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子供用のベッドで眠る陽太を、愛おしそうに見つめる彩香の姿が有った。ブラインドカーテンを上げ切った窓から覗く夏空には、モクモクと盛り上がる積乱雲が、強い日差しに負けじとそびえ立っていたが、ホンノリとオレンジ色に染まるその姿は、夕焼けが近いことを告げていた。
その照り返しを受ける病室内は明るい。外はうだるような暑さだろうか? 空調の利いた病院内にいると、それがまるで一枚の絵画であるかのような錯覚に陥る。その非現実感が、あの事故を夢の中の出来事だったかのような気分にさせた。しかし・・・。
視線を戻すと、陽太の姿が目に入った。彼の姿を見れば、あれが夢などではなかったことは明白だ。彩香は、息子に掛けられた毛布の端を整えた。
年端も行かない子供が左手をギプスで固定している姿は痛々しい限りだ。だが鎮痛剤が効いているのか、彼は今、安らかな寝息を立てている。あれだけ大泣きした後だ、精も根も尽き果てていてもおかしくはない。
彩香の顔に付着していた血液も、既に綺麗に拭い取られ ──Tシャツにこびり付いてしまった血痕だけはどうしようも無かったが、それすらも乾いて茶色く変色を始めている── 今は額に大きな絆創膏が貼られているだけだ。それ以外は、顔のそこここに残る擦り傷と、身体のあちこちで疼く鈍痛だけが、あの事故の余韻を伝えていた。
自分たちは、あの恐ろしい事故から生還したのだ。
彩香はグッと拳を握りしめた。
救急車で担ぎ込まれた陽太を担当した女医は、彼を見るなり「あらあら、やっちゃったわね~」と、彩香の心配をよそに呑気なご様子であったが、それは取り乱す母親を落ち着かせるための心配りであったのだと、今の陽太を見ればそう確信できるのだった。
そう言えばあの時の大輔も腹立たしいくらいに冷静で、食って掛かりたい気持ちが湧き上がって来たことを思い出す。
「どうしてあなたは、落ち着いてなんていられるのっ!?」
そんな言葉が口をついて出なかったのは、息子の容体が心配で、夫に詰め寄っている余裕すら無かったからに他ならない。しかし今にして思えば、あれは彼なりの気の使い方であったのだろう。
もし大輔が、妻と一緒になってアタフタと狼狽えるような男だったらと思うと、逆にゾッとする想いだ。自分はきっと、彼の冷静さに助けられていたのだ。その事に気付けない程、あの時の自分は動転していたに違いないと彩香は思うのだった。
女医によれば、これ位の年齢の子は一生のうちで最も新陳代謝の活発な時期らしく、大人なら完治に二ヶ月もかかるところを、驚くほどの速さで骨が再生するのだと言う。
しかも、「自分は専門外だが・・・」という前置きで彼女が語ったのは、この年齢であれば骨折したことも、痛みを受けたことも記憶として残らないだろう。勿論、事故に遭った記憶すらも残らず、精神的な後遺症の心配要らないだろうと。
その言葉を反芻しながら息子の顔を見詰めていると、何と表現したらよいのか判らない感情が込み上げてきた。
「痛かったね。ゴメンね、守って上げられなくて・・・。でも、もう大丈夫だよ」
込み上げる涙を堪えながら、愛しい息子の頭を優しく撫でる。すると、ひょっとしたら命を落としていたかもしれないのだという事実がひしひしと感じられ、背筋が凍るような恐怖が襲ってきた。
あの瞬間、バチバチと音を鳴らしながら割れた窓から触手を伸ばして来た枝が、自分の顔や身体に当たった感触が蘇って来る。それはまるで陽太を連れ去ろうとする、悪魔の腕のようではなかったか。
今更ながら手が震えるのを抑えることが出来ない。
「良かった・・・ 本当に良かった。有難う。ちゃんとママの所に帰ってきてくれて・・・」
彩香が奥歯をグッと噛み締めた時、病室のドアが開いた。そこに立っていたのは大輔だった。
彼の姿を見た途端、彩香の心の中であらゆる想いを堰き止めていたダムが、音を立てて決壊した。そして感情の奔流が怒涛のように流れ出す。
「大輔・・・」
強くあらねばならぬ母親から、夫に甘えることが許される妻へと彩香が変わった。やっと、誰の目もはばかることなく、大輔の庇護を求めることが出来るのだ。彩香は椅子を蹴って立ち上がり、夫の胸の中に飛び込んだ。
その華奢な身体を抱き止めた大輔が言う。彼女の後頭部に回された大輔の手は、柔らかな髪を優しく撫でている。
「ゴメンね、彩香。遅くなった。陽太を一人に任せちゃってゴメン」
彩香は彼の腕の中で、嫌々するように頭を振った。
「で? 陽太の容体はどんな感じだい?」
「うぇっ・・・ うぇっ・・・」
もう言葉にならなかった。
泣きじゃくる妻を抱き寄せながら、その頭越しにベッドに視線を送ると、そこには安らかに眠る息子の姿が見えた。まるで久し振りに、我が子に再会したような気分じゃないか。それだけ、色んな事が一度に起こったのだ。そんな風に思えても不思議ではないだろう。
息子の無邪気な寝顔を見て、思わず大輔の顔が
「頑張ったね、彩香。有難う」
大輔はさらに強く、愛する妻を抱き締めた。
*
ようやく落ち着きを取り戻した彩香が、陽太の容態に関する医師の見立てを大輔に伝えた。
「そんなに早く?」
「そうなんだって。驚くよね、子供の生命力って」
「ホントだね。でも茨城に戻ったら、別の医者を探さなきゃならないんだよね?」
「うん。診てくれた先生が紹介状を書いてくれたよ。でも、何処の医者が良いかな? おっきな病院の方が安心できるのかな?」
そして一通り話し切ったところで、話題が大輔の方に移る。一家の生計を支えて来たトラックが、これからどうなってしまうのか、気に掛からない筈はない。陽太は順調に回復してゆくだろうが、今居家を取り巻く問題は山積みなのだから。
「車はどうなっちゃうんだろう?」
新たな心配の種に彩香の顔が曇る。その顔を見て大輔が済まなそうに応えた。
「お義父さんの形見のトラックだけど・・・ あれは廃車しかないね。ゴメン、俺のせいで生活の糧を失っちゃった。勿論、足回りはやられてないから、上物だけを直して使うことは可能だけど、ビックリするような費用が掛かるんじゃないかな。
だから、これからは臼井社長にお願いして、俺も一緒に仕事をさせて貰って・・・」
しかし彩香は、彼の話を聞き終わる前に割り込んで来た。
「俺のせい? あの事故、大輔のせいなの?」
意外そうな顔をする彩香に、大輔は言う。
「スピードの出し過ぎが原因の操作ミス。対人、対物の損害の無い自損事故。おおかた、警察の結論はそんな線で落ち着くんじゃないかな」
「ふぅ~ん・・・ 警察はそんな風に考えてるんだ?」
「そうだね。それが一番手っ取り早い結論だしね」
「・・・・・・」
何か言いた気な様子で見詰める彼女の視線に、大輔はドギマギとしてしまった。いつの間にか芯の強さを取り戻していた彼女に頼もしさを感じながらも、こうやって見詰められると、やはり彼女には敵わないと思うのだった。
「な、何?」
彩香は「ふぅ」と溜息のようなものをつきながら、ハッキリと話してくれない夫に ──それはきっと、気を使ってくれているのだろうけれど──
「んな訳、無いでしょ? 私、大輔の運転技量を盲目的に信じてるわけじゃないけど、あれはそういう話じゃないよね? もっと違う話だよね?」
「あっ、やっぱり判る?」
「当たり前でしょ。私だって長くトラックの運ちゃんやってるんだよ。あれが運転操作ミスなんかじゃないってことは判るよ。何かもっと妙な・・・ 変な感じだった。なんだか気持ち悪い感じの・・・。
ってか、もし事故原因に心当たりが有るなら、隠し事なんてしないで言ってよ! 私たち家族なんだよ、バカ!」
「あははは、ゴメンゴメン。イテテテ・・・」
彩香がくり出すパンチを掌に受けながら、大輔は素直に謝るのだった。もう大丈夫。彼女はいつもの彩香に戻っている。
「まだ、そうと決まったわけじゃないんだけど・・・」
大輔の話はそんな風に始まった。
「数年前に頻発した事故のこと、憶えてるよね? 俺がコービータイヤに告訴された、あの件」
「勿論、覚えてるわよ。忘れるわけ・・・ !!! まさか! そうなのっ!?」
彩香が目を丸くして固まった。まさかあの案件が、今居家の歴史に暗い影を落としたあの理不尽極まりない事案が、再び鎌首をもたげ始めたというのか?
お互いに口には出さず、あたかも忘れてしまったかのように振舞ってはいても、それは常に二人の心の中のしこりとなって居座り続けているのだ。忘れることなんて出来るはずが無い。
「多分。間違い無いと思う。あれはテストドライバー時代に経験した、あの現象と同じだ」
「それ、警察に言ったの?」
窺うような視線で問う彩香に、肩をすくめて見せる大輔。
「警察なんて当てになんないよ、きっと。でも一応、供述として『タイヤのグリップが消失した』というようなことは言っておいた・・・ けど、それが意味のあることかどうかは判らないね」
おそらく、警察が市民の味方をしてくれることなど無いのだろう。それは過去に世間を賑わした、多くの事例からも明白だ。彼らにとっての優先順位は、決して市民の生命や財産などではなく、自らの組織の安泰と、背後で蠢く権力者の利益なのだから。
一方で、コービータイヤは強大な力を誇る大企業、つまりその権力者側の一員だ。一般人には見ることの出来ない奴らのネットワークが、世の中のあらゆる箇所に張り巡らされていたとしても不思議ではない。何と何がどんな風に力を及ぼし合っているか、判ったものではないではないか。
大輔は自らの経験から、そういう風にしか思えないのだった。
「ねぇ、大輔」彩香は更に沈んだ様子だ。
「ん?」
「私、あなたに『戦うな』みたいなこと言ったよね? いや、言わなかったかもしれないけど、そう仕向けたよね?」
再び、彩香の真っ直ぐな視線が大輔を捉えた。
大輔は黙って、話の続きを待った。
「私・・・ 間違ってたと思う。
自分の大切なもの・・・ あの時の大輔にとってそれはテストドライバーとしてのプライドだとか、プロ意識みたいなものだったんだろうけど、それを傷付けられても黙って引き下がれとか、侮辱されても逆らうなとか・・・。私、大輔になんて辛いことさせちゃったんだろう。本当にごめんなさい」
そう言って彩香は深々と頭を下げた。
「でも陽太を傷付けられて、私やっと判った。誰かのせいでこの子が・・・」
彩香は首を回し、ベッドで眠る息子を優し気な眼差しで見詰めた。それに合わせ、大輔も我が子の寝顔に見入る。
「誰かのせいで、陽太がこんな目に遭ったなんて耐えられない。この子を傷付けたものが何であれ、私は絶対にそれを許さない。許せるわけ無いよ。
あっ、誤解しないでね。私、別に大輔に『ああしろ、こうしろ』なんて言うつもりは無いから。でも本当の事故原因を究明して欲しいのは本心。
そしてもし大輔がその何者かと戦うつもりなら、私は全力で応援するよ」
まるで自分の心中を代弁してくれているかのような彩香の口振りに、大輔は思わず吹き出してしまった。でも彼女の言ったことは、半分当たっていて、半分は間違っている。
そう、あの時の大輔にとって大切なものとは、既にテストドライバー云々ではなくなっていた。それに取って代わっていたのは、家族である彩香と彼女のお腹の中で息づく小さな命だったのだ。これから三人で築いて行くであろう未来だったのだ。
彼女のいうところの、最も大切なものを守る為の選択があれだった。
「ぷっ・・・ くっくっく。随分と
彩香もつられて笑う。
「あははは。じゃぁいつも通りの感じで言ってあげようか?」
真面目な想いを茶化されたような気分になって、彩香は気恥ずかし気にお茶らけて見せた。
「うん。その方が気が楽だ。クスクス・・・」
一呼吸おいて、彩香は夫の目を見詰めながら、静かに、ただししっかりと力の籠った言葉を送った。
「相手がコービーだろうが何だろうが戦え、大輔」
彩香のくり出したパンチが、「ポスッ」といって大輔の右肩を打った。大輔は彼女の目を見詰め返しながらその拳を左手で取り、右手も加えて包み込むようにして抱き寄せた。
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