込まれてきたはずの「道徳」とか「倫理」、或いは「正義」や「思いやり」といった言葉が入り込む隙間は無い。そう考えると、いったい教育とは何を成したのかと思わざるを得ない。

 大輔はそんなことを考えながら、これまでに起こったことのあらましを、本山に語って聞かせたのだった。


 『へぇ~、そんなことが? それはお気の毒だったね。

 って言うか、いつの間に結婚したんだよ? しかも子供まで。この俺に、何の報告も無く! 俺なんて、いまだに独身だぞ! どぉしてくれるんだ!?』

 「あははは、悪い悪い。色々とバタバタしっ放しでさ」

 『あぁ、確かにそうだったね。でも無事で良かった』

 「うん、有難う」


 大輔がコービータイヤに告訴されていた当人であることは、本山も薄々は気付いていたのだろう。お茶らけた口調が、急にかしこまったものになった。

 彼の言う「無事で良かった」には、交通事故のことだけでなく、あの訴訟の件も含まれているに違いない。大輔は、会社を辞してなお心配してくれる人々が沢山いることに、感謝の想いが湧き上がるのを止めることが出来なかった。


 『よし判った。昔の同僚とか後輩に、それとなく聞いてみるよ。奥さんと陽太君・・・ だっけ? その、今居っちジュニアの仇を取るんだったら協力させて貰うよ』

 「有難う。でも、くれぐれも無理はしないでくれよな。あの会社は何だってやるってこと、俺たちは身をもって知ってるんだから」

 『心配すんな。今度は慎重に事を運ぶよ。ヘマを犯さないようにね。追って連絡するから、暫く待っててくれ』


 ふと視線を上げると、AE86のフロントガラスの向こうに彩香の姿が見えた。彼女は大輔を探しに出て来たらしく、車の中で電話をしている夫を見つけると、両手で茶碗と箸の仕草をした。

 お昼ご飯の準備が整ったらしい。大輔は軽く右手を挙げてそれに応えた。


 「サンキュー、本山。恩に着るよ」

 『よせよ。んじゃぁな』

 「あぁ。またな」



 テレビのボリュームを絞り、小さな卓袱台を挟んで彩香と昼食を採る。こうしていると、二人が初めて出逢ったあの頃を思い出す。あの時、確か冷蔵庫が空っぽで・・・。

 今となってはただの笑い話だが、あれから随分と色んな事が有った。ただ、冷静に考えてみれば怒涛のように時間が過ぎていっただけで、決して大昔の話ではないということに思い当たり、大輔は驚きを感じずにはいられないのだった。


 昼寝中の陽太がタオルケットを蹴とばした。


 その度に彩香は食事を中断し、そっとかけ直してあげる。まだ腕のギプスは取れず、肌が擦れて時折痒がったりするが、順応の速い子供は早々に不自由な左腕にも慣れてしまうようだ。今はムズがる様子も見せず、良い子で眠っている。こんな静かな時間が二人の間に訪れることなど、ちょっと前までは想像すら出来なかった。

 確かに今はトラックを失い、生活費をいかに工面するかという苦境に立たされてはいる。しかし、立たされてはいるものの、何物にも代えがたい家族とこうして、平和な時を過ごせているのだ。決して裕福ではないが、自分は豊かな人生を歩んでいるのだという感慨を、ひしひしと感じることが出来るのだった。


 「何か判りそうなの?」

 陽太の眠るベッドから戻って来た彩香が、食べかけの茶碗を持ち上げながら問うた。戻って来たと言っても、手狭なリビングに無理やりしつらえたベビーベッドだ。ちょいと首を伸ばすだけで、陽太の寝顔を見ることが出来る。

 「どうだろう? 本山に聞いてるんだけど、どうなるかね」

 「本山さんて、例の件で子会社に飛ばされちゃった人だっけ? 大輔の同期の」

 お新香を摘まんだ箸の動きを止めて彩香が聞く。大輔は味噌汁を一口、ズズズッと啜ってから答えた。

 「うん、そうなんだ。だから無理に調べてくれとは言えないし、言うつもりも無い。ただ、アイツは独身で身軽だし、性格的に『猪突猛進』タイプだから、誰かにやめろって言われても無謀なことをしちゃうんだけどね。困った奴だよ」

 「ウチの慎重派の旦那様とは真逆のタイプかしら? クスクス」

 彩香は悪戯っ子のような視線を大輔に送る。

 「そうだね。まるっきり逆だ。だから俺とアイツは、一周回って馬が合うのかな?」


 お昼のバラエティー番組で、会場にいる観覧者の歓声がドッと上がるのが聞こえた。ただし音量が絞ってあるので、まるで開け放した窓を通して、ご近所のテレビの音が漏れ聞こえているだけの様にも思えた。

 長閑な昼下がりだった。


 「で、もし何か判ったら・・・ 大輔はどうするつもりなの? 私はお気軽に『戦え』なんて言っちゃったけど、やっぱりあなたがそんな無謀なことをするとは思えないな。なんてたって慎重派なんだから。うふふ」

 と言ってから彩香はお新香をポイッと口に放り込み、ポリポリと咀嚼を始めた。

 「うぅ~ん・・・ 何が判明したところで、結局、何もしないかもね。失う物の大き過ぎるギャンブルは、やっぱり出来ないよ。一時の感情に任せて、後先考えずに行動するなんて」

 大輔がそう応えると、そのポリポリ音が突然止まった。大輔が思わず視線を上げと、彼女が半分笑って、半分呆れたような顔で見返していた。

 「部長に辞表叩き付けて会社を辞めた人が、何言ってるんだか」

 「あははは。あの時はほら、俺も独身だったし」

 大輔の言葉を受けて、彩香の表情が少しだけ引き締まる。

 「今は妻子が有るから?」

 「まぁね」


 塩コショウでソテーしたチキンの胸肉を一欠け、ご飯の上に乗せた大輔は、それをライスと一緒に箸ですくった。そして大きな口で頬張ろうとした時、彩香がじっと見つめていることに気付いて動きを止めた。


 「ねぇ大輔。私や陽太のこと、あなたの手枷足枷のように思わないで欲しいな。そう言っても思っちゃうんだろうけど。それが大輔の優しさだってことは判ってるんだけど」

 行き場を失ったチキンソテー&ライスを、大輔は一旦、茶碗に戻す。

 「まさか。そんな風に思ってるわけ無いじゃん。ただ冷静に、一番大切な物を最優先に考えてるだけだよ」

 自分が誰かの重荷になっていると思うことほど、辛いことは無いだろう。彩香の気持ちは良く判る。大輔はニコリと微笑みながら応えた。

 「うん、判った。でも私は、何が有っても大輔のことを支えるつもりだから。それだけは忘れないでね」

 「うん、有難う」

 そう言って大輔は中断していた食事を再開し、今度こそ例のチキンソテー&ライスを頬張ることに成功したのだった。

 「ほぉら。お礼なんて言わないの。当たりのこと前じゃん」

 確か本山にも同じようなことを言われたな。そのことを思い出し、大輔はまた笑った。


 その時、玄関のブザーが来客を告げた。カメラ内蔵の高機能なインターフォンなど無い。外のボタンを押すと電流が流れ、「ビーーーッ」っと色気の無い音が鳴る、昔ながらのブザーだ。一瞬、顔を見合わせた二人だが、彩香は直ぐに立ち上がって靴脱ぎに向かう。そして上り口に降りて、チェーンを掛けたまま細めにドアを開けた。


 狭い家だ。玄関での客とのやり取りも、普通なら居間にいる大輔の耳に届くはず。しかし、ドアの隙間越しに来客と交わす彩香の言葉は、ボソボソとくぐもった音となって伝わって来るだけで、彼の耳には聞き取れない。

 不審に思った大輔が、玄関に立つ彩香の後姿を見詰めていると、彼女はしきりにお辞儀を繰り返しながら、静かにドアを閉じた。そしてチェーンを外す。

 その時の彼女の背中には、若干の緊張が浮かび上がっているのを大輔は認めた。

 「何? お客さん? 誰が来たの?」

 彩香はゆっくりと振り返り、蒼ざめた表情で言った。

 「防衛省の人。聞きたいことが有るんだって」

 「ぼ、防衛省っ!?」

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