AE86を駆る大輔の耳に、遠くからのクラクションが聞こえた。大型車の音だ。それは自分に向けられたものではないと思えたが、一応、ミラーなどを確認する。だが、大輔の周辺には、それらしい車など居ないではないか。大型車どころか、普通乗用車すら彼の前後には走っていなかった。

 不思議に思った大輔がスピードを落とし、訝し気に辺りを見回すと、国道の左手に広がる田んぼの向こう側に停車しているトラックを認めた。ピンクの大型トレーラーだ。しかも誰かが、窓から身体を乗り出して手を振っている。

 大輔はハザードを点灯させ、路肩に停車した。そしてドアを開け、車外に出てそちらの方向を見渡すと、見覚えの有る人影がトレーラーの窓から手を振っていた。この距離から見ても、その人が笑っているのが判った。大輔も右手を掲げ、笑顔を返した。



 トレーラー脇の開いているスペースにAE86を停めた大輔は、「こんにちは」と声を掛けながら車を降りる。その時には既にトラックから降りていた彩香も、「昨日はありがとうございました」と言いながら頭を下げた。その時の彩香が着る厚手のパーカーのポケットの中には、彼女の丸めた下着が放り込んであることは大輔は知らない。

 「雪、止みましたね」

 そう大輔が言うと、彩香は国道の方を見渡しながら返す。

 「もう道路は大丈夫でしたか? 私、雪道には慣れてなくって・・・」

 「あぁ、国道はもう殆ど大丈夫でしたよ。でも細い道に入ると所々融け残ってて、普段通りの感じで乗り上げちゃったりすると、まだちょっと危ないかな」つられて大輔も国道の方に視線を巡らせた。

 「やっぱり? そう思って私、今日はお休み頂いちゃった」

 恥ずかしそうにペロリと舌を出す彼女にドキリとしてしまい、大輔はぎこちなく笑顔を返した。


 ぎこちない? 当たり前じゃないか。親しくも無い男女が、妙な具合に再会して話し込んでいるのだ。こんな時にペラペラと喋れる奴など、ロクなもんじゃないに違いない。

 大輔は話題を変えるように話を続けた。


 「でも良く判りましたね、車見ただけで。俺、気付かずに通り過ぎるところでしたよ。結構、車には詳しいタイプなんですか?」

 「ううん、全然。まぁ、こういう仕事してるから、普通の女の子よりは詳しいかもしれないけど。この車・・・」そう言って彩香は、大輔の車を見た。「レビンとかトレノってやつですよね?」

 「トレノですね。正式にはカローラスプリンター、トレノAE86型。通称ハチロクって呼ばれてるヤツです」

 「あぁ、やっぱり。確か漫画で有名なのが有りますよね?」

 「頭文字イニシャルD」

 「そう! それ! あの車だってのは判ったんで、ひょっとしたらそうかなって思って・・・ クラクション鳴らしちゃった」


 テヘヘと笑う彼女に、またしても大輔の心臓はドキンと波打った。こういうのを「キュンです」と表現するのだろうかと、どうでもいい疑問が彼の頭に渦巻く。

 しかし、そんな大輔以上に、実は彩香の胸はキュンキュンしていたのだった。車やタイヤにはやたら詳しく、大型車の運転にも長けた謎の男。彼女はそこに、亡くなった父の面影を無意識のうちに投影しているのかもしれない。


 「大型トレーラーを運転してる女性って、珍しいですよね? 俺あの時、てっきりオッサンが出て来るもんだと思ってて、チョッとビックリしちゃいました」

 「あははは、よく言われます。でも運転、お上手ですよね? やっぱり同業者ですか?」

 「い、いや・・・ そうじゃないんですけどね」

 「えっ? ドライバーじゃないのに、大型とか牽引の免許持ってるんですか? あっ、判った! ひょっとして自衛隊の人? 自衛隊って入ると直ぐ、全部の免許取らされるって言うじゃないですか? それだ」

 「いや、そうでもないんですが・・・」

 「???」



 そんな取り留めも無い話をしながら、時が過ぎる。日差しには太陽の温かみが感じられるものの、まだこの季節、吹く風は冷たい。だが二人は寒さなど平気だった。僅かに潮の香りを含んだ意地悪な風が頬を撫で、その熱を奪ってゆくのも気にならなかった。

 何故ならば大輔はいつしか、その場を立ち去り難い想いを抱くようになっていたからだ。そして同時に彩香の方も、彼ともっと話していたいと思っていたからだった。

 お互いがそんな風に、好感を持って思い合っていることを何となく感じてはいるものの、やはりそれを言葉に出して言うことは、どちらにも出来なかった。それこそが日本人の「奥ゆかしさ」という、なんとも面倒匂い美徳なのだから仕方がない。


 その時、荷室に『臼井運輸』とペイントが施された一台の大型トラックが、「ブゥゥゥーーーッ!」とクラクションを鳴らしながら国道を南に向かって通り過ぎていった。そのトラックに向けて彩香は手を振り返す。

 「???」

 それを見た大輔が不思議そうな顔をするのを受け、彩香は笑いながら説明をする。

 「あぁ、今のは私に仕事を回してくれる、運送会社のトラックなんです。そこのドライバーさん達とは顔見知りなんで」

 「そうだったんですね?」


 トラックの騒々しいクラクション音が消えると、また再び静寂が訪れた。何処かでヒバリか何かが鳴いている声が聴こえる。まだまだ寒いが、確実に春が近づきつつあることを感じさせる、長閑な午後だ。昨日までの寒々しい天候が、まるで嘘のように穏やかだった。

 そして遂に、意気地なしの大輔が切り出した。

 「そ、それじゃぁ、俺行きますね」

 しかし、そう言った彼がAE86のドアに向きかけた時、彩香が思い切って勝負に出た。こういった時のクソ度胸は、やはり女性の方が持っているものなのかもしれない。


 「あ、あの・・・」

 「?」

 「もう直ぐ、お昼ですね」

 「はい・・・」

 「もし良かったら・・・ もし良かったら、うちで食べていって下さい」

 「えっ?」


 (女性にそこまで言わせるなんて、なってないぞ大輔! それでも男かっ!? むしろこちらから食事に誘うくらいの甲斐性が無くてどうするっ! しっかりしろ馬鹿者め!)


 彼は自分を叱責した。しかし、そんな大輔の想いに気付くことも無く、彩香は頬を紅潮させつつ、言い訳がましく付け加える。

 「おれ・・・ お礼です! 昨日の! 大したおもてなしは出来ませんが、もしよろしかったら・・・」

 そう言って伺うような視線を投げかける彼女に、大輔は少し大袈裟に返す。先ほどまでの自身の不甲斐無さを挽回するチャンス到来だ。男女の成り行きに、少々の演出は許されるべきなのだから。

 「有難うございますっ! 実はすっごい腹が減ってたんですよ!」

 彩香の表情は、はち切れそうな笑顔で満たされた。



 (うぉーーーーっ! しまったぁーーーっ! 冷蔵庫の中が空っぽじゃないかっ!)


 扉を開けた彩香が、やたらとスペースが余っている冷蔵庫の中身を見て固まった。調子こいて彼を招き入れてはみたものの、「おもてなし」どころの騒ぎではない。これでは自分の昼ご飯すら危ういではないか。

 彼はと言えば、狭いリビングの真ん中に据えた小さめの炬燵に足を入れ、物珍しそうに部屋の中を見回している。なんか、テレビドラマとかで有りがちなシチュエーションだぞ。


 (ヤバい、ヤバい! どう考えても、「お待ちどう様でした~」とか言いながら、私が美味しい料理を持って来る状況だろ。しょうがない。シャウエッセンでも炒めて、ご飯と一緒に出すか? いやいや、そんなことが出来るか、馬鹿っ!? どうする彩香? さぁ、どうする!?)


 様子のおかしい彼女を見た大輔が、目をパチクリさせながら聞く。

 「あのぉ~・・・ どうかしましたか?」

 「あ、あの・・・ えっと・・・」耳まで真っ赤にしながら彩香が言う。「もし良かったら何処かに・・・ 食べに出ません?」

 一瞬の沈黙の後に大輔が大爆笑した。

 「わーーーっはっは! いいですよ、行きましょう。何処かこの辺の、美味しい店に連れて行って下さい。わっはっはっは!」


 顔から火の出る思いとはこのことだ。彩香は自分の人生で、これほどまでに恥ずかしい思いをしたことなど、一度として無いということに確信を持った。後先考えずに、本能的に行動するからこんなことになるのだ。


 しかし、ひとしきり笑った後の大輔は、別に気にしている様子も見せずにこう言ったのだった。

 「ごめんなさい、笑ったりして。わはははは」

 そう言いながら、まだ笑っている。

 「それより、まず自己紹介しますね。俺、大輔です。今居大輔といいます。よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げる大輔の笑顔に彩香は恥ずかしさも忘れ、吸い込まれるように応えていた。

 「私、坪井彩香です」



 港の近く。観光客など来る筈もない薄汚れた食堂に隣接する駐車場に、AE86が停まっていた。まだお昼時には少し早い時間帯だ。大輔と彩香以外に客は居ない。

 その店は海岸通りからは幾分、山側に入り込んだ森の中にあり、漁港に面したな風情の店ではない。メニューにもこれといった気の利いたものは無く、漁師町で昔から食べられてきたような焼き魚や煮魚が並ぶ。グルメ雑誌に載るような店とは言えないが、地元の人が通う地魚料理店である。


 そんな店のテーブルに向かい合わせで座った二人は、ペチャクチャとお喋りしながら箸を進めていた。彩香の部屋で巻き起こった大爆笑が、二人の間に立ちはだかっていた「他人行儀」な装いの壁を突き崩し、お互いの距離を一気に縮めたのだ。

 そりゃそうだろう。彩香にしてみれば、あんなに恥ずかしい思いをした後に、何を格好を付ける必要が有ると言うのだ。大輔にとっても、そんなお茶目な彼女が可愛らしくて仕方がなかった。

 「テストドライバー?」

 「うん。俺は小型車が専門だけどね」

 「へぇ~、そんな仕事、本当に有るんだ?」

 打ち解けた二人を傍から見れば、恋人同士、もしくは付き合いの長い友達同士のように見えるに違いない。

 「ってか、テストドライバーって何やる人なの? 車で走って、何してんの? 同じ所、グルグル回ってるだけなんでしょ?」

 焼きサバ定食の大根おろしに、醤油を垂らしながら彩香が聞く。図らずも、二人が同い年だということが判明して以降、完全なだ。

 「そんな言い方、無いだろ。テストドライバーにはテストドライバーなりの、色んな事情が有るんだから。には判らないよ」

 大輔は金目の煮付けを箸で解しながら不満げだ。

 「色んな事情って?」

 「だから、色々だよ。色々有るの! 外からじゃ判らない色々が!」

 「あはははは、何か怪しいぞ!」


 勿論、彩香がテストドライバーという職業を軽く見ているわけではない。だって昨夜、その圧倒的の技量の差異を、まざまざと見せつけられたばかりなのだから。それに大輔にだって、綾香が本気でそう言っているわけではないことは判っている。

 ただ二人の関係をスムースにするための、言ってみれば潤滑剤のような意味合いで、彩香はテストドライバーという職業をこき下ろし、大輔がそれに抗うといったお決まりのパターンチックなシーンを演じているのだ。

 お互いの役割が決まってくれば、そこには二人だけの呼吸のようなものが生まれ、更に息の合った関係を自然と構築できるだろう。それが判っているからこそ、ボケとツッコミのような会話を繰り返し、二人の関わり方の落ち着く先を探っている段階なのだ。


 「それじゃぁさ。コービータイヤの社員のが、こんな平日の昼間っからブラブラしているのは何故なのかな? それもテストドライバーの色々ってやつ?」

 彩香は疑うような、それでいて興味津々といった様子で聞く。彼女の前の化粧皿の上では、頭と骨だけになったサバが奇麗に横たわっていて、既に食後のお茶の段階だ。

 それに対し、魚を食べるのが下手クソな大輔は、いまだ金目の硬い骨に四苦八苦していて、その食い散らかし様と言ったら、殆ど惨殺死体のようではないか。甘辛く煮付けた魚ほど、骨と身が離れやすい料理は無いにもかかわらずだ。


 その無残な姿の魚と格闘しながらも、大輔は「当然だろう」と思った。


 そう。いくら好意を抱いているとはいえ、得体の知れない男との距離を縮めるには、それなりの情報が必要だ。相手の素性を知った上でなければ、踏み込む深度を決めかねるといった心理は理解できる。

 そもそも今の状況を冷静に見てみれば、自宅に招き入れるなど、彩香の方が積極的に動いてくれているのは明白だ。そう考えると、そろそろ自分の方からも手の内を晒すような、大きな一手を打つのが礼儀だろうと大輔は考えた。


 大輔は金目の骨にこびり付く身を回収することを諦めて、静かに箸を置いた。そして彩香が備え付けの急須から注ぎ足してくれた、熱いお茶の入った湯飲みを手に取り一口啜る。次いで、昨年から今に至る流れを、掻い摘んで説明したのだった。

 ただし、コービータイヤに対する不平不満や、恨みつらみの色が混じらないように注意しながら。だってそんなの、新橋のサラリーマンが酒を飲みながら、同僚相手に愚痴っているのと変わらないじゃないか。

 必要以上に自分を被害者化することで得られるものなど、退屈さを作り笑いで包んだ偽りの同情と、自己顕示欲がみっともなく変質した、自己憐憫の充足しかない。


 手にした湯飲みを見つめ続ける大輔を前に、彩香は静かに自分の湯飲みを置いた。

 「行く当てが無いなら、ここに居なよ」

 「!」

 大輔は思わず目を上げ、彩香の顔を見た。

 「ほら。私、トラックの運ちゃんやってるでしょ? もし、それを手伝ってくれたら、もっと長距離の配送も受けられて、仕事も増えるんだ。収入だって増えるし。私一人だと、どうしても体力的に限界が有って」

 「・・・・・・」

 「あっ、勿論、住む所が決まるまでは、私のトラックで寝泊まりしても構わないから。好きなだけ使って」


 彩香はそう言ったが、そうはならないことはお互いに判っていた。大輔だけがトラックで寝泊まりするなどという無理な関係は、時間と共になし崩しになってゆくに決まっているのだから。

 彼女は大輔を、しっかりと捉まえるという決断を下したのだ。大輔がそれに値する男だと判断したのだ。そして、あの小さな家で一緒に住もうと提案しているのだ。


 そうなることをお互いに望んでいるという確信を持ち、彩香は最後の手札を切ったのだ。


 大輔はテーブルの上に置かれた彩香の手に、自分の手を重ねた。予想していたよりも、温かくて柔らかいと思った。そしてこう言った。

 「ありがとう・・・ 彩香ちゃん」

 それが初めて二人の肌と肌が触れ合った瞬間であることをお互いが意識し合い、気恥ずかしくなるのだった。

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