熱し易く冷め易い民衆の視線がコービータイヤから逸れ始め、世の中は平静さを取り戻しつつあった。それは「そろそろ次の話題を探そうか」という空気が世間に流れだした、と言い換えることが出来そうだ。

 「中々やりますね、コービータイヤも。うまい具合に鎮火してきてるじゃないですか」

 耳に嵌めたイヤフォンのコントローラー部分に内蔵されたマイクに向かって、小声で話しかける松永の姿が、渋谷スクランブルスクエアのスターバックスに有った。テーブル上に広げたMacBook上の通話アプリを経由して、誰かと話し込んでいる。

 「追撃しますか? どうします?」

 そう言いながら、既に冷め切ってしまったブレンドコーヒーを一口啜る。

 「いいんですか? 何かいい情報さえ有れば、俺は書くのはやぶさかではないんですけど。ってか、むしろ文芸新秋の方からは、次のネタは無いのかってせっ突かれてるんですよ。この話題がホットなうちに出さないと意味が無いですからね」


 その時、胸ポケットの中でスマホが鳴り、メールの着信を告げた。松永はそれを取り出すと、送信者の名前だけを確認して、また直ぐにポケットに仕舞う。コービータイヤ関連のすっぱ抜きが功を奏し、彼の元には、これまでに付き合いの無かった出版社や新聞社からも依頼が殺到するという、引く手数多あまたの売れっ子フリーライターになっていたのだ。


 今、メールを寄越して来たのは、文芸新秋社とはライバル関係にある春潮社からである。しかし、かつて松永が持ち込んだ原稿をケチョンケチョンにけなし、ごみクズのように扱った春潮社を彼は快く思ってはいない。既に名前すら憶えていないが ──ひょっとしたら、あの時の担当者は社内で出世して、今でも偉そうなことをほざいているのかもしれない── 奴の顔を思い出すだけで、いまだに目の前がクラクラするような怒りが鎌首をもたげるのだ。

 その駆け出しの頃の屈辱が、仕事に向かう際のモチベーションにもなっているという点においては、裏返しの意味で恩が有ると言えなくもないが、松永はあの時の恨みをいまだに引き摺っていた。従って彼は、事ある度に春潮社からのアプローチを無視することに決めていたのだった。


 (俺を評価しなかった奴らの依頼など、死んでも受けるものか)


 そんな想いに囚われていた彼を、イヤフォンの中の声が現実世界へと引き摺り戻した。

 「えっ、なんです? 回収するんですか?」

 松永は直ぐにブラウザを立ち上げ、検索エンジンに『コービータイヤ』『リコール』と検索ワードを打ち込み、リターンキーを弾いた。しかし、検索に引っ掛かったのは、十五年ほど前にヨーロッパで問題となった不良品に関するリコールと、数年前に国内で発生した大型車向けタイヤのスペックアウト品のものだけであった。

 ヨーロッパの件は大規模なリコールとなり、世界中のマスコミを賑わしたことは記憶に残っている。しかし最近の国内の件は、品質上は問題が無いとのことで ──確か、タイヤの側面部分の表示だか刻印だかの不備だったと記憶している── 世間が騒ぎ出すことも無かった筈だ。


 つまりたった今、松永が入手したリコール情報は、まだプレス発表すらされていない内部情報ということになる。もし松永がコービータイヤの株を持っており、この情報を元にそれを売り買いすれば、絵に描いたようなインサイダー取引に当たるわけだ。しかし彼は、自分自身がギャンブルのような人生を歩んでいるくせに、博打的な金の使い方は一切しないタイプで、株への投資というものに強烈な偏見を持っている人種であった。あんなものはクズがやる事だと。

 「ご苦労なこってすね、リコールなんて、莫大な金がかかるんでしょうに・・・ えっ? 新素材? そんな話が有るんですか?」

 その後、暫く相手の話を聞いていた松永は、手に取ったコーヒーカップが空なのを認め、代わりに水の入ったコップを持ち上げる。

 「なるほどね。確かに世間がどうリアクションするか、まだ不透明ですね。コービーにとって良い方にも悪い方にも転がりそうな気がしますよ。

 判りました。じゃぁ、暫くは様子見としましょうか。タイミングを外した記事なんて、伸び切ったラーメンほどの値打ちも無いですからね。また何か有ったら連絡下さい。それじゃ」


 通話を終えた松永はそのままボーッと天井を見上げ、暫くの間、考え込むような仕草を見せていたが、気を取り直すようにイヤフォンを外すと、現在取り掛かっている原稿の推敲すいこうを再開した。



 高山宅にて久し振りの再会を果たした大輔と彩香は、家人の勧めもあり、暫くの間そこに間借りさせて貰うことにしたのだった。それは世の中に蔓延る、寄生虫のような詮索好きの連中が、いまだに大輔の自宅に張り付いているかもしれないからだ。

 コービータイヤの告訴取り下げの陰で、いったいどのような話が持たれたのか? 噂話を生きる糧にしているような人間であれば、今もなお大輔に対し、何らかのニュースバリューを見出している可能性は否定できない。


 実際のところ、勝手に告訴したコービータイヤが勝手に告訴を取り下げただけで、大輔との間に何らかの話し合いが持たれたわけではない。しかし世間がそんな面白みの無い話で満足する筈は無いし、大輔にしても、妙な勘繰りで私生活をかき乱されるのは御免だ。

 出産を控えた彩香が、安心して過ごせる環境が整うまでの間、大輔と彩香は高山の言葉に甘えることにしたのだった。


 そんなある日、仕事を終えた高山が一人の客人を連れて帰宅した。例によって立川からテストコースに出張で来ていた神谷だ。今居夫妻が今、高山宅に身を寄せていると聞き、彼は高山の誘いに乗って顔を見せたのだった。


 気心が知れた者同士、久し振りに三人で顔を合わせたからには、酒が振舞われるのは当然の成り行きだろう。身重の彩香は早々に座を辞していたし、男同士のつまらない話に愛想を尽かし、子供を寝かし付けるという大義名分を引っさげて桃子が姿を消してもなお、高山邸のリビングでは三人の談笑が遅くまで途絶えることは無かった。

 最初は車談義などをしていた三人も、酒が深まるにつれ、やはり例の話になる。

 「それにしても、随分と酷い目に遭ったね、今回は」

 高山の家から歩いて行ける距離にあるビジネスホテルを、テストコース出張時の定宿にしている神谷は、帰りの車の心配をする必要も無く、いいペースで呑み進めつつ大輔に聞いた。

 「まったくですよ。向こうの弁護士から告訴しますって連絡を受けた時は、目の前が真っ暗になりましたよ。勿論、彩香には大丈夫だって強がって見せましたけどね。でも実際のところ、どうなっちゃうんだろうって」

 「そりゃそうだ。一生のうちで告訴されることなんて、普通無いからな」

 神谷はうんうんと頷きながら、北海道土産の鮭とばを一本引き千切る。冷蔵庫から持って来た新しい氷をテーブルに置きながら、高山も言った。

 「でしょうね。罪を被せられるのも怖いし、裁判費用とかの金銭面だって、我々素人には全く判りませんからね。俺だったらパニックですよ、絶対」

 「でも、一旦は告訴しといて、それを取り下げたってのはどういう意味なんだろう? 今居君、何か会社から聞かされてるの?」

 そう尋ねる神谷に、酎ハイのお湯割りに沈む梅干を割り箸で突きながら、大輔が答えた。

 「いえ、それが全く。何の話し合いも無く、突然です」

 「ふぅ~ん。俺は材料系じゃないから詳しい話は判んないんだけど・・・」と神谷は続けた。「例のヤバいゴムを改良して、更に新しい材料を開発するだか、開発したって話で、立川は今持ちきりなんだよね。その辺の話と告訴取り下げがリンクしてるんだろうか?」

 空になった神谷のグラスを手に取り、酎ハイのロックを作っていた手を止めて高山も聞いた。

 「俺には難しい話は判んないっすけど、マジで裁判になったら負けるって、会社が考えたんじゃないですか? どう考えてもシクったのは会社の方なんですから」

 「いや、そうじゃないと俺は思ってるんだ」と大輔は言った。

 「???」

 「というと?」

 神谷と高山は大輔の顔を見詰めた。

 「つまり・・・」


 それから大輔は、あれはコービータイヤの戦略、つまり印象操作の為の告訴だったのではないか、という持論を展開してみせた。無論、本当に裁判になれば、会社側の落ち度が白日の下に曝け出されてしまう可能性もゼロではないと考えたのかもしれない。しかし、それよりもやはり、巨人が小人を踏み潰す戦法を取ったというのが、大輔の結論であった。

 それを聞いたほかの二人は、自分たちが仕えている会社の醜悪な一面を見せつけられて、なんとも居心地の悪い気分に浸るのであった。自分の生活の為とは言え、そんな会社で働いているというのは、どう考えても気分の良いものではない。


 「でも、良かったじゃないですか。何だか責任だけ擦り付けられて、今居さんは納得いかないでしょうけど。でも本当はそうじゃないってことは、俺も神谷さんも判ってますよ」

 沈みがちな雰囲気を盛り上げるため、高山はわざと明るめの声を張り上げた。するとそれに呼応して、神谷も軽口を飛ばす。

 「そうだよ。会社を辞めるまで追い詰められたことは痛手だったろうけど、結局、それ以降は何も無かったってことだろ? いやむしろ、彩香ちゃんという、可愛いお嫁さんを見つけられたんだ。これは大きなプラスだったとも考えられるぞ!」

 「そうですよ、今居さん。ってか、神谷さん。彩香ちゃんとは今日が初対面だったんですね?」

 「そうそう!」神谷は思い出したように指をパチンと鳴らした。「高山君から『今居夫妻がウチに来てる』って聞いて、『えっ、何!? 今居君、結婚したの!?』って聞き返したくらいなんだから。わはははは」

 「あははは。すみません、ちゃんとご紹介もせず。それに今日なんか、さっさと寝ちゃって」

 大輔は照れ臭そうに頭を掻いて見せた。

 「いやいや、妊婦さんは身体に気を付けないとね。ってか、あんまり大声で騒いでちゃダメだな。怒られないうちに、そろそろお開きにするか?」

 しかしそれを聞いた高山は、とんでもないとでも言いたげに椅子から立ち上がる。

 「いやいや、まだでしょ。今居さんはまだ大丈夫ですよね?」

 「あははは。俺は今、プータローだから深酒してもOKだよ。でも、むしろ明日も仕事が有る二人は大丈夫なのかな? 神谷さん、出張中なんでしょ?」

 呑む気満々の高山を見た大輔がサラリーマンである二人に気を使うが、高山はこの宴をそう易々とお開きにするつもりは無いようだ。

 「余裕でしょ。神谷さん、日本酒好きですよね? 俺の地元の酒が有るんですよ」

 「えっ、新潟の? 八海山かな?」

 「ぶぅーーーっ! 残念でした。萬寿でしたーーっ!」

 日本酒に目が無い神谷は、まんまと高山の罠に嵌る。

 「おぉ、久保田か! 萬寿ってことは純米大吟醸だな? んじゃぁ、折角だからもうちょっとだけ呑んでくか?」

 「そう来なくっちゃ!」


 これまでの鬱積した気持ちが、四方に発散してゆくような爽快さを大輔は感じていた。こんなにも晴れやかで清々しい気分になったのは、いったいいつ以来だろう? 久し振りの気晴らしに、大輔もつい冗談を跳ばす。それはかつて、彼らが出張者に向けて放ってきた、テストコースのあるあるジョークだ。


 「神谷さん、明日の横乗りでゲロ吐かないで下さいよ」

 「大丈夫だよ。ビニール袋持参で乗るから」

 「わははははーーーっ!」

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