第四幕:再び、走る
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賑やかな声がトラックのキャビン内に満ちていた。まだ就業前の陽太を真ん中の予備座席に据えたチャイルドシートに乗せ、大輔と彩香はファミリーで長距離運送を再開していた。
陽太が小学校に上がってしまったら、もうこんな風に家族で走り回ることなど出来ないだろう。そうなったら、臼井運輸の社長さんに頼み込んで、彩香だけは近場の配送に振り向け、大輔一人で長距離の仕事をこなすような形になるに違いない。
そうなってしまう前のほんのひと時を家族水入らずで過ごすため、二人は息子を連れての仕事を愉しんでいたのだった。
問題は陽太である。この年頃の子がおとなしくチャイルドシートに座っていてくれるはずもなく、自由な行動を奪い去る堅苦しい座席から、ことある度に逃亡を図る彼の気を紛らわすため、大輔と彩香は交代で息子の相手に掛かりっきりだ。いつしかキャビンは「しまじろう」やら「ドラえもん」で溢れ返り、流される音楽は「アンパンマンのマーチ」に取って代わった。
でも、それが楽しいのだと二人は思っていた。こんな夢のような時間は ──時にしんどく、イライラさせられることも有るが── きっとアッという間に過ぎてしまうのだ。懐かしいと思う時には既に遅く、もう二度と味わうことが出来ない宝物になるに違いないのだ。
ムズがる陽太を落ち着かせるため ──彼にとっては、ちょうどお昼寝の時間だ── 大輔は広めの駐車場を備える国道49号線沿いのコンビニにトラックを進入させた。そこは新潟方面を配送している時に、二人がよく利用するファミリーマートだった。そしてトラックが停車すると直ぐに、運転席後方の仮眠スペースへと陽太を連れ込んだ彩香が、すかさず添い寝を開始する。それは二人が編み出した、阿吽の呼吸の連携技だ。
睡魔と戦う息子を応援するために ──実際は彼の足を引っ張って、眠りに誘っているのだが── タオルケットのかけられたお腹をポンポンと優しく打ちつつ、「ゆりかごのうた」を口ずさむ。この攻撃に晒された陽太は、たいていの場合、ズブズブと眠りの淵に沈んでしまうのだった。
その様子を確認した大輔はそっとドアを開け、コンビニまでの買い出しである。何を買ってくるかは、前もって話し合ってあるので抜かりは無い。そしてスヤスヤと寝息を立て始めた息子の寝顔を眺めながら、ヒソヒソとした夫婦の会話を愉しみつつ食事を済ませてしまうのが、いつものパターンである。
「ね。小っちゃい歯が生えて来てるの、気付いた?」
「えっ!? ホント? 全然気付かなかった」
「今度、ドラッグストアが有ったら停めて。ベビーせんべいか何か、買っておこうと思うの。まだちょっと早いかな? 大丈夫だよね?」
「大丈夫じゃないかな。ベビー用かっぱえびせんとかも有るらしいよ」
「えびせん!? 大丈夫なのそれ? 塩分とか抜いてあるのかな?」
「多分そうなんだろうね。ベビー用食品って、大人が食べると美味しくないじゃん。俺たちの世代だと・・・ あの丸いやつ・・・」
「たまごボーロ!」
「そう! それ! あれ不味かったなぁ」
「えぇ~。たまごボーロ、美味しいじゃん」
「いやいやいや。美味しくないっしょ、あれ」
こんな取り留めも無い会話を交わしながら、三人の平和な日常が築かれていった。陽太が生まれる前のドタバタが、まるで遠い過去の話のようだった。
しっかりと眠りに落ちた陽太を再びチャイルドシートに寝かせ、大輔はゆっくりと駐車場からトラックを出す。ここから福島県の会津に抜けるまではちょっとした山越えになるので、この区間を走る時はいつも大輔の運転だ。
「今度さ、近所のママ友から食事に誘われてるんだ。ちょっと行ってきてもいいかな?」
「勿論いいよ。いよいよ彩香もママ友デビューだね?」
谷合の斜面を切り開くように敷設された、快適な国道のコーナーを抜けながら大輔が言うと、彩香は少し緊張した面持ちで返す。
「そうなの。私ってさ、こんな風に走り回ってるから、いわゆる専業主婦のママ友っていなかったじゃん? だから小学校の話とか、情報が全然無いのよ。そういうのってお母さんに聞くのが一番手っ取り早いでしょ? でも初めてだから、私の方が緊張しちゃって・・・」
「はははは。陽太は公園デビューもしてないからな。頑張ってね、ママさん」
大輔は笑いながら励ますが、彩香の緊張を解きほぐすことは出来ないようだ。
「大丈夫かなぁ・・・ イジメられたりしないかなぁ・・・」
道は上りに差し掛かり、大輔はシフトを二段落して車輪に与えるトルクを嵩増しする。乗用車で言うところのティプトロニック機能が、この手のトラックには普通に装備されている。高級車でしか味わえないような感覚を愉しみながら、大輔はスピードを落とさずに登坂を開始しつつ、彩香に聞き返した。
「そんなコテコテのテレビドラマみたいなこと、本当に有るのかな?」
その呑気な発言を聞いた彩香が、大輔に食ってかかった。
「有るんだってば! そのグループのリーダー格のお母さんに気に入られないと、その後に支障を来すんだって。酷い時は子供が学校でイジメられたりするんだよ」
「まさか。子供は関係ないじゃん」
僅かなアップダウンを繰り返すワインディングを、スムースに走り抜けるピンクのトラック。必要以上に減速せず、かと言ってスピードを出し過ぎることも無く、大輔の駆るトレーラーは、今度は緩い下りの右コーナーに進入を開始する。
「でも、そのまさかが本当に有るんだよ。まったく呑気だなぁ、ウチのパパさんは」
直進状態からコーナリングに入った時の、タイヤが上げるロードノイズの微妙な変化。それは基本的に普通車でも大型車でも同じだ。コービータイヤ時代に培ったテストドライバーの感覚が呼び覚まされ、郷愁にも似た懐かしさに胸がキュンとする感覚を覚えながら、大輔はステアを切る。
「あはははは。そんなに心配しなくても・・・」
その刹那、大輔の五感が突如として警告を発した。普通のドライバーだったら決して気付かない程の僅かな違和感に、彼のテストドライバーとしての部分がけたたましく反応したのだ。
(何だ、これは!? 自分の思ったライン取りと車両のトレースラインに、微妙なズレを感じる。この僅かでありながら、不快極まりない切り増し感はいったい・・・)
本能的に減速した大輔は修正舵を加え、車両が進むべき方向に対しアンダーステアを生じつつある車体姿勢の立て直しを図る。だが前輪が反応しない。切っても切っても曲がらない感じ。
確かこの感覚は・・・。
*
大輔が記憶の底を
今乗っているのは乗用車ではなくセミトレーラーだ。通常の車のような、シンプルな挙動は示さない。ヘッド部分が牽引している荷台によって後ろから押され、コーナリング中に屈曲したジョイント部分がどんどん折れ曲がる、いわゆるジャックナイフの兆候を示し始めたのだ。
微妙とは言え下り勾配なのが災いし、慣性重量の勝る荷台が容赦なくヘッドを押す。そして、あんなにも操舵に反応しなかったヘッドが、今度は全く異なる外力を受けて ──大輔の意図に関係なく── 右に回頭し始めた。
この時点で既に異常事態に気付いていた彩香が、両手でシートにしっかりと捉まりつつ、目を見開いて大輔を見た。しかし大輔には、彼女を安心させる言葉を発する程の余裕すら無い。その時の大輔は、完全にテストドライバー時代の彼に戻っていた。
すかさずトレーラーブレーキ(荷台の車輪にだけブレーキを掛ける制動装置)を引く。しかし、タイヤと路面がスティック&スリップを繰り返す、ザクザクとした音が聞こえるだけで、ジャックナイフの進行は止まらない。
コーナーに対し、完全に内側に向いてしまったオーバーステア状態からの復帰を狙い、今度はカウンターステアを当てる。そして致命的なまでに深まりつつあるジャックナイフを回避するためにブレーキを解放し、一転して加速態勢に入るが、ステアはコーナー外側を向いている状態だ。
車体の進行方向を優先すべきか、それともジャックナイフの回避か?
大輔の選択はジャックナイフの回避だった。何故ならば、車体が完全に折れ曲がってしまったら、トレーラー部分が対向車線にはみ出し、無関係な車両を巻き込む大惨事に発展する恐れが有るからだ。
幸い、今、前輪が向いている方向は山側の斜面で、最悪、土手に乗り上げるような形で停車することが出来る。これがもし、反対側を走行していたら、このトラックは谷底に向かって突進することになっていた筈だ。
しかし、だからと言ってむざむざコースアウトするわけにもいかない。大輔はジャックナイフを回避しつつ急操舵で破綻の回避を試みるが、大型車のラック&ピニオンのステア比は乗用車ほどクイックには設定されていない。大輔の必死の操作にも拘らず、車両は道路を左に外れ、立ち上がる山腹に左側面を擦り付けた。
ガガガガガ・・・
破壊音にも似た壮絶な音が響く。そこに彩香の悲鳴が重なった。彼女にしてみれば、薄いドア一枚挟んだ向こう側で、山肌が肉食獣のような雄叫びを上げているのだから当然だ。
必然的に左側のウィンドウは割れて、粉々に砕け散ったガラスの破片がバラバラと室内に降り注ぐ。そして遮るものを失った助手席側では、トラックのボディがこそぎ落とす土砂が容赦なく入り込んで来た。
遂にフロントガラスも割れて、自生していた低木が薙ぎ倒される際に、破滅的に通過するトラックのキャビン内にバチバチとその触手を伸ばしては、後方に過ぎ去っていった。
そしてようやく、総重量20トン超の車体が持っていた運動エネルギーの多くを左側面の摩擦で消費し終え、トラックは路肩に無残な姿を晒して停まった。左に45°ほどの角度で傾いていた車体は、停車した後にゆっくりと戻り始め、ズシンという音と共に正常な角度へと復帰した。
耳をつんざく様な轟音が収まった時、自分の耳がおかしくなってしまったのではないかと思えるほどの静寂が大輔と彩香を包み込んだ。何が起こったのか判らなかった。そして何が起こらなかったのかも、直ぐには思い至ることは出来なかった。ただ自分たちが致命的な状況から生還したという事実だけが、彼らに感じ取ることが出来た唯一のものだったのだ。
しかしその時、彼らを包む静寂の向こう側から、何かの音が微かに聞こえて来るのだった。だがそれが何の音なのか、大輔には判然としない。彼がその音の存在に気付きつつも、ただ生命の危機を脱したという安堵感だけに身を委ねていたのに対し、彩香は違った。彼女はその音に即座に反応したのだ。
その時、聞こえていたのは陽太の泣き声だったのだ。
助手席に座っていた彩香は、容赦なく振り下ろされる立木の枝の鞭や、投げ付けられる土砂の礫の波状攻撃を受け続け、顔や腕は傷だらけだ。額に受けた傷からは血が滴り、それが彼女の顔の左半分を赤く染めている。それでも彩香は、母親にとって最も大切な存在である我が子の泣き声に、即座に反応したのだ。
「陽太! 陽太!」
彼女の息子はチャイルドシートに収まりながらも、母親と同様、飛んで来た何かに晒されたのだろう。その柔らかい頬に傷を受け、微かに出血していた。
「陽太っ! 大丈夫!? 何処か怪我してないっ!?」
息子に取り付く彩香の様子を見て、大輔が我に返った。
彼は陽太のベビー服に被さった土砂を退けながら、チャイルドシートのベルトを外した。しかし、外からは判らない傷を受けているかもしれない。大輔はそっと労わるように、ただし力の籠った腕で息子を抱き上げた。
真っ赤な顔をして、火が点いたように泣き続ける陽太を、半狂乱の彩香が大輔の腕から強引に奪い取る。
「何処か打ってるかもしれないから、服を脱がせて確認しよう」
事は一刻を争うかもしれない。動転する彩香は色を失った顔で夫の言葉に頷くと、直ぐに陽太の服を脱がせ始めたが、その手はワナワナと震えていて、思うように動かせないのだった。
少々手荒な様子で息子の服を脱がせる彼女の様子を見守る一方で、大輔は自分のポケットの中からハンカチを取り出すと、鮮血を流し続ける彩香の額を押さえた。
その頃になってようやく、大輔は冷静さを取り戻し始めたのだった。
泣いているということは、最悪の事態は回避できているはずだ。これで泣き声すら上げていなかったら、それこそ致命的な状況だろう。決して無事だったとは言えないが、我を忘れるほど追い詰められてはいないと思えた。
むしろ今やらねばならないことは、取り乱している彩香を落ち着かせることかもしれない。この窮地を脱するためには、どうしても彼女の助けが必要なのだから。大輔は優しげな声で、噛んで含めるように彩香に話しかけた。
「大丈夫、落ち着いて。大丈夫だから」
陽太の服を脱がして全身をチェックした結果、彼の身体に出血を伴う傷は見られなかったものの、左腕の
「クソっ!」
大輔は自分を罵り、ステアリングを思い切り殴り付けた。
彩香と同じように、割れた窓から飛び込んで来た何かが、彼の左腕を直撃したに違いない。だがそれが、腕であったことは幸運と言うべきなのだろう。もしそれが、臓器の集中する胸部や腹部、或いは頭部へのダメージだったとしたら、考えただけでも背筋が凍る想いだ。
何がテストドライバーだ!?
何が運転の専門家だ!?
どの面下げて、偉そうなことを言っている!?
自分のつたない運転のせいで、取り換えの利かない大切な人を二人同時に傷付けてしまった。だからこそ大輔は、あえてはっきりと、ただし落ち着いた様子で言った。蒼ざめる彩香を勇気付けるためには、自分が冷静でいなくてはならない。
「ごめん。俺のせいで・・・ でも良かった。腕の骨折だけで済んだみたいだ。大丈夫。心配しなくても良いよ」
大輔は今にも泣きだしそうな彼女の肩に手を置き、無理やり微笑んで見せた。
一方、彩香の額の傷も、思ったほど深刻ではなさそうだ。頭部の傷は、その深刻さ以上に多量の出血を伴うものなのだ。ひょっとしたら、彼女の滑らかな顔に僅かな傷が残ってしまうかもしれないが、命を落としていたかもしれない大事故からの生還の代償としては、大き過ぎるとは言えないだろう。
それよりも、今の自分に課せられた任務は救急車を呼ぶことだ。大輔は泣き叫ぶ息子の面倒を彩香に託し、ポケットのスマホを取り出した。そして119をコールしてからそれを耳に当て、ドアを開けて外に出た。陽太の泣き声で、電話が聞き取りにくいからだ。
そして彩香に目配せしながら、ドアを閉める際にこう言った。
「大丈夫。直ぐに救急車を呼ぶから。あ、もしもし。救急です。交通事故です。場所は国道49号線を・・・」
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