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陽太を抱いた彩香が救急隊員に促され、救急車の後部に乗り込んだ。彼女の額の傷には、既に応急的な処置が施されている。陽太は幾分ぐったりとしていて、その理由が、ただ泣き疲れたからだけであることを願わずにはいられない。大輔は一瞬、どうするべきか迷ったが ──勿論、一緒に付いて行きたかったし、そうするべきなのかもしれなかったが── 彼は事故現場に留まることを選択したのだった。
何故ならば、まだ警察車両が到着していない。これから現場検証やら事情聴取的なものが行われるはずだが、そこに運転者がいないわけにはいかないと思ったからだ。それに、右側の運転席に座っていた大輔は幸運にも無傷で、急いで精密検査を受けねばならない様な深刻な状況ではない。
「現場で警察の到着を待つ」と言った時、彩香は当然ながら不安気な表情を示したが、気丈にも直ぐに心を持ち直し、しっかりと頷いて見せた。
「判った。陽太のことは任せて。でも、なるべく早く来てね」
それが彼女の精一杯の言葉だった。怪我をした息子を守らねばならない。その母親としての想いが、彼女を奮い立たせるのだ。その一方で、やはり心細さは隠せない。
でも大丈夫。彩香は強い女性だ。大輔は心の底から、彼女の芯の強さを感じた。
「うん、判った。直ぐに追い付くよ」
二人を乗せた救急車が、サイレンを鳴らしながら新潟方面に戻ってゆくのを見送る大輔の目に、反対車線側の山肌に残る傷跡が飛び込んで来た。トラックが半身を擦り付けながら残した跡は、まるで巨大な悪魔の手がガリガリと山肌を削り取ったかのように、黒い筋となってその壮絶さを物語っている。それを見た大輔は、改めて事故の凄まじさを実感したのだった。
薙ぎ倒された草木の下から覗く土は、ついさっきまで地中に埋もれていたことを示すように湿っていて、むせ返りそうな土砂の匂いを放っている。今でもパラパラと小石を落としているその様は、まるで安息な眠りから無理やり叩き起こされたことに不平を漏らしているかのようだ。所々に露出した大きな岩は、車体の金属部分と擦れた際に生じた傷で白い縞模様を纏っていて、太く黒い帯の中に散りばめられたアクセントのようにも見えた。
おそらく、凄まじい轟音と共に破壊された自然の一部は、無言のうちに再生に向けた自己修復を既に開始していることだろう。そこに無粋な爪痕を刻んだ人工物の醜さを象徴するかのように、醜態を晒すトラックが今は死を待つがの如く静かに佇んでいた。
幸いにもジャックナイフは回避できた。あの時、もしそれが起こっていたら、巨大な鉄の塊がズルズルと対向車線にはみ出し、無関係な車を巻き込んでいたに違いない。コントロールを失った車両を立て直そうと、大輔が己の持つ運転技量の全てを注ぎ込んでいた時、ハッキリとは憶えていないが、確か何台かの対向車が横を通り過ぎていったような気がする。
そんな有るはずの無い巨大な金属フレームが、突如として目の前に現れることなど、いったい誰が想定しているだろうか。最悪の場合、ボンネットから上の部分 ──無論、その高さにはドライバーや同乗者の頭部が存在する── が根こそぎ引き千切られて、平らになってしまった車体だけが、その先に進んでしまうことだって有り得たのだ。そんな惨たらしい事故を回避できたことに、大輔は胸を撫で下ろす想いであった。
確かに大切な妻子に怪我を負わせてしまったことは、自責の念に堪えない。しかし二人は大丈夫だ。今はそう確信することが出来る。だが最悪の最悪を避けることが出来たのは、神様の采配の機微によって為されただけの、単なる偶然に過ぎないではないか。後から後から湧き上がるような恐怖心に、今頃になって大輔は震え上がるのだった。
往来する車に乗った者たちが、壮絶な事故現場に目を丸くしながら、スピードを落としては通り過ぎて行く。中にはわざわざ停車して、野次馬根性剥き出しの無遠慮な視線を投げかけてくるニヤケた奴もいる一方で、大輔を気遣ってくれる親切な人もいた。
「あんた、大丈夫か!? 病院まで乗せていってやろうか?」
その男は、ウィンドウを降ろして上体を乗り出すようにして聞いた。
「いえ、大丈夫です。有難うございます。もう直ぐ警察が来ると思うんで」
それを聞いた男は「そっか。それならいいけど」といった様子で片手を挙げ、再び走り出した。大輔も軽く手を挙げてそれに応える。
その厚情で世話好きな人が駆る車は、彩香たちを乗せた救急車が走り去った方向のコーナーを曲がって見えなくなった。
大輔はゆっくりとトラックに近付いた。
車内には貴重品の類も残されている。それを放置したまま、ここを離れることは出来ないので ──それも、彼が残留を決めた理由の一つだった── 大輔はそれらを回収する為に再びトラックのドアを開け、ステップに右足を掛けた。
するとその時、鼻腔をくすぐる懐かしいような匂いを感じ、彼は動きを止めた。
(この匂い・・・)
それはゴムが焼けた際の、ツンとするような不快な匂いである。だがしかし、タイヤ業界に身を置く者にとっては、慣れ親しんだものでもある。当然ながら、テストドライバーとして数々のタイヤ評価を行って来た大輔にとっても、それは同様だ。
過酷な限界走行を行った後の、半ば溶解したかのようなタイヤから発せられる匂い。それが彼の嗅覚を刺激したのだ。大輔は足元に有る、トラックの右前輪を覗き込んだ。
コービータイヤ製、K160。サイズは11R22.5 16PR。何の変哲も無い、オーソドックスなトラック用RIBタイヤだ。そのトレッド表面が、まるでサーキット走行を終えた直後のレーシングタイヤのようにベタベタとしていて、その粘着性で砂利や小石が張り付いている。
大輔は恐る恐る、そのタイヤに手を触れた。
(熱い! まさか!?)
車両挙動が破綻を来し始めた時の感覚が、大輔の全身に一気に蘇ってきた。それは音や視界や、身体に伝わる振動、或いはアクセル操作、ブレーキ操作に対する車両の反応。更に、両手に伝わるステアリング・インフォメーションなどだ。
それらを総合してタイヤの良し悪しを評価する、テストドライバーとしての感性が一瞬にして目覚めた彼の頭の中で、その時の状況の反芻が始まった。
そして大輔は、一つの結論に到達したのだった。
(この現象は、一度経験している!)
茫然とする大輔の耳に、パトカーのサイレンが遠くから近付いて来るのが聞こえた。その音は狭まった山間の斜面に反射して木霊のように響き、彼に覆い被さって来るかのようだ。それが新潟方面からの音なのか、それとも福島方面からなのか、大輔には判らなかった。
*
警察車両に乗り新潟市内に逆戻りした大輔は、江南警察署での事情聴取を終え、彩香と陽太の待つ病院へと向かっていた。同49号線沿いに建つ新潟東部病院だ。本来ならタクシーを使って自費で向かわねばならぬところだが、たまたま手の空いていた親切な警官が送ってくれたのだ。ただし、白黒のパトカーでの送迎は、まるで自分が護送されているかのような、居心地の悪さを感じさせるのだった。
「スピード出しすぎちゃった?」
その人懐っこい初老の警官が、ルームミラーに映る大輔の顔を覗き込みながら話し掛ける。彼は事情聴取に立ち会った警官ではなく、本当にたまたま手が空いていたに過ぎない、受付フロアの奥に座っていた警官だ。断片的に事故に関する話は聞いているようだが、詳しく聞かされてはいないらしい。
大輔は「えぇ、まぁ」と曖昧な答えで、視線を合わせないように話だけは合わせておく。
「あそこは国道だけど、結構くねくねしてるからね。大型車は特に、ましてやお宅の車はトレーラーだそうじゃない? 慎重に運転しとかないとね」
「は、はぁ・・・」
チクリと説教をしたくなる気持ちも判らないではないが、大輔はその声を煩わしく思っていた。何故ならば彼は今、頭の中でもっと複雑な課題に取り組んでいたからだ。無意味な雑談で、その思考の流れを寸断させないで欲しいのだが・・・。
あの事故に関する警察の見立ては明確だった。スピードの出し過ぎによる操作ミス。幸いにも死者はおらず、怪我人は運転手の身内のみ。損害はトラックの廃車と削れた山肌だけという自損事故で、その規模は大きいものの、当事者以外に金銭的な被害者も出さずに済んだのだ。そんなショボい案件は、チャッチャと片付けてしまいたいところだろう。当然ながら、聴取を取る警察官の顔には「余計な仕事を増やしやがって」という、不機嫌な皺が色濃く刻まれているのを大輔は見逃さなかった。
無論、大輔の見立ては異なっていたが、それを警察に話したところで ──少なくとも今の段階では── 単なる言い訳にしかならない。そう考えて「はいはい」としおらしくしておこうとも考えた大輔だったが、事情聴取の際に一つのアイデアを思い付き、それを実行に移したのだった。
今はその行動に関する考察を深めたいのに、邪魔っけな警官の口が止まらない。
「でも良かったよ。もう少し先で事故ってたら福島県警の管轄になってたからねぇ。あそこだと喜多方署かな? それとも会津若松署かな? いずれにせよあっちからだと、かなり距離が有って時間が掛かるからさぁ」
往々にして親切な人というのは、喋りたいだけだという教訓を大輔は思い出していた。話せる相手がいれば誰だって良いのだ。そんな暇潰しに付き合わされる側は、堪ったものではない。
そんなことより、詳しくは知らないが、警察の事情聴取とは公式文書として残るのではないだろうか。それを開示するか否かは警察の胸先三寸で決まるとしても、あの時の現象を言葉として残しておくことには、何らかの意味が有るのではないか。
まだ事の詳細は判らず、推測の域を出ない。だが、コービータイヤが再び何かをしでかした可能性が有る。直感的にそう感じた大輔は、咄嗟に「突然、ハンドルが利かなくなった」と「タイヤが熱くて、ドロドロに融けていた」と供述することによって、その貴重な情報を警察という第三者組織の書類に書き記すことに成功したのだった。
「えぇ、まったくです」
何がまったくなのか大輔には判らなかったが、取りあえずそう応えておくことにする。それより、そんな書類が後々意味を持つような事態にならなければいいのだが。それが大輔の偽らざる気持だった。
そんな想いに耽っていると、またあの警官の声が大輔の物思いの邪魔をした。
「はい、着いたよ」
その言葉に促されて窓の外を見れば、白亜の六階建てのビルがそびえているのが見えた。その正面中央にエントランスを備える、味も素っ気も無い四角いビル。最近のモダンな病院に比べれば見劣りすると言えなくも無いが、高級ホテルと見紛う程の、無駄に豪勢な造りのものよりも好感が持てるとも言える。
病院というものが持つべき本来的な機能を、大きく逸脱する部分に価値を見出そうとする経営努力は認めるが、果たしてそれは本当に必要なことなのだろうか?
この建物の何処かで、彩香と陽太が待っている。見上げるようにしてパトカーを降りた大輔の背後から、例の警官が声を掛けた。
「それじゃ、くれぐれも気を付けてね。追って署のほうから連絡が有るから」
その言葉で我に返った大輔は慌てて振り返ると、開きっ放しの後部ドアと車のルーフに手を掛け、中を覗き込むような姿勢で礼を述べた。
「わざわざ有難うございました。お手数をお掛け致しました」
そう言ってドアを閉めると、警官は律儀に右ウィンカーを出しながらゆっくりと走り出し、そして病院前の通りの車列の中へと飲み込まれていった。
世話好きで親切な ──一応、礼儀としてそう言っておこう── 警官を見送った大輔は踵を返し、病院内の受付カウンターへと急いだ。二人は大丈夫であると信じている。だが、愛する妻と我が子が待っているのだ。急がずにはいられない。
(ちょっと大袈裟過ぎかな?)
そう思いながらも、急く気持ちを抑えることが出来ず、大輔は受付カウンターに体当たりするように取り付いた。そして息を切らしながら、受付の女性事務員にまくし立てる。
「救急車で運ばれてきた親子がいる筈なんですが! 妻と息子です! 名前は今居です!」
しかし受付の女性は、表情一つ変えずジロリと大輔を見上げると、「あちらのベンチにかけて、少々お待ち下さい」と事務的な対応を返してから、カタカタとパソコンのキーボードを叩き始めた。
その人情味の欠片も感じさせない態度に、肩すかしを食らわされた思いの大輔は仕方なくベンチに腰掛ける。そこで「事務員が事務的なのは当たり前か」などと妙な納得をしていると、パソコンの操作を終えた彼女が直ぐに視線を上げた。そして彼女の目の前のベンチに座る大輔と目が合って、ニコリと微笑んだではないか。冷たい第一印象だったが、意外に心優しい人なのかもしれない。
「三階の305号室です」と女性は言った。
それを聞き終わるや否や跳び上がり、礼を述べるのも程々に駆け出す大輔の背後から、彼女の声が追いかけて来た。
「あっ! 病院内ですよ! 走らないで下さい!」
大輔はその声を背中で聞きながら、右手を軽く上げて「判りました」の意思表示を返したが、そのままスピードを落とすこと無く、階段に向かって駆け続けたのだった。
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