軽く色を抜いたミディアムボブを無造作にポニーテールで纏めた女が、ウィンドウに片肘を掛けながら身を乗り出した。その顔を下から見上げながら、自分の勝手な先入観が脆くも崩れ去る音を聞いた大輔は、その目をパチクリとさせるのだった。

 そりゃそうだ。大型トレーラーを運転しているからと言って、それがむさ苦しいオヤジとは限らないではないか。そんな大輔の思いも知らず ──いや、ひょっとしたら、そういった目で見られることには慣れっこなだけかもしれないが── 彼女は表情豊かに困った風に言葉を繋いだ。

 「ドライバーさんですか? もし良かったら助けて頂けます?」

 その時、少し大きめの雪粒が大輔の右の睫毛に落ちて来て、彼の視界を遮った。それを慌てて振り払う姿を見た彼女は、口許に手を持っていきながら叫ぶ。

 「あっ! ごめんなさいっ、気付かなくて! 取りあえず乗って下さい! そんな所に立ってたら濡れちゃいますよねっ!」

 そう言ってドアを半開きにすると、自分はコンソールを越えて助手席側へと移動を始めた。大輔はドアを開き、ステップに足を踏ん張って「うんっ」と身体を持ち上げる。

 すると、四つん這い状態で助手席に移動中の彼女の尻が目の前に迫り、なんとも妙な位置関係になってしまったではないか。これも先入観でしかないわけだが、デニム生地でタイトな、丈の短いヒップボーンスカートに包まれた女の尻を、この大型トラックの中で発見することになるとは予想だにしていなかったのだ。

 目のやり場に困った大輔は、ドギマギとしながらぎこちなく運転席に付き、ドアを閉めた。その時には、既に助手席のシートに収まっていた彼女が、期待を込めた目で大輔を見ていた。


 彼女の言う「ドライバーさんですか?」は「トラックの運ちゃんですか?」という意味なのは判っているが、ここで面倒匂い説明をするのもどうかと思う。そもそもテストドライバーなどというレアな職業は、普通の人には馴染みが無いはずだし、大型車は大輔の専門ではない。

 更に話をややこしくしているのは、彼が既にコービータイヤを退職した身だということだ。何をどう話したところで、何処かに嘘が混じるか、或いは長々と説明しなければならない。そう考えた大輔は彼女の質問には答えず、雪道での駐車の際、特にセミトレ車両が考慮すべき点に関し、手短なレクチャーを施すという選択をしたのだった。


 そして大輔はギアをRに入れ、細心の注意を払ってクラッチを繋ぎ始めた。じっくり見なければ気付かない程とは言え、ここは登りの斜面である。そこを前進で切り抜けようとするのは得策とは言えない。それにこういった場合、どうしてもアクセルが煽り気味になってしまうのが人情ではあるのだが、ここでケアすべきなのはアクセル操作ではなく、むしろクラッチ操作の方なのだ。

 大輔は車輪が空転し出す直前のあらゆる兆候を見落とさないよう、全神経をタイヤと路面の間に発生しているであろうトラクションに集中させた。そして回転トルクを微妙にコントロールしながら、徐々にクラッチを繋ぐ。すると車体は、ほんの小さなバンプを乗り越えるような感触を伝え、にっちもさっちもいかなくなっていた凹部をバックで乗り越えたことを教えた。

 ここまで来てしまえば、もう大丈夫だ。大輔はいったん停車し、ギアを一速に入れ替えると、今度はジリジリと前進させ、問題無く発進できることを彼女の前で証明してみせる。そして先ほどの凹部を難なく乗り越え、更に数メートルほど進んだ辺りでもう一度停車し、サイドブレーキを引いた。


 右を見ると、クリクリと良く動く目を輝かせている彼女と目が合った。

 タイヤや路面に関する専門的な知識。それに無駄の無い車両操作で、いとも簡単に ──それは簡単に見えるだけで、実際は非常に高度なスキルであることは彼女も気付いている── 苦境を克服してしまう運転技量。この男はただ者ではない。この時の彼女は、そんな想いで大輔を見ていたのだった。

 その尊敬とも驚愕ともとれる眼差しで見詰め続ける視線をまともに受けて、大輔は面映ゆい想いで視線を逸らした。そして言う。

 「それじゃぁ、気をつけて下さいね。暫く雪が続くみたいですから」

 そしてドアのロックに手を掛けて開けようとした時、彼女が言った。

 「有難うございました。何とお礼を言ったらいいか・・・」

 「いやいや、気にしないで下さい。それじゃ」

 そう言ってドアを開け、ステップに積もった雪に足を滑らせないように気を付けながら地面に降り立つ。そしてドアを閉めようとした時、彼女が助手席からもう一度言った。

 「有難うございました!」

 それを聞いて大輔はニコリと微笑んだ。そしてそれが、彼女に見せた最初の笑顔である事を、その時になって初めて気付いたのだった。意外な思いが先に立ち、愛想笑いをすることすら忘れていたようだ。随分と不愛想な男だと思われたに違いない。

 大輔はもう一度、今度は明確な笑顔を作ってからドアを閉めた。



 降り続く雪を避けるように襟を立て、トラックのヘッドライトが投影する光の中を男が横切って行った。彼は滑って転ばないように、小刻みな足の運びで駐車場の端の86レビン ──いや、あれはトレノだったっけな?── に駆け寄ると、サッとドアを開けてその中に潜り込んで見えなくなった。

 その後ろ姿を見送った彩香は、また四つん這いになって運転席に戻る。その際、自分のあられもない格好に思いが至り、ひょっとしたら彼に無様な尻を思いっ切り向けていたのではなかったかと、遅ればせながらの羞恥心を抱いたのだった。


 シートベルトを締め、彼から教わった通り、クラッチの繋ぎ方に注意しながらトラックを発車させる。今度は大丈夫だ。動き出したトラックのサイドミラーに映り込むレビンだかトレノは、相変わらず海の方を向いたまま沈黙している。

 彩香は治まることの無い恥ずかしさに、独り頬を赤らめながら国道へとトラックを進めたのだった。



 それは父から受け継いだ車だった。元々、運送会社の社員だった父が独立し、なけなしの貯金をはたいて購入したトラクターと箱型トレーラー。その中古を購入した際の父の、はち切れんばかりの笑顔は今でも覚えている。

 その購入に先立ち、父は彩香に「何色のトラックがいい?」と聞いたのだ。そして彼女は答えた。深い考えも無しに「ピンク」と。そんな子供の言葉を真に受けて、本当にピンクのトラックを探し出して来た時、母が呆れたようにしていたのを思い出す。しかし彩香は、それが本当に嬉しかったことが忘れられない。

 「これは彩香のトラックだぞ」

 そう言って運転席に座らせてくれたっけ。その高い位置から見渡す非日常的な景色が、彼女の人生を変えたと言ってもいい。


 夏休みなどは、助手席に乗って父の仕事について行ったものだ。今となってはそれが何処だったのか、子供だった彩香には全く判らないのだが、運転席背後の仮眠スペースで父にくっ付いて眠った日々は、今でも彼女の宝物である。彩香にとってそれはキャンプのように楽しく心浮き立つ想い出であり、友達と行った林間学校などよりも鮮烈な記憶となって残っている。


 そんな父が病に倒れたのは、彩香が十八歳になろうかという時だ。そして父は、あっけなくこの世を去る。循環器系の病気だった。大学受験を控える受験生だった筈が、一夜にして学費の工面にも困る有様となった。

 社会経験の薄い母が、その歳で再び働きに出ることは難しく、僅かばかりの貯金を切り崩しながら、残り少ない高校生活を送った。そんな状況で大学など行けるわけが無い。学費の安い国公立大学に行ける程の学力も無い。担任教師は奨学金の利用などを進言したが、彼女がその忠告に耳を傾けることは無かった。

 結局、勉強机の上に並んでいた参考書やら赤本をごみ箱に捨て、彼女が手にしたのは、近くの自動車教習所のパンフレットだ。だって父が残してくれたものは、ピンクのトラックだけだったのだから。それは彩香のトラックなのだから。


 それ以来、トラックドライバーとして働く彩香の収入が、彼女の家族を支えた。しかし、父が亡くなって以降、途端に弱気になってしまった母が、後を追うようにして亡くなるまで、確か三年もかからなかった筈だ。

 ただぼうっと、点けっ放しのテレビを眺めて過ごすだけの母の命の灯は、徐々にではあるが確実に萎んでいった。そうやって弱ってゆく母に、彩香がしてやれることは何も無かったのだ。そして最後には「お父さん、お父さん」と言いながら息を引き取ったのだった。


 こうして彩香は独りになった。


 別に後悔などしていない。自分がトラックドライバーになったのは必然なのだと思っていたからだ。父が残してくれたこのピンクのトラックを駆って、あちこちを走り回るのは、存外に自分の性に合っているとも思っているし、もし女子大生などになっていたらと想像すると、逆にゾッとするような気もする。

 都会の大学に通い、サークル活動やコンパで楽しく愉快に過ごすキャンパスライフに憧れなかったと言えば噓になる。十八歳の女子高生が、可愛らしい服を着て女友達や彼氏と、街をぶらつく夢を見なかったはずなど無い。それでも彩香は、今の生活を「本来在るべき自分の姿」と認識しているのだった。



 国道から斜めに逸れ、並走する一本隣の道に入る。右側は国道との間に田んぼが広がり、左側は民家が立ち並ぶ。あまり太い道でもないので、ここを通る際の彩香はいつもエンジンを抑え気味にするのが常であった。気難しい近隣住民から、トラックの音がうるさいなどとクレームが来たら面倒なことになるからだ。

 そのまま暫く進むと、忙しなく雪を掻くワイパーの向こうに、かつて親子三人で過ごした家が見えて来た。決して裕福な一家が住むことはない、平屋の長屋が五棟並ぶ、低所得者向け住居群。それぞれは四つの区画に区切られていて、その一棟当たり四家族が住んでいる。

 周りには新築の家が立ち並び、その一角だけ貧困を絵に描いたように落ち窪んだ印象を与えるのは、薄汚れた壁や安価なトタン屋根のせいだろうか。それとも居住者の年収が異なると、本当にそういう風に見えてしまうのだろうか。社会に忘れ去られたようなそんな住居では、玄関前に放置された誰かの子供用自転車すらも、薄く積もった雪に圧し潰されそうに見えた。


 そんな裏寂れた、哀れな長屋の1ー3号室に彩香は住んでいる。


 両親が亡くなって身軽になった際、もっと利便性が良く標準的なアパートに引っ越しても良かったのだが、彩香はここに住み続けた。それは家賃が破格の安さであったことも一因だが、彼女にとって最も重要だったのは、隣接する空き地に大型車を駐車するスペースが有ったからに他ならない。

 彩香のように、フリーランスのトラック運送で生計を立てている者は、その車の駐車場をいかに確保するかという、差し迫った難題を抱えているのだ。


 白く雪化粧を施した空き地にトラックを停めた彩香は、直ぐに自宅へと向かった。いつもであれば、車の中を軽く片付けてから引き上げるのだが、今日は慣れない雪道で緊張して、予想以上に疲れているようだ。こんな日は熱い風呂に入って、冷えたビールでも飲んで眠るに限る。確か焼き鳥か何かの缶詰が有ったはずだ。

 そこまで考えて彩香は吹き出した。だって今の自分のやる事や考える事って、まるっきりオッサンじゃないか。うら若き乙女の考えることとはかけ離れているぞ。そのことに気付いた彼女は、滲みだす笑いを抑えることが出来なかった。やっぱり自分は、女子大生なんて向いてない。

 疲れていたけれど、気分はいい。何故だろう?



 翌朝、ゆっくり気味に目覚めた彩香は、昨日の夜にすっぽかした、車内の片付けに追われていた。天候は回復しつつあったが、日陰にはまだしつこい雪が薄汚い氷となって残っているに違いない。今が丁度、仕事を休むタイミングだろう。それらが融けるまで仕事は控えて、少しノンビリさせて貰うことにしよう。

 父が働いていた臼井運輸の社長さんが懇意にしてくれていて ──多分それは、同情心から来るものなのだろうが── 彩香に優先的に仕事を回してくれる。その好意に甘えて今のところ食いっ逸れることは無いが、臼井社長の熱心な誘いにもかかわらず、正式な社員として働くことを固辞し続けているのは、父と同じフリーランスでやって行きたいと思っているからに他ならなかった。

 同時に、サラリーマン ──サラリーウーマンと呼ぶべきなのだろうか?── として生活の安定化を図ってしまっては、今日のように好きな時に好きなだけ休めるという特権を放棄することになるのだ。

 臼井社長には申し訳ないが、彩香には今の生活を変えるという考えは、まるっきり沸かないのだった。


 今日のように仕事を入れていない日は、運転席周りの清掃に費やすのが彼女のルーティンだ。運転しながら食べたポテチのクズや、空になったコーヒー缶など、日頃の仕事で溜まったゴミは定期的に大掃除する必要が有るし、仮眠スペースに脱ぎ放しになっている、下着などの汚れ物も回収しなければならない。あまり大きな声では言えないが、女性トラックドライバーの仮眠スペースなど、百年の恋も冷めるような惨状なのである。

 そう言えば昨日、スタックしている時に助けてくれたあの人が、座席後部に放り出してあるパンティやブラジャーに気付きはしなかっただろうか? カーテンを閉めておけば良かった。そんな大事なことに今更気付いて、彩香は再び顔を赤らめたのだった。



 大方の清掃が完了し、インパネ周りの埃も綺麗に拭い去った時だ。ふと視線を上げた彩香の視界の隅に、見覚えの有る車が滑り込んで来た。道路脇にまだ少し雪の残る国道を、ゆっくり目の速度で北に向かう白黒ツートンカラーの車。


 確かあれは・・・ レビンだかトレノ。


 昨日、ドライブインで助けてくれた人だ! いや、ひょっとして違う人かな? 単に同じ車種に乗っている別人かもしれない。でもあれって、最近ではあまりお目に掛からない古い車のはず。だとしたら、やっぱりあの人じゃなかろうか? でも・・・

 だが彩香は明確な解答を導き出す前に、半ば本能的にクラクションを鳴らしてしまった。だってモタモタしていたら、通り過ぎて行ってしまうじゃないか。


 ブァッ、ブァ──ッ!


 大型車のそれは普通乗用車とは異なり、かなり大きな音がする。田んぼを一反挟んだ距離が有るとは言え、それは余裕で国道にまで届いたのだった。そのレビンだかトレノのドライバーは、クラクションの音に気付いたのだろう。ハザードランプを点灯させ、速度を落として国道の路肩にゆっくりと停車した。

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