和解交渉を進める一方で、コービータイヤは新素材を用いた製品、つまりEagle Pilot 2のリコールに踏み切っていた。その総費用の試算額は明確にはされていないが、一説によれば全世界の累計で100億円とも500億円とも言われている。しかしリコールという負債の回収活動に併せて、問題の新素材を更に改良し、より高機能で安全な革新素材の開発に成功したと戦略的に攻めの発表を行ったのは、松永が事前に得た内部情報通りである。

 これにより会社は、逆に社会的な信頼と評価を獲得すると同時に、高い技術力を誇示することにも成功し、コービーブランドは微塵も揺らぐことが無かったのだった。


 この一連の流れは全てコービータイヤ側の思惑通りであり、ここでの出費、つまり示談金やリコールに掛かる費用などに比べれば、お釣りが来るほどの大成功だったと言えよう。コービータイヤにとって今回の騒動は、失ったものよりも、むしろ得たものの方が大きかったのである。


 「ほうら。俺の言った通りじゃないか」

 午後の一時を回り、付近の会社からの客足が途絶えた頃を見計らって、二人は大門の馴染みの蕎麦屋の暖簾をくぐっていた。昼の書き入れ時を過ぎた店内に他の客はおらず、隅のテーブルに陣取る大門の前には、立川から本社に出張で訪れていた長田がいた。

 「何が言った通りだ? それはこっちの台詞だ。あんなタイヤを市場に出すから、案の定、大問題が起きたんだぞ。判ってるのか?」

 長田が渋い顔で言うが、大門は薬味のねぎ蕎麦猪口そばちょこに入れながら気にもしていない様子だ。

 「問題? 何が問題だったんだ? あれはバカなユーザーが無謀な運転をしたから起きたんだろ?」そう言ってから、次いで山葵わさびを蕎麦つゆに解く。「事故を起こした当人も、或いは遺族ですら『はい、その通りです』って言ってるんだぜ。Eagle Pilot 2に問題なんて無かったんだよ」

 「それは金の匂いを嗅がせたからだろ? 札束で面をひっ叩いて、無理やり黙らせただけのことじゃないか」


 自分の天ぷら蕎麦に手を付けることも忘れて詰め寄る長田に対し、一旦、手を止めた大門が返す。彼には長田が何を問題にしているのかが判らないようだ。いや、判ってはいるが、それは大門にとっては問題ですらないのだろう。


 「何が悪い? 結局、奴らにとっては、金が貰えるなら黙って引き下がる程度の話でしかなかった、ってことじゃないのか?」

 「中には一家のあるじを失った家庭も有るんだぞ! お前には罪の意識の欠片も無いのかっ!?」

 身体を乗り出し ──ただし店主に話を聞かれないように── 抑え気味の声で食ってかかる長田を細めた目で見返すと、大門はざるに盛られた蕎麦を一つまみつゆに着け、勢い良く啜り上げた。そしてそれを咀嚼しながら、次の一つまみを割り箸で持ち上げてから言った。

 「無いね。その家族が一生食ってゆける位の金は払ってる。当人たちだって、それだけの大金を貰うことで納得してるんだ。どうしてわざわざ寝た子を起こす様なことを言うんだ、お前は?

 それに今回の件では、むしろ我々コービータイヤの評判は上がってるんだからな。株価だって、一時の売り気配から復調し、むしろ以前よりも高値を付けてる。配当だって、会社史上の最高額が確定的だ。皆がWin-Winでハッピーなのが判らんのか?」

 「ちっ・・・」

 「そんな辛気匂い顔してないで、お前も食え。旨いぞ。ここの蕎麦粉は信州から取り寄せてるんだ。早く食わないと伸びちまう」


 苦々し気な顔で乗り出した身体を引き、長田は椅子の背もたれにドッカと身体を預けた。彼には食欲など無いようだ。Eagle Pilot 2の問題が顕在化して以降、長田は食事も喉を通らない程に神経をすり減らしている。

 そのせいか、幾分痩せてスッキリとした彼の顔を見て、大門は可笑しそうに話を続けた。


 「それより立川では、堀田の奴が上手くやってるようじゃないか。お前にあれくらいのバイタリティが有れば、今頃はもっと上に行っている筈なんだけどな。がははは」

 そう言って葱の絡み付いた割り箸を、長田の顔に向ける。

 「それに比べれば、構造開発の横溝はだらしないな。まるで手も足も出なかったって感じじゃないか。立川はもう完全に、堀田の手に落ちたんだろ?

 当分の間、あの鼻持ちならない奴の相手をしなきゃならんと思うとゾッとするが、お前が上に上がるまでの間の辛抱だな。わっはっはっは」


 長田は忌々しそうな表情を隠そうともせず、顔だけを窓の外に向けた。そこには込み合う時間帯をずらして食事に出ていた近隣のサラリーマンたちが、満たされた腹を抱えながら満足げに会社へと戻ってゆく姿が見えた。

 この一帯にどのような会社が有るのか、入社以来、立川の技術開発研究所に勤務し続けている長田は知らない。だが、東京駅にほど近いこの一等地には、いわゆる大手の一流企業と呼ばれる会社が名を連ねているのは間違いない。ここに本社ビルを構えていることこそ、超一流の証なのだから。そして我らがコービータイヤも、紛れもなくその一員だ。

 その亡霊のような、それでいて楽し気な様子の男たちを目で追いながら、長田はこう思った。


 (どいつもこいつも、大門のようなつらしやがって!)


 そう思って視線をテーブルの向かい側に戻すと、機嫌よく蕎麦を啜る大門が目に飛び込んできて、長田は再び視線を逸らした。しかし今度は、目の前にある天ぷら蕎麦に向けてだ。彼は不快な思いを一時でも忘れ去ろうとするかのように、割り箸を手に取ると勢いよくそれを食べ始めた。

 その姿を見た大門は、愉快そうに言う。

 「頼むぞ、長田! お前は真面目なだけが取り得のつまらない男じゃない。同期入社の中ではホープなんだ! もっともっと偉くなって、会社の中枢を俺たちの代で固めちまおうじゃないか!」



 ひんやりとした廊下にしつらえた安っぽい長椅子に腰かけていた豊が、居ても立っても居られずといった様子で立ち上がった。しかし、その隣に座る笑子えみこは彼の腕を引き、落ち着いて座っているようにと促した。

 「お前は心配じゃないのか? 彩香ちゃんは初産なんだぞ。俺たちにとっては初孫だ」

 渋々といった風情で座り直した豊を横目で見た笑子は、手にしていた婦人雑誌に視線を戻すと、夫の方を見ることも無しに言う。

 「大丈夫よ。彩香ちゃん、しっかり者だし。大輔だって傍に付いてるんでしょ?」

 「いや、しかし。何かしてやれることが有るかもしれんじゃないか」

 「無いわよ、そんなもの。まさか、あなたまで彩香ちゃんの横に張り付くつもりじゃないでしょうね? そんなことしたら看護師さんに『出て行け!』って追い出されるに決まってるじゃない」

 「そ、そりゃそうだが。やはりそれが人情というのもであって・・・」

 その言葉を聞いた笑子は、目を丸くして婦人雑誌から顔を上げた。

 「何よそれ? 私が大輔を生む時は、あなた平気で仕事してたじゃないの。そんな人情が有るんだったら、どうしてあの時、傍にいてくれなかったのよ?」

 豊は目をパチクリとさせ、妻の顔を見た。どう考えても形勢不利だ。ここからの一発逆転など不可能に違いない。こうなったら、傷口をいかに小さくするかが重要だ。

 「あ、いや・・・ そ、それは・・・ お前がしっかり者だから、俺は安心して・・・」

 「だから彩香ちゃんもしっかり者だって言ってるでしょ?」

 傷口を小さくするどころか、どつぼに嵌り込んでしまった。首根っこを押さえられた猫のように、ぐうの音も出ない程に押し込まれた豊は、しょんぼりと座り込む。


 するとそこに、分娩室から元気な赤ん坊の泣き声が響いた。


 豊がガバリと立ち上がる。しかし笑子がすかさず彼の腕を掴んで、無理やり座らせる。

 「だから、まだ早いって言ってるでしょ。誰かが出てくるまで待っていなさいって」

 「あ。う、うん・・・」

 渋々腰を下ろす豊。しかし、座ると同時に分娩室のドアが開き、再びピョコンと立ち上がった。今度ばかりは笑子も雑誌を置き、長椅子の前に立つ。

 だが、ドアから顔を覗かせた中年の女性看護師は、二人に向けて笑顔を作ると「元気な男の子ですよ」とだけ言い残して、再び中に引っ込んでしまった。それを見た豊の顔が曇る。

 「大丈夫なのか? 何か問題でも起こったんじゃないのか?」

 「大丈夫よ。『元気な男の子』って言ってるんだから。まだバタバタしてるんでしょ。もう暫くしたら面会できるから、それまでここに座って待ってましょ」

 そう言いつつ座り直し、再び婦人雑誌を手に取る妻を見て豊は思う。言い古された言葉だが、やはり女性は強いのかもしれないと。今だったら、その言葉を本気で信じられそうだと。



 病室のベッドに横たわる彩香の腕には、まだ産まれたばかりの赤ん坊が眠っていた。その隣には、椅子に腰かけた大輔が付き添っていて、まだ目も見えていないであろう我が子を、飽きることなく愛おしそうに眺めている。

 人は焚火や蝋燭の焔を何時間でも眺めていることが出来る。浜に打ち寄せる波や、川の流れもそうだ。それは一瞬として同じ表情を見せることが無いからだと、長い間、大輔は思い込んでいた。

 しかしこの子はどうだ? 眠り込んだままピクリとも動かず ──時折、モゾモゾと口や手を動かすことは有るが── 殆ど静止画のような状態ではないか。それなのに、飽きもせず見続けることが出来るのは何故だろう? それは、その対象が我が子という特別な存在だからなのだろうか?


 そうではないと大輔は思った。それはきっと、人の心の深層に触れる、本質的なものだからなのではないだろうか?


 火や水といった、人間にとっては大敵といえる存在であっても、それらによって人類は安らぎ、そして育まれてきた。自然現象として時に牙を剥き、人の命を奪うことすら有ったとしても、それら無くして人類は歩んで来ることが出来なかったのだ。そういった太古からの記憶が、本人すらも意識していない部分に語り掛け、安堵感をもたらすのだろう。

 同様に「赤ん坊」という存在に、人の心は本能的に揺さぶられるに違いない。それを母性とか父性といった味気ない心理学用語でカテゴライズしてしまうのは、宝石を炭素の同素体であるとか、酸化アルミニウムだと言うのに等しく、その価値を言い表しているとは到底思えないのだ。

 何ものにも染まっておらず、疑うことも騙すことも知らない。人を恨んだり妬んだりする心が芽生える、ずっとずっと以前の純真無垢な命。か弱く儚げでありながら、逞しい生命力に満ちた透明な魂。そんな我が子の安らかな寝顔を見て、何故だか大輔には、どうしようも無く涙が込み上げてくるのだった。


 君が生まれたこの世界は、君が思うよりずっと意地汚く、けがらわしい。楽しいことよりも、辛く悲しいことの方が多いかもしれない。でも、そんな世界に君を送り出してしまう罪を許して欲しい。それだけ私たちは、君に逢いたいと願っていたのだから。

 願わくば君だけは、人を裏切ったり裏切られたりしない人生を歩んでくれ。それこそが儚い夢だとしても、大輔はそう願わずにはいられなかった。


 涙ぐむ大輔を見た彩香がクスクスと笑った。彼女には、この涙の意味が伝わっているだろうか? それとも、初めて我が子と対面した感動で、涙しているのだと思っているだろうか? でも、どちらでも構わないと彼は思った。大輔自身も、どちらが本当なのか判らなかったからだ。

 その時、陽太(はるた)と名付けられた赤ん坊が、小さな口を開けてホンワリとした欠伸をした。それを見た彩香は、再び可笑しそうに笑う。そして大輔も、泣き笑いでクスクスと笑う。

 そんなこととはつゆ知らず、再び眠りの中に逃げ込んだ赤ん坊の上を、二人の笑い声が覆い被さっている時、病室のドアがノックされた。二人が入口の方を振り返ると、期待に目を輝かせたジイジとバアバが顔を覗かせた。

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