7
後手後手に回る検察を尻目に見ながら、堀田たちの触手は社外にも及んでいた。その筆頭は、問題のタイヤの最終的な実車評価を担当したテストドライバー、つまり今居大輔だ。
茨城の連中は ──つまり実車試験部の部長や課長は── 立川の言いなりだ。彼らは社内の有形無形の圧力には容易に屈する連中なので、何の心配も無いだろう。自分たちを「製品の良し悪しを最終的に判断する関所である」と自負している割に、本社や立川など会社の中枢から遠隔に有るという理由から、地方事業所根性が染みついているのだ。
しかし問題となるのは ──なり得るのは── この件に気付いたが為に退社にまで追い込まれた今居大輔である。
彼は理不尽な人事ローテーションが元で職を辞したのだから、コービータイヤに対して好意的であろう筈が無い。今にして思えば、彼を退社に追いやったのは失策でしかなく、むしろ懐柔して取り込んでしまうべきだったのだ。
堀田は彼を退職に追い込むという選択をした、大輔のかつての上司である川渡を厳しく叱責した。後先考えずに目先の保身だけを考えて、面倒な奴を追い払うだけの無能な奴がいると、組織全体に致命的な傷を負わしかねない。そういうのはマネージメントとは呼べない。
川渡だけは、会社の中枢に残すわけにはいかない。そう考えながら堀田は、会社の自身の机に備え付けられている受話器を取り上げ、外線電話を掛けていた。
『もしもし。夜分、失礼いたします。今居大輔さんの携帯でよろしかったでしょうか?』
その電話の主の話は、丁寧な言葉から始まった。
「はい、今居です」
その声を聴いた瞬間、何処かで聞いたことが有る声だと大輔は思った。確かに聞き覚えは有るのだが、それが誰なのかまでは判らない。
『私、コービータイヤの堀田と申します』
そこまで聞いて、やっと大輔の頭の中で声と映像が結びつく。会話したことは数回有るか無いかだが、リモート会議では何度も同席している。
「あ、あぁ、堀田さんですか? 材料研究本部長の? ご無沙汰しております、今居です」
二人の間には、既に会社内における上下関係は無い。従って、大輔が
『いや、今は技術統括部門長ですけどね。はっはっは』
「あぁ、それはおめでとうございます」何と返したらいいのか判らず、大輔はそう応えておいた。「大変ですね、こんな時間までお仕事ですか?」
彩香との濃密な時間を邪魔されたことを思い出し、彼はチクリと言ってやったつもりだったが、昇進の話題で浮かれてしまったのか、堀田には響かなかったようだ。
彩香と言えば彼に背中を向けたまま、たいそうご立腹の様子である。後で良く謝っておかねばと、大輔は考えるのだった。
『まぁ、統括部門長ともなると、色々あるんですよ。色々とね』
「でしょうね。お察しいたします」
そう言う大輔の方にも、堀田の得意気な態度が響いていないので、お互い様である。
(ということは、野坂さんが経営層に昇進したということか?)
そう思った大輔だったが、そんなことはもうどうでも良いことだということを思い出し、言葉を繋いだ。
「あのぅ、どういったご用件でしょうか?」
そもそも、堀田の所の新規材料が元で、自分は会社を追われたのだ。もしかしたら堀田も、その件に深く関与していた可能性だってある。それなのに、いまだに「堀田さん」とか「野坂さん」といった敬称でしか彼らを捉えられない自分に、大輔は呆れる思いだった。
あんな仕打ちをした会社側の人間に「○○さん」ってことはないだろう。大輔よ、お前はどこまでお人よしなのだ?
だがその思いは、隣で聞き耳を立てている彩香も同じだった。彼女は毛布を引っ被って背中を向け、いかにもへそを曲げたような素振りだが、その実、大輔がスマホ越しに交わしている会話に耳をそばだてていたのだった。
私の大切な人をないがしろにしたコービータイヤが、今更、何の用だと言うのだ? そんな腹立たし気な思いで、事の成り行きを背中で見守る彩香であったが、逆説的に言えば、会社が大輔を追い出してくれたからこそ二人は巡り会えたのだ。今の状況は、コービーのお陰とさえ言える。
収まりの悪い感情を抱え込んだまま、彼女は黙って指の爪を噛んだ。
『いやぁ、最近のニュースで取り上げられている例の件ですけどね。勿論、今居さんもご存知ですよね?』
「??? 例の件? いえ、今は車であちこち走り回ってるんで、あんまりテレビも新聞も見てないんですよ。何の件でしょうか?」
事実、大輔は最近巷を賑わしている問題に関して、何も承知してはいなかった。そんなことよりも、彩香と始めた新生活の基盤を確かなものにするという、差し迫った課題に向き合うことに全ての時間を振り向けていたのだから。
日々、荷物を受け取り送り先へと届ける。そうやって日本中を駆け回っている。サラリーマンの頃のように、ノンビリと与えられた仕事をしていても、安定した収入が約束されているわけではないのだ。
しかし大輔の反応を見た堀田は、別の捉え方をしたのだった。今、日本中が大騒ぎを始めているあの件を、知らないなんてことが有るはずが無いじゃないか。コービータイヤは日本を代表するグローバル企業の一つなんだぞ。白々しいにも程が有る。
『はっはっは。これは参りましたね。(そうか。とぼけた風を装って、値を釣り上げるつもりだな。統括部門長になった自分には、その程度の決裁権は有るのだぞ。バカにして貰っちゃ困る)
まぁ、そう言わず聞いて下さい。例の件に関してですが、今居さんは何も知らないというスタンスを取って頂きたいと考えてるんですよ。(会社を辞めて金銭面では苦しいはずだ。そうだろ、今居?)
あっ、勿論タダとは言いませんよ。それなりの謝礼をお支払いする用意は出来ておりますので。わっはっはっは。(こんな美味しい話を、断るほどの馬鹿ではないだろ?)
決して悪い話ではないと思うんですが、如何でしょうか?(さっさと「うん」と言ってしまえ、今居。喉から手が出るくらい欲しいくせに)』
こういった金の絡む話になった時、堀田は自分が出世街道をひた走っていることを実感できて、輪をかけて上機嫌になるのだ。ライバルだった横溝が見ることの出来ない世界を、自分は今見ているのだ。奴はもう、俺のライバルですらない。勝者は俺だ。
しかし大輔には、その上機嫌が何処からやって来るものか判らない。
「いや、ですから何の件か判らないんですよ。僕が何を知ってるんですか?」
『だからぁ・・・(コイツ、本当に頭が悪いのか? それとも、途轍もなく欲の面が張っているのか?)』
話の通じない大輔に苛立ちを覚えた堀田であったが、その怒りに似た感情を無理やり飲み下す。ここで話を
『Eagle Pilot 2に関して、何も言わないと約束してくれるだけでいいんですよ。それだけです。それだけで1000・・・ いや、1500出しましょう。どうです? 1500と言えば大金ですよ。まだ不足ですか?』
(Eagle Pilot 2だって!?)
*
ようやく大輔は、国道4号線で見かけた事故のことを思い出した。
「ま、まさか本当に、Eagle Pilot 2が原因で事故が起こったんですかっ!?」
『えっ? 本当に知らない?』
「知りません。危険なトレッドゴムを搭載したということは聞いていますが、それが原因だって話までは・・・」
『ですから、それが原因だなんて仰らないで頂きたいんですよ。判りますよね? あのトレッドゴムに問題なんて無かったんです』
やっと話が見えた。あの時に見たような事故が、他にも起きているに違いない。やはりあれはEagle Pilot 2が起因だったのだ。自分と高山がテストコースで確認した、危険なまでに急激なグリップの消失。あれが一般市場でも起こっているのだ。
大輔は、以前に本山と交わした言葉を思い出していた。コービータイヤは自分を退職に追いやっただけでは飽き足らず、本山までも関連会社に左遷したのだ。あのタイヤの問題を隠蔽する為に。その危険性を問う声を黙殺する為に。
しかし、それを隠し切れなくなったに違いない。だからこそ今は社外にいて、その素性を知っている自分に接触してきたのだ。
「口止め料として1500万ですか?」
大輔は辛辣なトーンを隠そうともせずに問い質す。しかしそれを、堀田の取って付けたような、うすら寒い笑い声が覆い隠す。
『はっはっは。そんな言い方はやめて下さい。不本意ながら会社を辞された今居さんに、新たな人生を歩んでもらうための
「お断りします」
『えっ!?』
「だから、お断りします。人を虫けらのように扱っておきながら、都合が悪くなったら擦り寄って来るって、いったいどういう神経してるんですか?」
『だ、だからこそお金を・・・』
「金の問題じゃありません。そんな金、受け取るつもりも有りません。この件に関し堀田さんと・・・ コービータイヤとお話しすることは何も有りませんので。それでは失礼します」
『あ、あの、ちょっ・・・』
力任せにスマホの通話終了ボタンを押した大輔が一つ大きな息を吐くと、隣で聞いていた彩香が、自分のスマホの画面を黙って彼に向けた。するとそこには、コービータイヤの新製品が原因で、悲惨な交通事故が続発している旨のWeb記事が表示されていた。
それを手に取り、ザックリと斜め読みした大輔は「やっぱり、そうだったんだ」と漏らしながらスマホを返す。
「これって、大輔が言ってたヤバいタイヤなの?」
彩香はそれを受け取りながら聞いた。
「あぁ、そうだね。こんな大ごとになってるなんて知らなかったよ」
「で? コービーの人は何だって? 1500万やるから、知らなかったことにしてくれって?」
「まぁ、そういう事だろうね」
何かを考え込む風に視線を落とす大輔に、彩香が言った。
「貰っちゃいなよ」
「えっ?」
驚いた大輔が視線を上げる。
「黙ってるだけでそんな大金貰えるんだったら、それでいいじゃん」
「そ、そんなこと・・・」
「大輔の正義が許さない? テストドライバーのプライド?」
「・・・・・・」
改めて問い質されると、自分の心の中にあるモヤモヤの正体が判らない。いったい自分は、何に対して憤りを感じているんだろう?
自分や本山への
言葉を失い、うつろな視線を上げた大輔を跳ね返すような、力強い目力で彩香が見つめ返す。
「私、赤ちゃんができたみたいなの。だから大輔には、その1500万、受け取って欲しい」
「彩香・・・」
「でもきっと貰わないんだろうな、大輔って。馬鹿だから。優しいくせに、頑固で不器用で馬鹿だから・・・」
顔を歪めて視線を逸らす彩香の肩を、大輔が優しく抱き寄せた。丁度、子供が泣出す直前のように、彩香の瞳には涙が溢れている。
「ごめんね。俺って馬鹿だから。要領良くなんて出来ないよ」
彩香は大輔の肩に顔を埋め、「うんうん」とも「いやいや」とも取れる、曖昧な頷きを繰り返す。そして言う。
「でも・・・ もし大輔がそのお金受け取ってたら、私、絶対に軽蔑してたよ」
その言葉を聞いて。大輔はガバリと彩香の身体を引き離した。
「何だよそれ? じゃぁ、俺にどうしろって言うんだよ?」
「あははは」
泣き笑いの彩香を大輔は再び抱きしめた。そしてこう言った。
「結婚しよう。これからは、子育てしながらのトラック配送だ」
今度こそ本当に、彩香は泣き出した。
*
それからの日々は目まぐるしく過ぎていった。
長野の山間部に仕事で向かった際、街の外れにある教会にトラックで乗り付け、神父に頼み込んで二人だけの結婚式を挙げた。突然、大型車で乗り込んできたカップルが、いきなり「結婚したい」と言い出した時の神父の表情ときたら、文字通り「鳩が豆鉄砲を食らった」ような顔をしていたものだ。
「い、いや。信者でない方の結婚式を執り行うには、何日かかけて説教を聞いて頂く必要が有りまして・・・」
「そこを何とかお願いします。神父様」
「いや、しかし・・・」
「神父様」
こういった時の押しの強さは彩香には敵わない。大輔はむしろ、神父に対する同情の念を抱きながら、その押し問答を後ろから眺めたのだった。
その後、配送先の富山の市役所で入手した婚姻届けに記入だけ済ませ、茨城に戻ったタイミングで地元市役所に提出した。しかし書類の書式が違うと突き返されてしまう。
そんなお役所仕事に対する憤りは横に置いておいて、仕方なくその場でもう一枚、アタフタと婚姻届けを書き上げる大輔。その姿を横目に見ながら、彩香はロビーの長椅子に座り、余裕の表情でベビー雑誌などを読みふける。
「ねぇ、大輔。このベビー服、どっちがいいかな? やっぱりブルーかな? グリーンも捨て難いんだよなぁ」
「えっ、何? ん? あ、あぁ、いんじゃない、ピンクで」
「・・・。もう! 全然聞いてないっ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。今、婚姻届け記入してるんだから。後で聞くって。それより車から印鑑持ってきてよ」
「もういいっ! 勝手にAMAZONでポチるからっ! プイッ!」
そんなバタバタで、二人の新婚生活は始まった。勿論、その新生活の拠点は、茨城と言うよりもむしろ、日本中を旅するトラックの中と言うべきだろう。
彩香のお腹は徐々に目立ち始めていたが、子供が生まれれば色々と金がかかる。二人はこれまで以上に、身を粉にして働いた。と言っても、身重の彩香に長時間の運転をさせるわけにはいかない。事ある度に大輔は、自分が運転すると申し出るのだが、強気の彩香は「大丈夫、大丈夫」と言って聞く耳を持たないのだ。
事実、彼一人では配送できる範囲も限られてしまい、その分、収入も減ってしまう。渋々ながら大輔は妻の ──そう、二人はもう夫婦なのだ── 言い分を受け入れるのだった。
その代わり、旅先であっても産科医院を見つければ、定期的に飛び込みで診察を受ける。それが「自分も運転する」と言って譲らない彩香に対して、大輔が持ち出した交換条件なのであった。
そういった時は、主要国道沿いに点在するトラックインでトレーラーを切り離し、ヘッドだけで病院に向かう。しかし、ヘッドだけとは言えその大きさは異様だ。産科を訪れていた妊婦たちが、いきなり駐車場に乗り入れて来たトラクターヘッドに目を丸くするのはいつもの事である。
そうしているうちに彩香の妊娠は22週目に入った。着る服は既にマタニティウェアなっている。もう押しも押されぬ妊婦さんという貫禄で、彼女のお腹の中では、時折、元気な赤ちゃんが手足をばたつかせる程だ。もうじき未発達な肺を使って、羊水を吸ったり吐いたりする呼吸の練習が始まる筈である。
そうなると、もう彼女をトラックに乗せて走り回るべきではないだろう。大輔の忠告も聞かず仕事を続けていた彩香も、さすがに今度ばかりはしおらしく夫の言葉を受け入れたのだった。
「本当に一人で大丈夫?」
茨城の自宅で、なおもしつこく夫の心配をする彩香に大輔は言った。心配なのはこっちの方だと言いたいところを、なんとか言葉を飲み込んで。
「大丈夫だよ、安心して。無理な配送は受けないようにするから」
事実、大輔は暫くの間、いざという時に直ぐに帰宅できる近場の配送に限って受けることにしていた。そしていよいよ臨月に近付いたならば仕事を休み、彩香の傍に付き添うつもりだ。
その時、大輔の胸ポケットの中でスマホが着信メロディを奏でた。
「来週には横浜から母さんが来てくれるから。それまでは独りだけど、出歩いたりしないで大人しくしてるんだぞ。判った?」
そう言いながら、スマホを取り出す大輔。
「はぁ~い。でもお義母さんがこっちにいる間、向こうでお義父さんは独りなんでしょ? 大丈夫なのかな? お義父さんも一緒に来ればいいのに」
「バ~カ。こんな狭い家に大人三人はキツイだろ。時々、俺も帰って来るんだし、そしたら四人だぞ。どやって寝起きするんだ?」
そして応答ボタンを押して耳に当てる。
「昔は、私もお父さんとお母さんと三人でここに住んでたのにぃ」
大輔はスマホを耳に当てたまま、綾香に向かって「しぃーーっ」っと人差し指を立てながら電話を受けた。
「あっ、もしもし。お待たせしました、今居です」
『私、東京のマッキニー法律事務所の高巣と申します。今居大輔様でいらっしゃいますでしょうか?』
「は、はい・・・?」
『この度、コービータイヤ株式会社様のご依頼により、今居様を背任容疑で告訴致しましたことをご連絡申し上げます』
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