自分が横浜の実家に帰ってくる時は、いつだってトラブルを抱えたような時だ。それが申し訳なくもあり、悲しくもある。本当であれば次に帰ってくる時は、初孫を抱いた彩香と一緒のはずだったのに。


 (それなのに、いまだに年老いた両親に心配しかかけられない自分が歯痒い)


 突然、会社を辞めて浮草のような生活を始めた息子が、旅先で根を張って生活基盤を築き、彩香という女性を妻に迎えたことで、二人はどんなに安堵したことだろう。そこに彼女の懐妊という知らせを届けた時の二人の喜びようは、電話越しにだってひしひしと伝わって来たものだ。その時になって初めて、大輔は一つの親孝行が出来たような気がしたのに。僅かばかりの恩返しが出来たような気がしたのに。


 (それなのに、今度は背任容疑で告訴されただって?)


 いったい自分は何をやっているのだろう? 自分の何処が親孝行だと言うのだ? そんなものとは程遠い自分が、全くもって情けない。そんな想いに圧し潰されそうになりながら、大輔は子供の頃からの思い出の詰まった自室で机に向かい、ボンヤリと壁を眺めていた。


 その壁に貼られた雑誌の切り抜きの中では、幾分、色褪せたケンとメリーが落ち葉焚きをしていた。何処かの寺で撮影されたものだろうか? 彼らの後ろでは住職と思しき僧侶が、箒で落ち葉を搔き集めている構図だ。どう考えても、その二人の雰囲気とはミスマッチなのだが、その不思議な感じが好きで、何となく貼りっ放しにしていたものである。Ken & Mary。車好きなら知っている4代目スカイライン、通称「ケンメリ」の広告だ。

 ケンメリが一世を風靡したのは、大輔はまだ生まれたばかりの頃。だから、これらの広告やテレビCMをリアルタイムで見た記憶は無い。しかしその後、成長するに従い父の影響で車好きになり、チョッと古い車にも興味を抱くようになってから知ったものである。


 改めてそれを見直した時に大輔は、車に乗ってあちこちを旅しているケンとメリーに、自分と彩香を ──二人の場合はトラックだが── 重ね合わせたのだった。しかし同時に、ケンとメリーほど自分たちは美男美女ではないことにも思いが至り、妙な照れ笑いが零れた。


 (ケンとメリーの目には、いったいどんな景色が映っていたのだろう? そしてこれから先、自分と彩香は、どんな景色を見ることになるのだろう?)


 怖くないと言ったら嘘になる。だが死刑判決を待つ重罪人のような、絶望的な気分とは違うのだろうと思った。楽観的なのともきっと違う。それは、自分は間違ったことなど、何一つしてはいないという自負によるものなのかもしれない。

 だが、自負などという厄介なものは、心の奥に仕舞っておこう。覚えの無い罪を被ることで生き残れるのなら、生き残ってやる。彩香と共の人生はまだ始まったばかりだ。築き上げたものなど無いに等しく、全てをこれから築いてゆくのだと考えれは、一旦、振出しに戻るのも悪くはないのかもしれない。そう、もう一度ゼロから始める。たったそれだけの話じゃないか。


 その時、彼の部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 「はい」

 躊躇いがちにドアを開けたのは豊だった。彼はぎこちなく息子の部屋に足を踏み入れると、少し寂し気な表情を混ぜ込んだ笑顔を溢した。

 「お前のAE86、ちょっと貸してくれないか? その辺、フラッと走って来ようかと思ってるんだが・・・ 一緒に来るか?」

 「あ、うん」

 そう言って大輔は、Gパンのポケットからキーを取り出す。

 「クラッチのミートポイントが近いから気を付けて」

 「あぁ、お前の好みのセッティングは判ってるさ。それより最近、オートマばっかり乗ってるから、たまにはマニュアルに乗りたくってね。上手く扱えなくなってるかもしれないと思うと、少し不安なんだけどな」

 椅子から立ち上がると、ハンガーに掛けてあった上着を手に取る大輔。しかしそれが、かつて社員向けに配布された非売品のウインドブレーカーであることに気付いた彼は、そのままハンガーに戻す。実家に置きっ放しにしていた奴だ。背中に大きなロゴで『Passion & Trust / Eagle Pilot - KOBE TIRE』とデカデカと印刷されたものなど、悪い冗談のようではないか。

 この初代Eagle Pilotは、確かに良い製品だった。それが今では・・・。ため息をつくように大輔が言う。

 「大丈夫だよ。自転車と同じで、身体に沁みついてるから」

 「まぁね。でも彩香ちゃんもマニュアルを運転してるんだろ? トラックってオートマじゃないよな?」

 「いや、うちのトラックは12速のセミオートマだよ。長距離はその方が負担が少なくて」

 先に大輔の部屋から出かけていた豊が立ち止まり、目を丸くして振り向いた。

 「セミオートマ? 12速? 何だそりゃ?」

 「はははは。まぁ、トラックは乗用車と違って色々有るんだよ」

 既に自分よりも背が低くなってしまった父の肩を押しながら、大輔は笑った。



 「いいねぇ! 変な制御が入ってない感じが! この方が『人馬一体感』って言うのかな? 車と自分が直接繋がってる感じが、やっぱり面白いよ!」

 その辺をフラフラするだけの筈が、豊の運転するAE86は、何故か湘南の海岸沿いを流していた。元来、車好きの豊は事ある度に「自分が運転する」と言ってステアリングを握り、息子に運転席を譲ることは滅多に無かったのだ。

 そんな父の楽し気な様子を横目で見ながら、大輔が助手席から返す。

 「俺は二輪に乗らないから判らないけど、テストコースの同僚には『バイクに近い感覚』って言う奴もいたけどね」

 「バイクに近い感覚か。なるほどね。言い得て妙だな。最近の車は何かと手の込んだことをしたがるから、運転自体はちっとも楽しくない。あれじゃ、運転してるんだかさせられてるんだか、判ったもんじゃない」

 「またその話が始まった」

 「まぁ、そう言うな。お前だって判ってるだろ? 本来、車を運転するってことは、そういうことだったんだ。そもそも車っていうのは、乗馬文化の有るヨーロッパが発祥で・・・」


 耳にタコができるくらい聞かされた父の持論が再び展開された。とは言うものの大輔にしてみれば、父から昔の車やレースの話を聞くのは嫌いではなく、いつも助手席に座ってその言葉に耳を傾けたものだ。そんな時、後部座席に陣取る母は、前列シートで繰り広げられる車談義に愛想を尽かし、コクリコクリと居眠りを始めるのが常だった。

 「はいはい」と言いながら仕方なく聞いていた大輔も、この話を聞くのも久し振りであることを思い出し、あえてチャチャを入れず、好きに言わせておくことにする。考えてみればこんな父子の何気ない会話も、途絶えて随分と経つような気がする。


 「あはははは。そういう頑固オヤジのお陰で、タイヤ業界は仕事が無くならないんだよ」

 と返したものの、図らずも仕事の話になってしまって、二人は気まずい沈黙を共有した。しかし、話を始めるタイミングを見つけあぐねていた大輔は、静かに語り出す。この機を逃してしまったら、またいつ話せるか判らない。

 「ごめんね、心配ばかりかけて」

 「構わないさ、俺は。だけどお母さんにはちゃんと話しておかないとな」

 豊が視線を前に向けたまま言うと、大輔も父に倣って前を見たまま応える。

 「そうだね」

 「知ってるか? 人間には、温かい言葉が必要なんだぞ」

 「クスクス・・・ それ、ケンメリの広告にあった言葉じゃん」

 「がははは。なんだ、知ってたのか? と思ったんだけどな」


 キラキラと陽の光を照り返す海が眩しく、浅い角度で差し込む光が車内の天井にユラユラとしたまだら模様を描いていた。豊は前後に他の車がいなくなったことを確認すると、シフトを一段上げてエンジン回転数を落とす。そうやって車内の音圧を下げて、息子に話の続きを促したのだった。


 「会社に裏切られた」

 豊はほんの少しだけの沈黙の後に言う。

 「・・・あぁ、聞いたよ。心配して電話してきた彩香ちゃんが話してくれた」

 「彩香が? そうだったんだ?」

 「俺は・・・ 俺には力も無ければコネクションも無い。法律に関する知識だって無い。だから・・・」

 豊は悔しそうに唇を噛んだ。

 「お前にしてやれることなんて、何一つ無いんだ。だけど、話だったらいくらでも聞いてやる。だから、いつだっていい。何だっていい。話したいことが有る時は、遠慮せずに話してくれていいんだぞ」

 父の包み込むような言葉が胸に沁みて、大輔の目に熱いものが込み上げてきた。ただしそれを悟られないよう、ドアに頬杖をつくような格好で窓の外を眺める振りをした。

 「うん、有難う」



 国民がその告訴の行方を見守る準備を整えた頃、更に衝撃的な報道が後を追った。コービータイヤが何故か突然、告訴取り下げたのだ。その一報は各マスメディアがこぞって取り上げ、日本中を驚かせたのだった。

 そのお陰で、専門家とか有識者と呼ばれる無責任な連中がテレビに出演しては、有りもしない憶測をさも現実味が有るかのように吹聴していた最中、渦中のコービータイヤが新聞各社朝刊にぶち抜きで、以下のような公式コメントを発表した。


 その、あまりにも急な展開に、理解が追い付かないのは国民も大輔も同様であった。横浜に自宅に籠り、今後の方針について法律事務所と調整を重ねていた彼の元に、突如、告訴取り下げの一報が飛び込んで来たのだから。しかし混乱する大輔も、その数日後にリリースされた新聞発表を読んで、コービータイヤの思惑が腑に落ちたのだった。


 ─────


【 コービータイヤからのお知らせ 】


 当社は、良心の呵責に耐え切れずに辞職した一社員に、全ての責任を負わせるほど慈悲の無い会社ではありません。

 『社員が幸せになれない企業が、社会を幸せにすることは出来ない』

 たとえそれがルールを破った元社員であっても、この考えに変わりは無いのです。それが創業当時から受け継がれている創始者の意志であり、当社のDNAなのです。


 当社は彼の過ちを見過ごすことに繋がった、社内管理体制の甘さを叱責する声には真摯に耳を傾け、今後の再発防止に全力で取り組んでゆく所存であります。


 また同時に、被害に遭われた皆様、ご遺族の皆様に対するサポート態勢を整えつつ、今はひっそりと生きている彼に成り代わり、一連の事故に関する和解交渉のテーブルに着く用意が有ることを、コービータイヤはここに明言致します。


 ─────


 全ては印象操作の為だった。最初から本気で告訴する気など無かったのだ。全ては世間の印象を誘導するため。たったそれだけの為に自分を訴えたのだ。それが、コービータイヤというブランドに傷を付けずに済ませるのに、最も効率的な戦術だと判断したのだろう。


 コービータイヤにとって今回の件に関する唯一の不確定要素は、事の真相を知る部外者、つまり今居大輔という存在である。しかし資金面にも限りの有る一個人が ──たとえ理が個人の側に有ったとしても── 大企業相手に訴訟で争い続けるという選択はしない筈だとの読みに違いない。つまり巨人がその身体の大きさを武器に、有無を言わせず小人を踏みにじるという構図だ。

 しかし逆の見方をすれば、コービータイヤは自分たちに非が有ることを認めているのだ。決してそれを言葉や態度にして表すことはしないが、その責任から逃れたい一心で、形振なりふり構わず罪を擦り付けに来ている。だからこそ、彼らが取り得る手段の中で、最も卑劣で反撃不可能な手に打って出たのだ。

 新聞発表を使って全ての責任をに押し付けていて ──それは大輔にとって腹立たしい限りだが── そこには正義も道理も、或いは倫理すらも存在しない。まさに大企業による大企業の為の理論であり、巨悪とすら言える存在だ。

 コンプライアンスがどうだとか、偉そうなことを言っていた会社トップの連中も、結局はお題目を並べ、中身の無い自身に虚飾を施していただけだったのだ。化けの皮が剝がれ、その下から顔を覗かせたのは、我が身可愛さに保身に走り、無実の人間を落とし込めることすらを是とする醜い本性だった。


 しかし、コービータイヤの見立ては圧倒的に正しく、的を得ていると言える。確かに彼らの思惑通り、大輔には裁判沙汰に費やす金も時間も無いのだ。コービータイヤが告訴を取り下げたのであれば、自らが進んで厄介事に煩わされ続ける理由は大輔には無い。つまり汚名を着せられて泣き寝入りすることが、大輔にとって最も失う物が少ないのだ。

 そして同時に、彩香の瞳に込められた言葉が彼の脳裏を横切るのだった。


 『理不尽なこと、不条理なことを飲み下さねばならぬのなら、黙って飲み下せ。相手を打ち負かすことではなく、自分が生き残ることを考えろ。必要とあれば、戦わずに逃げることを選択する。それを出来る人間こそが、本当の意味で強いのだから』


 大輔はスマホを取り出すと、通話履歴から彩香の番号を選択した。全てが終わったことを伝えるために。今から迎えに行くと伝えるために。

 ただ大輔は思った。「これで本当に終わったのだろうか?」と。得体の知れない何かが、頭上から降りかかってきているような漠然とした圧力を感じ、スマホを耳に当てたまま、彼は上空を見上げた。

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