第三幕:止まる

 他人のために事務をする者が、自己もしくは第三者の利益や被害者の損害を目的として、任務に背いて損害を与える罪を背任罪といい、刑法第247条が禁じ、5年以下の懲役または50万円以下の罰金に処せられる。(出典:デジタル大辞泉)

 つまり、Eagle Pilot 2の問題点を示唆する結果を得ていながら、それを隠蔽し、会社に報告する義務を怠ったというのが告訴理由であった。言うまでもないことだが、大輔が提出した報告書は、既に改竄されている。


 「どういうこと? いったい、私たちに何が起こってるの、大輔?」

 「判らない」


 そこまでするのか? それが大輔の偽らざる気持ちだった。自らの失策によって発生した問題と犯した罪から逃れるために、金が有り余っている大企業が一般の個人を告訴するなんて聞いたことがない。

 そこまで狂っていたのか? ここまで事の道理を見通せなくなるほど、その目は濁り切っていたのか? コービータイヤは、いったいどこまで腐りきった組織に成り下がっているのだ?


 「大輔が悪いんじゃないんでしょ? 何も悪いことしてないんだよね? だったら、どうしてこんな仕打ちをするの? こんなことが許されていいの?」

 「許されるべきじゃないよ、勿論! ・・・ただ・・・」

 「・・・」

 「もし本気でコービータイヤが・・・ 大企業が金にモノ言わせて法廷闘争するつもりだったら、俺たちみたいな小市民は戦いようがない。象の群れに立ち向かう蟻みたいなもんさ」

 「誰か助けてくれる人はいないの? 本当のことを知っている人は? 大輔の味方をしてくれる人がコービーにもいるんじゃない?」


 確かに大輔の脳裏には幾人かの顔が浮かんだ。同じ現象を実車で体感した、テストドライバーの高山。ラボ試験で材料の脆弱性を追認した、元材料研究部員の本山。それから、問題となる具体的データを確認したわけではないが、事の成り行きの全てを知っている、室内試験所の神谷も力添えしてくれるかもしれない。

 しかしたった今、自らの口で語ったばかりではないか。コービータイヤがその気なら、個々人の微々たる力など簡単に握り潰せてしまえるのだ。告訴するからには、事実を捻じ曲げる為の万全の用意を整えているに違いない。

 もしそうなった場合、自分に協力をした人間が後でどのような報復に遭うか判らないだろう。正義が成される世の中なんて、退屈なハリウッド映画の中にしか存在しないのだから。事実、自分も本山も会社を追われているし、とてもじゃないが、助けて下さいなどと気軽に持ち掛けられる話ではないのだ。

 暗澹たる気持ちで虚ろな視線を上げる大輔に、身重の彩香が問うた。


 「私たち、これからどうなっちゃうの?」

 「わ・・・ 判らない。と、とりあえず大学時代の伝手を使って、弁護士を探すよ。法学部出た奴に、先ずは相談かな」

 「大丈夫なの? お金がかかるんじゃないの?」

 「大丈夫、心配しないで。何とかなるって、きっと」


 しかし「何とかなる」なんて、これっぽちも思えないのは大輔自身の方だった。



 このコービータイヤによる告訴は、世間の大きな注目の的となった。その被告人個人を特定する情報が公表されることは無かったが、この社会問題の性質が大きく変わったと言っていいだろう。

 コービータイヤという、日本を代表するグローバル企業が粗悪な製品を世に送り出し、多くの国民が被害を被ったという『国民 vs. 企業』という構図から、特定の個人が何らかの理由で会社に損害を与えたという『企業 vs. 個人』の図式へと変化したのだ。味も素っ気も無い社会欄の記事から、素人でも判り易いスキャンダラスなネタへと。


 それは正に、軽率な情報バラエティーショーに打って付けだった。勿論、表面上は罪なき被害者たちの代弁者たらんとする偽りの仮面を付け ──実際はバカ騒ぎしたいだけの、血に飢えたハイエナ共の群れにくべる餌を求め── マスコミ各社は無責任な憶測を垂れ流し、コービータイヤに損害を与えた個人の特定に血道を上げ始めたことは言うまでも無いだろう。そしてその程度の情報は、いとも容易く掘り起こされてしまうものなのだ。

 事の真相を知らないコービータイヤの社員にしてみれば、会社に打撃を与えた裏切り者に関する情報など、秘匿するに値しない。むしろそいつを公の場に引きずり出して、社会的制裁を加えることに加担するのは正義の行使の範疇だし、愛社精神の裏返しでもあるのだ。

 告訴されている具体的な個人名までは判らなくとも、近ごろ会社を辞めた人間のリスト ──つまり、最近の社内人事広報── を横流しし、その社会正義を全うする手助けをするのに、何を躊躇う必要が有るだろう。ましてや、幾らかの謝礼を頂けるのであれば、喜んで不確かな情報を売る人間がいるのは当然だ。


 このような断片情報を寄せ集め、世間は大輔への包囲網を確実に狭めていった。そして茨城にある彼の自宅の玄関を、不躾なレポーターが乱暴にノックするのに、それ程の時間は要しなかったのだった。


 閑静な住宅街の一角にある、みすぼらしさを絵に描いたような低所得者向け住居。その忘れ去られたかのような佇まいは、レポーターの実況に色を添え、視聴者の興味を励起するのに十分な演出だ。正義の完遂を世界から委任されていると勘違いしているレポーターが、大輔の自宅をバックに現場中継をする。

 「ここ茨城県の某所にある、容疑者Iの自宅はひっそりと静まり返ったまま、その固く閉まった玄関を開ける様子は有りません。Iが犯した犯罪行為によって巻き起こった大騒動と、まるで対を成すかのように黙して静かな様子が、むしろ不気味とすら感じてしまうのは私だけでしょうか?

 世界に冠たる一流企業、コービータイヤの社員というイメージとは、あまりにもかけ離れたIの生活をご覧下さい。いったいIはここで何を考えて生きていたのでしょう? そして、いったい何がIを、あのような卑劣な行為へと駆り立てたのでしょうか?

 現場からは以上です。それではスタジオにお返しします」

 『山下さん! 山下さーん! スタジオの坂下ですけどぉ、そこはどういった感じの場所なんですかぁ? 何だか、奥の方に見える住宅とは、違う感じに見えるんですが?』

 「あっ、はい。ここはですね、明らかに周辺の住宅街とは一線を画す・・・ 何と言ったらいいんでしょうか・・・ あまり裕福な方々が住んでいるといった様子の住宅ではないですね」

 『いわゆる団地なんですか? 他の方も住んでらっしゃるんですよね?』

 「はい。他の方々も住んでいらっしゃいますが・・・ 我々が知っている団地という感じではなく、昔ながらの長屋のような構造でして・・・」

 『えぇ~っ。コービータイヤって、そんなに給料が安いの? そんな筈ないよねぇ。大企業の社員が・・・ あぁ、社員さんかな? なんでそんな所に住んでんだろ? なんかシックリ来ないよねぇ。

 山下さん、どうも有難うございましたぁ。気をつけて取材続けてくださーぃ』

 「はぁーぃ。よろしくどうぞーっ」



 こういった状況になることは目に見えていたが、大輔がそんな事態を甘んじて受け入れる筈が無い。出産を控えた彩香が、下衆な連中に煩わされることなど有ってはならないのだから。大輔は早々に彩香を安全な場所に避難させ、自分自身は横浜の実家へと引き上げるという選択をしたのだった。


 法律事務所からの通知を受けた大輔は直ぐさま、愛車のAE86に当面の着替えなどを詰め込み、大学を卒業してから十年ほどを過ごした茨城県西部に車を走らせた。それは彼が、最も信頼のおける友人宅に彩香を預けることにしたからだった。お腹の大きくなった妻を置いて行くことに罪悪感を感じなかったと言えば噓になるが、今、自分と一緒にいることの方が彼女には負担になるのは間違い無い。それに横浜の実家だって、いつまで安全かは判ったものではない。

 また、彩香が生まれ育った茨城県内であれば、少しは彼女の精神的負担が軽減されるかもしれない。そう考えてテストコース時代の同僚である、高山の家に彼女を預けることにしたのだった。


 高山の家は栃木県との県境にほど近い ──実際の生活のし易さを考えると、宇都宮に近い方が都合が良いので、テストドライバー仲間の多くが東北新幹線にアクセスの良い茨城県西部、ないしは栃木県東部に居を構えていた── 新興住宅街に有った。その備え付けの駐車場の隙間に無理やり押し込まれたAE86は、横浜へと向かう長旅を控え、英気を養うかのように静かに主人の帰りを待っている。熱くなったエンジンは「キン・・・ キン・・・」と微かな音を伝えつつ、徐々に冷め始めていた。


 コービータイヤの法務部が誰かを告訴したということは社内告知等でも知っていたし、ニュース等でも聞いていた。しかし、その対象が大輔であることを聞かされた高山は、憤懣やるかたない様子で怒りを露わにした。そして、大輔と共に戦うと主張して止まなかったのだが、それを何とか思いとどまらせることが出来たのは、図らずも彩香の大きくなったお腹の子の存在だった。

 高山にだって守らねばならない家族がいる。それを差し置いて身の振り方を決めることなど出来ない。彩香のお腹ですくすくと育つ赤ん坊は、高山に夫としての、親としての、そして家長としての自覚を呼び起こすに充分だったのだ。

 「それじゃ、彩香のことよろしく頼むよ。ごめんね、面倒なことに巻き込んじゃって」

 「本当にごめんなさい。突然押しかけてきたりして」

 恐縮する今居夫妻に、高山が返す。

 「全然構いませんよ。心配しないで下さい。彩香さんはしっかり守りますから。彩香さんも遠慮しないでノンビリして下さいね、つってもノンビリできるわけないか。それより今居さんは、これからどうするんですか?」

 「うん。学生時代の知り合いが法律事務所を開いてるんだ。そっちと相談しながら進めて行くことになるね」

 それを聞いた高山が身を乗り出す。

 「もし証拠とか必要だったら言って下さい。俺、会社からかっぱらって来ますから」

 しかし、隣で黙って聞いていた高山の妻、桃子が肘で突いて釘を刺す。

 「あんたは余計なことしないの」そう言ってから、今度は彩香に向き直る。「彩香さん、自分の家だと思って安心してね」

 「はい。有難うございます」


 今はまだ他人行儀だが、この二人がの仲になるのに、それ程の時間は必要としないだろう。ママとしては先輩の桃子が、彩香の世話を色々と焼いてくれている姿が目に浮かぶ。そう確信できたことで、大輔は少し安心したのだった。


 「そうだよ高山君。そんなことしちゃダメだからね。俺の同期の本山って奴は、例のゴムを再試験しただけで左遷されちゃったんだから。もう会社のことは、何一つ信頼しちゃダメだよ。もしかしたら俺の仲間を炙り出す為の罠を仕掛けかねないとすら、今は思ってるんだから」

 大輔の向かいの席に座る高山は、苦々しい表情で腕組みしながら言った。

 「くっそぉ、頭に来るなぁ・・・ 何とかならないかなぁ・・・ 俺たち茨城にいるから、どうしても受け身になっちゃうんですよね。神谷さんなら立川にいるし、向こうの内部情報とか貰えないですかね? あちこち顔も効くだろうし」

 「いやいや、神谷さんだって安全なわけじゃないから。逆にあの年齢で会社から目を付けられて、放り出されたりしたらって考えると、迂闊なことはお願いするべきじゃないよ」

 「確かにそぉっすねぇ。相談に乗って貰うくらいですかねぇ」

 「そうだよ」残念がる高山にもう一度、頭を下げる大輔。「とにかく高山君には、事態が落ち着くまで彩香のことをお願いします。この通り」

 「頭なんて下げないで下さいよ、今居さん。判ってます。彩香さんのことは任せて下さい。

ってか、今居さん。いつの間に結婚したんですか?」



 横浜に向けて発つ前に、高山宅で一泊させて貰うことにした大輔は、暫く逢うことも出来なくなる彩香と静かな夜を過ごしていた。ひょっとしたら、いや、まず間違い無く子供の出産に間に合わないだろう。法廷闘争など短期間に終わる筈はないのだから。それを見越した、高山の心遣いだった。

 「無理しないでね、大輔」

 並べて敷いた布団の中で彩香が言った。照明を落とした部屋でも、カーテンを透かして差し込む月明かりがボンヤリと部屋の内部を浮かび上がらせていた。仰向けで手を繋いでいた二人だったが、大輔は横を向いて反対側の手を彩香のお腹に優しく添えた。

 「うん、判ってる」

 「本当に判ってる?」

 「???」

 大輔がキョトンとした視線を送ると、首を回してジッとこちらを見詰める彩香の視線と交差した。そして彩香は静かに、それでも強い決意の籠った声で言うのだった。

 「大輔が守らなきゃいけないのは、この子なんだからね」

 そう言ってお腹に添えられた大輔の手に、自分の手を重ねる。


 その瞳に込められた言葉を、その手から伝わる意志を大輔は痛いほど感じた。彼女はこう言っているのだ。守らねばならないのは、自身の自尊心やテストドライバーとしてのプライドなどではない。自分の家族の前では、そんなものはただの張りぼての置物でしかないのだ。彼が守るべきものは自分と妻と、そしてもう直ぐ産まれてくる子供の三人によって形作られる生活そのものだと。

 理不尽なこと、不条理なことを飲み下さねばならぬのなら、黙って飲み下せ。相手を打ち負かすことではなく、自分が生き残ることを考えろ。必要とあれば、戦わずに逃げることを選択する。それを出来る人間こそが、本当の意味で強いのだから。


 大輔は彩香と見つめ合ったまま頷いた。そしてもう一度言った。

 「うん。判ってるよ」

 その表情を見た彩香は、安心するように天井を向くと静かに目を閉じた。

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