第二幕:曲がる
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取りあえず横浜の青葉区にある実家に身を寄せた大輔は、急遽決まった退職後のバタバタを乗り越え、ようやく一息付けるような状況で新年を迎えていた。例年通りであれば、今頃は北海道の冬季専用テストコースでウインタータイヤの評価に明け暮れているはずだったが、今年はポッカリと穴が開いてしまったかのような、張り合いの無い新年である。
毎日毎日、白銀のテストコースで車両を駆っていたこの期間、ブツクサと文句を言いながら過ごしていたのも今となっては良い想い出だ。気心知れた仲間たちと ──まるで学生時代の部活のように── 合宿状態で過ごすのは、あれはあれで楽しかったのだということに、今更ながら気付くのだった。
当然ながら、大輔の両親は気が気ではないようだ。そりゃそうだろう。一流などと謳われる大手企業に勤めていたはずの息子が、ある日突然『会社を辞めた』と言って戻ってきたのだから。後は息子が家庭を持ち、孫の顔を見せに来るのを待つだけだと安心し切っていたのに、まるで就職の決まらない学生のような、足元の定まらない状態で姿を現したのだ。
詳しい話は何も話してくれない息子に対し、色々聞きたいことも有るだろう。問い詰めたい気持ちも有るに違いない。しかし大輔の父、豊と母の
もう若くはない両親が、どれほど自分のことを心配してくれているだろう。それを思うと、身を切られるように辛い。それが大輔の心を締め付けた。かと言って、直ぐに次の仕事を探す気にもなれないのは事実だ。これだけ明確な悪意を持って、誰かから裏切られたことなど、彼の人生で一度たりとも無いのだから。
それは「ショック」などという生半可な言葉では表現し切れない、深い傷を彼の心に刻み付けたのだ。そしてその傷口は今もなお乾くことは無く、鈍い痛みを伴いつつグジュグジュと血を滲ませ続けている。
人は組織という鎧を身に纏うと、生身の時には考えもつかない様な無慈悲な決断を下し、残酷な行動を取ってしまうのだ。取ってしまえるのだ。親切だった警察官も、親身になって相談に乗ってくれていた教員も、己の所属する組織からの圧力には容易に屈し、まるで別人のように豹変して自己防衛を図るのと同じである。そのことを当事者として身をもって思い知らされた大輔は、会社組織というものの中に再び自分を放り込む勇気が持てなかった。
それは組織が怖いのではなく、組織を信用できなくなってしまった ──つまり現実社会への適応能力を完全に失ってしまった── 自分を認識してしまうのが怖いからに他ならなかった。
このまま親の脛を齧ってばかりでいるわけにもいかないと考えた大輔が、地元の小さなコンビニ店で深夜のバイトでも始めようかと考えていた矢先のことだ。父親の豊が「何処か一人旅でもして来たらどうだ?」と、彼を思いやる最大限の提案を持ち出して来た。親としては、毎日燻るように過ごす息子を見るに見かねて、気分転換のつもりで勧めたのだろう。
今となっては、一流企業だの業界大手だの、或いはステータスがどうだとか年収が幾らだとか、そんな贅沢なことを言える立場にはない息子が、多少の気分転換で新たな一歩を踏み出す活力を取り戻してくれるのであれば万々歳である。大輔にも「それも悪くないな」という想いが次第に膨らみ始め、父の勧めに従って、暫く当ての無い旅にでも身を投じる気分になっていた。
行き先など決めてはいない。だが、毎年冬になると、極寒の北海道に出張していた記憶が蘇る。だから自分は、きっと北を目指すことになるのだろうと、他人事のようにボンヤリと考えるのだった。
一月のまだ春遠い時期、北へ向かうとなれば雪を想定しない訳にはいかない。彼の愛車であるAE86のタイヤをスタッドレスに交換していると、ガレージに豊が顔を覗かせた。しかし彼は、息子のことでもなく、これからの旅のことでもなく、ましてや会社のことなどではなく、全く関係の無い話を始めたのだった。
「そのスタッドレスはインチダウンしてるのか?」
「うん、スタッドレスでスピード出すわけじゃないし、走行性能は求めてないから」
「そうか。乗り心地重視ってわけだ?」
そう言いながら豊は、ガレージの隅の棚からクロスレンチを引っ張り出すと、車の反対側に回り込んでタイヤのナットを緩め始めた。元々、車好きの豊の影響で大輔も車好きになった経緯である。歳をとったとはいえ、タイヤ交換など豊にとっては朝飯前なのだ。
「ありがとう、お父さん」
そんな大輔がコービータイヤに就職をした際には、豊は特に喜んだものだった。車好きの親として、息子が大手タイヤメーカーで働くというのは、なんとも誇らしい気持ちにさせてくれたものだ。
しかし、その息子が何らかの理由によって会社を去る決断を下したのだ。事の詳細を知る由も無い豊は、その責任の一端が自分にも在るような気がして、なんとも言えない複雑な心境に駆られるのだった。
「軽く緩めてあるから」
ジャッキが一台しかないので、完全にタイヤを外すわけにはいかない。豊は大輔の労力削減のために、半回転程ナットを緩めたところでレンチを置いた。
「うん、わかった」
「雪道は気をつけてな」
「うん」
「無理するなよ」
「電話するよ」
*
首都高を乗り継いで東北道に出るのが最も効率的だと考えた時、大輔は思わず吹き出してしまった。
思った通りだ。
やはり自分は北を目指している。
何故かは判らないが、自分には最初からその選択肢しかないのだ。別に西へ行ったって構わないし、北にそれ程の思い入れが有るわけでもない。なのに何故北なのか? 大学を卒業して以来、冬場は北海道で仕事をする生活が続いたので、単に雪が恋しいのだろうか?
ひょっとして高倉健の映画の影響?
まさか。そもそも高倉健は九州出身だと言うではないか。そんなことを考えながらステアリングを握る大輔は、またクスリと笑いを漏らした。
しかし大輔には行く当てなど無いし、スケジュールが決まっているわけでもない。旅の効率など、どうだっていい。いついつまでに、何処かへ到着しなければならないといった、何かに追われるような旅ではないのだ。
車中泊を想定した寝袋や毛布の類は後部座席に積んであるので、運転に疲れたら「道の駅」とかで好きなだけ休憩すればいい。ゆく先々で日帰り温泉に浸かるのも一興だ。
あまり読書をするタイプではないが、読みかけだった乃南アサの連作も、気分転換にと持ち込んであるし、ちょっとした休憩用に、IWATANIのガスバナーと珈琲セットも放り込んだ。
いっそのこと、房総半島辺りから旅を始めるのはどうだろう? 旨いものでも食べながら、海岸線を徐々に北上してゆくのも悪くはない。海産物に飽きたら内陸に移動して、また違った物を食べればいいじゃないか。各地のB級グルメをスマホで検索しながら食べ歩くことなど、こういった機会でも無ければ出来ることではないのだし。
この古い車にカーナビやオーディオの類は装備されてはいないが ──その代わりロールバーなど、横転を想定した安全性確保の為の装備は万全である── 今時はiPhoneで全てがまかなえる時代だ。後は、預金残高に余裕の有る口座に紐づけられたカードやスマホ決済アプリさえ有れば、いつまででも旅を続けられるのはずなのだ。
こんな自由な気分になったのは、いったいいつ以来だろう? 大学時代の長すぎる夏休み以来だろうか? これから始まるお気楽な旅で巻き起こるであろう、様々な出来事に想いを馳せると、図らずも彼の心はウキウキと弾むのだった。信頼していた会社に裏切られたという心の傷は、父の見込み通り、ちょっとした気分転換で既に癒え始めているのかもしれない。
大輔は左ウィンカーを出しつつアクセルを抜き、シンクロ機構への過度な負荷を避ける為に、軽快なダブルクラッチの操作でシフトを一段落とした。減速はエンジンブレーキに委ね、ブレーキペダルは踏まない。そして微かな笑みを浮かべたまま、横浜青葉出入口のICに向かって、厚木街道を左に逸れた。
当面の行き先はアクアライン。その後のことは、千葉県側に降り立ってから考えればいい。
千葉県に渡ったところで一旦は南下し、大輔は館山市までやって来た。別に館山に来たかったわけでも、用事が有るわけでもないが、この半島の突端から太平洋沿岸を伝って北上開始するというのがキリが良さそうじゃないか。
右手に海を見ながら、彼はゆっくりと車を走らせる。考えてみれば、仕事で運転している時はいつもどこか緊張していて ──それは、タイヤ評価という特殊なミッションが故の緊張感であり、全身の感覚を研ぎ澄ますモードに入っている証だ── 運転する悦びとか楽しさとはかけ離れた、全くの別物であったことが解かる。
異なるタイヤを同じ条件で評価する為には、完璧に同じ運転操作を何度でも繰り返し再現できなければならない。それが彼らに求められる、最も基本的で重要な資質であり、プライベートで運転する時ですら、己の技量を向上させる為に細かな所に気を使うのは、テストドライバー特有の「あるある」である。
それが今はどうだ? ±1km/h以内の誤差で、車速をピタリと合わせる必要も無ければ、先ほどと同じラインをトレースすることに神経をすり減らす必要も無い。コーナーでのライン取りなんていい加減なものだ。ブレーキングだってアクセルワークだって、周りの交通環境に合せるだけで良いのだから楽なものである。
そういったしがらみから完全に開放されてみれば、それは永らく忘れていた感覚を呼び覚まし、車窓の外を流れる景色は、これまでとは全くもって異なる表情を彼に見せつけるのだった。車を運転するという行為の、本来の意味を思い出したかのようだ。
そんな当たり前のことに感動しながら、大輔の駆るAE86は銚子市へと向かう。
横浜を出た時間が遅かったため、銚子に着いた時には既に日が暮れていた。大輔は国道沿いにあった回転寿司店の駐車場にフラリと車を乗り入れ、思いのほか空いていた腹を満たすことにする。漁港で有名なこの地だ。きっと旨い魚が食えるに違いない。
スマホの地図アプリで行き先を確認しつつカウンターで寿司を摘まんでいると、少し離れたテーブル席に就く、親子四人連れの会話が聞こえてきた。
「お父さん。これから天気が悪くなるそうよ。雪になるかもって、昼間のテレビで言ってた」
「えぇっ、雪!? マジか? マズいな、タイヤ履き替えてないぞ」
「そうよ。だから、あんまりノンビリ食べてない方がいい・・・ あっ、コラッ! そんなはしたないことやめなさいっ!」
頭をピシャリと叩かれた小さい方の子供が、口を尖らせるのを大輔は笑いながら見詰めた。そりゃそうだろう。千葉の銚子が雪に埋もれることなど、殆ど無いに違いない。多くのドライバーがタイヤ交換をすることも無く、冬でもサマータイヤで済ませているはずだ。
こんな時、大輔は「弊社のスタッドレスをお買い求め下さい」と言いたくなるのを我慢するのが常であったが、今ではそんな想いを抱くのもお門違いであることを思い出し、なんだか可笑しくなるのだった。自分が開発に関わったタイヤが売れようが売れまいが、もう知ったことではない。
それにしても、雪だって?
大輔は地図アプリを閉じ、代わりに天気予報のサイトを立ち上げた。その天気概況によると、シベリアから張り出している寒気団が、日本列島を北からスッポリと覆い隠そうとしているらしく、関東から東海にかけた地域ですら降雪が見込まれるという。特に北海道から東北にかけては、日本海側を中心に大荒れの天気になるとの予報だ。
その爆弾低気圧が、少なくとも二~三日は日本上空に居座る公算が高いらしく、ここから更に北上すれば、太平洋側と言えども雪に見舞われる可能性が高い。つまり大輔の旅は、とんだ雪中行脚となることが、ほぼ確定したのだった。
しかし大輔は余裕だった。雪道など仕事で散々走っていたし、こういった状況を予期してスタッドレスに履き替えて来たのだから。冬に日本列島を北上すれば、いずれ積雪に ──降雪ではなく積雪。つまり雪氷路面である── 出逢うことは必然なのだ。それが少し南に下って、早まったに過ぎない。
大輔はスマホをポケットに仕舞い込むと、脇に置いてある会計用のバインダーを掴んで立ち上がった。
待ってろよ、雪!
大輔は何故だが雪に出逢うのが楽しみな気がするのだった。仕事を離れて雪氷路面を走る時、それはいったいどんな気持ちにさせるのだろう。AE86の駆動輪がスリップして、軽くテールスライドでも起こしたりすれば、面白い運転が楽しめるかもしれない。しかし、そこまで考えて大輔は気を引き締めるのだった。
いかん、いかん。一般道はテストコースやサーキットではない。車を使って周りに迷惑をかけるような運転をするべきではない。それはテストドライバーを辞めたからといって、変わるものではないのだから。
回転寿司店の自動ドアを抜けた時、彼はどんよりと厚く垂れ込める雲に覆われた夜空を見上げた。まだ降り始めてはいないが、いずれ何かが落ちて来そうな不穏な雲行きだ。吹き付ける風は確かに冷たく、それが雨から雪に変わる前兆のように思われた。
大輔はシャツの襟を立てて首筋を包み込むと、自分の車に向かって足早に歩き始めた。
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