コービータイヤは絶妙な印象操作によって、会社はむしろ被害者であるかのような世論誘導に成功した。いや「被害者と言うよりも、むしろ救世主と言うべき」とさえ書き立てる新聞社も有った程だ。そこには勿論、大資本に任せた各種メディアへのが存在し、経団連を経由した有形無形の圧力も各方面に波及していたことは言うまでもない。

 政治献金で首根っこを押さえられている与党の重鎮連中など、不幸な事故に遺憾の意を表しながらも、「不届者が未曽有の大惨事を引き起こした」と企業側に対する側方援護射撃に余念が無い。一方、コービータイヤがスポンサー契約を結んでいる大手民放の看板ニュース番組に至っては、口から泡を飛ばす勢いで、『コービータイヤ被害者説』を声高らかに連呼したものだった。


 しかしその裏で ──「和解交渉のテーブルに着く」と言っておきながら── 無理な限界走行を行った時に限って例のグリップ消失が起こることを理由に、事故原因の多くは、そもそもがドライバー側の責任であるとの立ち位置で戦う姿勢を見せ、結局、会社の落ち度はうやむやとなったまま被害者との示談が成立する件数が増加していた。

 個人対企業の和解折衝など、体力のある企業側の良いようにあしらわれてしまうのは目に見えている。かつての公害病の例のように、大規模な集団訴訟にでも発展すれば個人側にも勝機が有ると言えるが、原告側がそのような組織だった動きを見せることを嫌ったコービータイヤは、早々に決着を付けるべく、スピード勝負の個別和解交渉戦術を繰り広げていた。



 香川県、高松市。Eagle Pilot 2を履いた車両の事故により、一家の大黒柱を失った家族の元に、コービータイヤの法務部員、田後たごが向かっていた。

 技術的な知的財産の管理を専門的に行う知財部とは異なり、彼の所属する法務部では、技術以外の法律関連業務全般を受け持っている。その守備範囲は広く、取引先との契約関連、社内向け法規教育関連、対外的法手続きに加え、トラブル対応までもが含まれる。

 つまり、生産工場の音や匂いに対する近隣住民のクレームや、従業員の労働災害にまつわる問題などが法廷闘争に発展した場合にも姿を現すのだ。当然ながら今回の件では、大きな役割を演じている。

 しかし、彼らトラブル対応部隊の真価が発揮されるのは法廷においてではなく、むしろ裁判沙汰に発展しそうな事案を未然に抑え込む場合で、社内的には「消火班」という隠語がまかり通っている程である。その皮肉を込めた通称すらも田後にしてみれば勲章であって、彼はむしろ誇らしい思いで、その呼び名を自ら積極的に使っていた。彼は今の仕事こそが、自分の天職だと思っているのだった。


 ただし今回のように規模が大きな話の場合は、通常の業務割り振りではさばき切れない。そこで法務部全員がスクランブル的に駆り出されていて、この手の折衝を専門に扱っている田後のサポート役として、普段は社内向け業務をこなしている森山が付き従っていた。

 「次の被害者の家族構成は、妻と子供が三人。高二の長女と中一の長男、それから小三の次男です」

 助手席で森山が手許のメモを読み上げると、田後は「判ってるよ」と言わんばかりに手を挙げた。本来であれば後輩である森山が運転するべきところだが、女性に運転させるのも気が退けた田後は、自らがかって出てレンタカーのステアリングを握っている。

 「そんなこと改めて言われなくっても頭に入ってるよ。それより森山。お前だったら次の案件、どう捌く?」

 「次ですかぁ? そうですねぇ・・・ 子供が三人もいるから、少しこちらが譲歩する余地が有るかもしれないですかね。一番下の子なんか、まだ小三ですよ。養育費だって必要でしょうし」

 「バカか、お前は?」

 「は?」

 「お前はバカなのかって聞いたんだよ」

 「・・・」

 田後の歯に衣着せぬ言い様に、森山は血色の良い可愛らしい頬をプクリと膨らませて見せた。しかし運転しながら進行方向を見据えている田後には、そのあどけなさの残る表情も目に入ってはいないようだ。

 「考えてもみろ。それは金に困ってるってことじゃないのか?」

 「そりゃまぁ、そうですけど」

 「そのメモの下の方、読んでみろ。被害者は掛け金をケチって、まともな任意保険にすら入ってなかったんだ。自賠責にしか入ってなかったんだよ」

 「えぇっとぉ・・・ あっ、はい。そう書いてあります」

 「だろ? しかも長女は来年、大学受験だ。だから金に困るのは目に見えてる。つまり、喉から手が出るほど和解金が欲しいのさ。今直ぐにでもな。

 そういった相手は、まず間違い無く交渉が長引くのを嫌う。だから、和解交渉の長期化を臭わせれば、『はいはい』と二つ返事でハンコを押すぜ。見てろ」

 見てろと言われてもねぇ、と思いながら今度は唇を尖らせた。

 「別に『私は綺麗なお花畑だけを見ていたい』って言うつもりは有りませんけどぉ・・・ どうなんでしょ? あっ、次の交差点を左です」森山は会社から業務用に支給されたスマホの、地図アプリを覗き込みながら言う。「そういうのって、天下のコービータイヤがやって良いことなんですかね?」

 田後はウィンカーを出し、ゆっくりと狭い路地に車を進入させた。

 「こんなこと、大手企業だったら何処だってやってるよ。気にすんな。それより、この手の交渉で最も大切なことを教えてやろう。やって良いことか悪いことかは、俺たちが決めるんじゃない。それは相手が決めることなのさ。やって良いと奴らが認めた証として押すのが、和解成立書のハンコなんだよ。そうだろ?

 お前みたいに、生温い社員向け法規研修の事務局業務ばっかりやらされてると、世の中が見えなくなっちまうよな。はっはっは」

 「そんなもんですかねぇ・・・ あっ、ここです! ここ!」

 森山は窓の外を指差した。その言葉に応じて車を停めた田後は、サイドブレーキをかけてエンジンを切ると、後部座席に放り投げてあった鞄を手に取る。

 「さっ、着いたぞ。チャッチャと済ませちまおう。んで、午前中にもう一件、やっつけちまおうゼ。折角、四国まで来たんだ。旨いうどんでも食って帰ろうじゃないか」

 「あっ、私。美味しいうどん屋さんの情報、ゲットしておきました!」

 先に車を降りた田後に遅れないよう、森山も助手席から外に出た。

 「おぅ、気が利くね。中々仕事が出来るじゃないか。今度『消火班』に異動願い出したらどうだ? 俺がみっちり鍛え直してやるよ」

 「あははは。ご遠慮させて頂きま~す」



 「和解交渉は順調に進んでいるらしいな?」

 「はい。法務部の『消火班』が良い仕事をやっているそうです。本社にデカい顔されるのは気が進みませんが、やはりいざとなったら頼りになりますね、あそこは」

 「そうか。それなら良かった。だが、技術畑がトラブルを出す度に借りを作るのは、どうにかせんといかんな」

 統括部門長に昇格して自分の部屋を持った堀田が、同じく材料研究本部長にスライド昇進した田辺を呼び出していた。部屋をあてがわれたと言っても、役員ではないので豪勢な机やフカフカの椅子などが支給されているわけではないが。

 「それより、新素材のデータは揃ってるんだろうな? しっかりと検証をして、問題が無いことを確認済みだというアリバイを作っておくことが大事なんだからな。社内の何処からも文句が出ないように、事前にしておくんだぞ。もう二度と、この前みたいなことが無いように頼むよ」

 「はい。心得ております」

 「結果的には我々にとっての追い風となったわけだが、殆ど綱渡り状態だったことは君も認識してるだろ? 一歩間違えば、我々はEagle Pilot 2と共に心中だったんだ。もう二度とあんな思いをするのは御免だよ」


 彼の今の立ち位置は、材料研究本部のみならず、構造開発本部も設計本部も、更には支援本部すらも配下に納めるということで、材料だけをケアしていれば良いという立場ではなかった。しかし材料系出身の堀田としては、何をさておいても材料を優先していたのだ。それは、自分の可愛い後進たちが滞りなく業務を遂行し、社内のヒエラルキーを昇りつめて行くことこそが、自分の立場を盤石なものにするというシステムが出来上がってしまっているからに他ならない。

 自分の息の掛かった者が、更に息の掛かった者を引き上げて行く。この個人の能力や実績を無視した、蟻の行列のように無様な基幹職人事が横行する組織内で、堀田のような出世欲の塊が地位を得れば、当然そうなることは目に見えている。


 「えぇ、仰る通りです。私も生きた心地がしませんでした。構造開発の横溝が何か仕掛けて来るんじゃないかとヒヤヒヤもんでしたが・・・ 結局、奴らは何も手出ししてこなかったんですね。心配して損しましたよ」

 堀田の机の前に立つ田辺は、指紋が無くなるのではと思えるくらいに、激しく手を擦り合わせて続ける。

 「で、データの件ですが、ラボでの材料評価結果は全て出揃いました。先日、試作工場から上がってきたタイヤは現在、室内試験所にて評価中でして、茨城に発送済みの四本も最優先で評価するよう、依頼書を発行済みです」

 「うむ。実車試験部の奴らには、詳しい話はしなくていいからな。あくまでも次の新素材の評価をしているだけ、という情報のみでいい」

 「はい。奴らに余計な知恵を付けさせると、我々の首を絞めかねないということが、今回の件で明らかとなりましたからね」

 「まったくだ」


 堀田は椅子をクルリと回して、部屋から臨む景色を振り返った。そこには、眼下に広がる試作工場や室内試験場が、緑の森を虫食いのようにして広がっていて、横並びに試験機や研究施設などを満載したビル群も併設されていた。それらの間を縫うように伸びる車道は高速道路ほどの幅を持ち、忙し気に走り回る大型トラックや工事業者の車両はミニカーほどにしか見えない。彼方には、この敷地の外側に沿って走る私鉄の窓が、キラキラと太陽の光を反射しながら過ぎ去ってゆくのが見えたが、その音がここまで届くはずも無かった。

 このコービータイヤの技術開発を司る広大な敷地に建つ、あらゆる物、あらゆる者が今、自分の指揮下に有る。堀田はある種の感慨と共に、その景色を見下ろした。

 しかし堀田は知っていた。この技術開発研究所、本館七階からの景色は絶景には違いないが、もっと良い景色が有ることを。それは、この部屋からもう一フロア上の八階、役員室からの眺めであることを。


 そこまで考えて、当の役員室にいる筈の野坂のことに思いが至り、同時に田辺がまだこの部屋にいることを思い出した堀田は、再び椅子を回して窓に背を向けた。

 「我々に対する、野坂常務のご期待には応えねばなるまい。特例的とはいえ、我々材料系の人間を一気に引き上げて頂いたのだからな」

 「はい。承知しております」

 「うむ。よろしく頼むよ」



組織図7

────────────────────

コービータイヤ

 ├CEO

 │├販売事業管掌

 ││└販売部門

 ││ └消費財販売本部(大門)

 ││

 │└知財・法務管掌

 │ ├法務部門

 │ │└法務部

 │ │ ├渉外室

 │ │ │・田後基也

 │ │ └コンプライアンス室

 │ │  ・森山友美

 │ └知的財産部門

 │

 └COO

  └技術分掌(野坂)

   └技術統括部門(堀田)

    ├材料研究本部(田辺)

    │└材料研究部(川嶋)

    │ └機能性材料研究課

    │  ・光重真紀

    │  ・本山真治 → 出向

    │

    ├構造開発本部(横溝)

    │└構造開発部

    │ └数値解析ユニット

    │

    ├設計本部(長田)

    │└乗用車タイヤ設計部(鷲尾)

    │ └消費財タイヤ設計課

    │  ・馬淵一成

    │

    └支援本部

     ├試作工場

     ├室内試験所(堂下)

     │└小型タイヤ試験ユニット

     │ ・神谷直樹

     └実車試験部(川渡)

      ├管理課

      │・橋野由佳

      ├生産財試験課

      │・高山元春

      └消費財試験課

       ・今居大輔 → 辞職

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