大輔は練りに練った文言を幾度となく読み返し、問題無しと判断してEメールの送信ボタンを押した。その宛先は本山真治。機能性材料研究課に勤務する、彼の同期社員である。


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From: Imai, Daisuke

Sent: Monday, Oct. 19, 2020 4:21 PM

To: Motoyama, Shinji

Subject: 今居です。お久し振り。


本山様

実車試験部の今居です。ご無沙汰です。

チョッと聞きたいことが有るのでメールしました。


今度のEagle Pilot 2に搭載されているトレッドゴムの件だけど、あれって大丈夫なのかな?

一か月くらい前、あの試作タイヤを何本か評価したんだけど、あんまり良い感じじゃなかったんだよね。設計の馬淵君に「どの試作水準が採用されたのか?」って聞いても返事貰えなくって。


何か知ってたら教えて下さい。

また今度、同期で呑みましょう。


今居

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 直ぐに返信は貰えないだろうと踏んで、大輔は仕事に戻った。

 彼のような消費財評価を担当している試験課の大きな仕事の一つとして、ウィンタータイヤの評価が有る。生産財の場合は、納入先が自動車メーカーということも有り、冬用タイヤのニーズは低い。

 それに対し消費財では、顧客が一般ユーザーということで冬用タイヤ、いわゆるスタッドレスタイヤやオールシーズンタイヤの評価が、一年の仕事のうちでかなり大きなウェイトを占めるのだ。大輔の所属する課では南半球に渡って、夏場の冬季試験を専門にしているメンバーも居るほどである。


 従って毎年十二月の中旬から、正月休みを挟んで翌年三月初旬までの冬季期間は、彼ら消費財タイヤ評価を担当するテストドライバーたちは、北海道にある冬季専用テストコースに缶詰状態となって雪氷路面での試験を行う。

 勿論、それだけの長期間、出張しっ放しということではなく、同じ課のドライバーたちが、およそ一~二週間ほどで入れ代わり立ち代わり、茨城と北海道を行き来することになる。


 タイヤ業界にとってスタッドレスは「ドル箱商品」とも言え、その評価ボリュームも膨大だ。それだけ大規模な北海道評価は、その準備にも時間を要することは言うまでも無いだろう。まだ蝉の鳴く様な季節から ──遅くとも十月頃には── 今冬の北海道評価の準備が始まるのだ。

 大輔はメーリングソフトを最小化すると、社内各部署から集まって来る冬季試験エントリーの集計作業と、その試験スケジュール立案を開始した。


 それはまるで難解なパズルのようである。北海道に試験タイヤが到着する日付はバラバラで、その試験ボリュームや評価内容も多岐にわたる。

 タイヤは一旦、茨城で評価され、その後に北海道に投入されるもの。或いは、後から茨城で評価するもの。直接、北海道に届くものや、試験後に北米に向けて輸出するものなどがごちゃ混ぜになっており、テストドライバーのシフト表の作成や宿の手配に加え、レンタカーの確保、タイヤのロジスティックまで勘案してのスケジューリングだ。

 中には「試験に立ち会いたい」と申し出てくる開発者も居るので、彼らの飛行機のチケットに合せて試験をこなす必要が有ったり、或いはジャーナリスト試乗会などと重なって、思うように試験を消化できない場合も有る。場合によっては自主試験と称して、テストドライバーに頼らず、自分たちで運転して評価する開発者も居たりして、状況はまさに混沌だ。


 更に冬季試験では、天候の影響も大きいことを忘れてはならない。爆弾低気圧に覆われて地吹雪が起きるような状況では、たとえテストコース内と言えどもホワイトアウトしてしまい、試験を続行するのは不可能だ。

 一方、気温が上がり過ぎても宜しくは無い。気温が±0℃付近にまで上がってしまうと、試験車両が雪面を掘ってしまい、轍が出来て路面を痛めてしまうのだ。致命的なまでに路面が壊れると、後の試験スケジュールに甚大な影響を及ぼすことは必至である。

 このように雑多な試験アイテムを整然と並べ替え、予測不能な気象条件変化にも対応可能なスケジュール立案はまさに神業と言え、課内でリーダー的立場の大輔がその責任を負っているのだった。


 パソコンのディスプレイと睨めっこしながら頭をひねっていると、右下に封筒のアイコンが現れた。メールの到着を知らせるインジケーターだ。大輔は熱くなってオーバーヒート気味の頭を冷やすため、再びメーリングソフトを開く。

 本山からの返信であった。


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From: Motoyama, Shinji

Sent: Monday, Oct. 19, 2020 6:45 PM

To: Imai, Daisuke

Subject: Re: 今居です。お久し振り。


おぉーーーっ、今居っち! 久し振り!

元気してた? 5月に新宿で呑んた時以来だな。


何何? 仕事の話?

昔はそんな奴じゃなかったんだけどなぁ(笑)


今度のEagle Pilot 2の件?

あぁ、やっぱり気付いた?

さすがテストドライバーは違うね、アレに気付くなんて。


アレは天然ゴムの使用量を減らすのが目的だから、タイヤ性能としては、最初っからあまり期待出来るもんじゃなかったんだよ。

でも、課長も部長も「聞く耳持たず」って感じでさ。


結局、旧モデル同等性能でもいいか、って判断が下ったらしく、そのまま採用の流れになったよ。

まぁ、材料屋としては技術的意義は大きいしね。


それに、今居っちたちプロのテストドライバーが市場性有りと判断したんなら、実車試験部の意見を信じようってことになったらしいよ。


そんなことよりさ、新藤の所、二人目が生まれるらしいよ。

今度、同期で出産祝いを贈ろうってことになってて・・・


・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・

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 その後も本山のメールは続いていたが、もう大輔の頭の中には何も入っては来なかった。ディスプレイ上には、無意味な記号が踊るだけだ。それはまるで、遠い異星の生命体から送られてきた、判読不能なメッセージのようではないか。


 旧モデルと同等性能だって?


 馬鹿な。そんなことを問題視しているのではない。あのタイヤについて語らねばならないのは、そんな目先の話ではない。


 テストドライバーが市場性有りと判断しただって?


 何かがおかしい。自分の知らない所で誰かの意図が働き、通常では考えられない、或いは有ってはならない手順で話が進んでいる。


 実車試験部の意見を信じるだって?


 今まで愛社精神が無かったと言えば嘘になるが、その愛すべきコービータイヤが、今、大輔の知らなかったもう一つの顔を見せ始めたような気がした。いや、彼自身が今迄気付かなかっただけなのかもしれない。

 ただしその表情は背後から浴びる光の影となり、どんなに目を凝らしても朧げにしか認められない。唯一、明らかなのは、それが傲慢で卑劣な冷笑を帯びていることだけだった。

 大輔は形式的に通り一辺倒の謝辞を本山に返信すると、パソコンをシャットダウンし、力無くディスプレイを閉じた。



 「どういうことだか説明して頂けますか、部長?」

 川渡を会議室に呼び出した大輔は、感情的になりそうなのを堪えながら、静かに問うた。それが思った以上に困難なことであることを、彼は生まれて初めて実感していた。

 「僕が発行した報告書が手許に戻ってきてるんですが? あれは課長、部長を回議して、正式な報告書として発行済みのものです。それが何故、今頃になって差し戻されているのか判りません」

 川渡は落ち着いた様子を崩さないように苦慮しながら、大輔の質問に答えた。しかし、彼が無理をしていることは、大輔の目にも明らかだった。

 「君の気持は良く判るよ、今居君。私としても『それだけは出来ない』という一線は死守したかったんだけどね。それを認めてしまったら、我々プロのテストドライバーの意味が無くなってしまうからね」

 「だったらどうして!? 研究所の意向に沿って、報告書を書き変えるなんてことが有っていいんですか!?」

 遂に堪え切れなくなって、つい声を荒げてしまったことに気付いた大輔であったが、もうその勢いは止まらなかった。

 「我々テストドライバーは、いかなる時も公平な目で評価し、良い物と悪い物をふるいにかけるのが使命じゃないんですか!?  これってただの改竄じゃないですかっ!?」

 「こ、言葉に気をつけてくれよ、今居君。今回の件は改竄なんてものには当たらないよ。そもそもこれは」そう言って川渡は、コピー用紙に印刷された大輔の報告書をチラリと見やった。「政府や自治体の発行する公式文書じゃないんだ。それが我々社内の都合によって、適宜、されることに何の違法性も無い」

 「そんなことを言ってるんじゃありません! 部長だって元はテストドライバーでしょ!? プライドは無いんですか!? プロの評価者としての自負や矜持は何処に行ったんです!?」

 「はははは・・・ 大袈裟だなぁ、今居君は。チョコッとだけ表現を変えるだけじゃないか。それによって君のプライドに傷が付くなんて、私には全く理解できないな」

 「それ、本気で言ってるんですか?」

 「あ、当たり前じゃないか。そもそも君だって、今度のEagle Pilot 2が、我が社にとってどれだけ重要な商品かは判っているんだろ? 社運が掛かっていると言ってもいいくらいなんだ。だから我々実車試験部も、それに最大限の協力をするのはコービーマンとして当たり前だとは思わないか?

 むしろ君は今回、特別に貢献する機会が与えられたんじゃないか。それを『義務』とか『務め』みたいな後ろ向きな考え方をするのではなく、逆に『誇り』と考えられるくらい前向きな態度で仕事に取り組んで欲しいな」


 大輔は苦々しい思いで顔を背けた。コイツには何を言っても無駄なのだ。おおかた、立川(技術開発研究所)からの圧力に屈して、言い成りになっているだけの小悪党なのだから。

 考えてみればこの男が、研究所や本社の横やりから、テストコースを守る為の行動に出たことなど、これまで一度として無かったではないか。それを期待するだけ無駄なのだ。

 ひょっとしたら、大所帯の実車試験部を本部に格上げする計画が有るとかなんとか言われ、その際の本部長候補という餌でもちらつかされたか?

 「下らない・・・」

 大輔が相手に聞こえない程の小声で毒づくと、川渡は「ん? 何?」と間抜けな顔を大輔に向けた。その愚劣な男の顔を見て、大輔の心痛に渦巻いていた怒りは冷や水を浴びせかけられたかのように勢いを失い、見る見るうちに鎮火していった。


 テストドライバーが、その評価に手心を加えるということは、プロのアスリートが故意に負ける『八百長』と全く同じなのだ。製造業という会社組織内において、自動車の運転技量という特殊な能力を磨き、そのスキルによって商品開発に貢献してきた人間が、誰かに都合の良い答えを出すことを是としてしまっては、そいつの存在理由は無い。もしそれが許されるのなら、開発者が自分で報告書を書けば良いのだから。


 「部長。僕は自分の書いた報告書の書き変えは、断固として拒否します。もしどうしてもと仰るのであれば、部長の権限でを加えて発行して下さい。元々部長には、その裁量が与えられていますよね? それでは失礼します」

 大輔はそう言い残すと、さっさと会議室を出て行った。


 それを黙って見送った川渡は、「ううん・・・」と唸ると、胸ポケットからひしゃげたセブンスターの箱を取り出した。そしてその中から安っぽい百円ライターと共にタバコを一本取り出すと、禁煙であるはずの会議室で一人、ゆっくりと時間を掛けて吸った。

 伸びすぎた灰に気付いた時、会議室には灰皿も無いことを思い出した川渡は、上着の腰ポケットから急いで携帯灰皿を取り出すと、そこでタバコを揉み消す。そして会議テーブルの中央にある電話を取り上げて、四桁の社内短縮ナンバーを押した。その会議室に他の誰がいるわけでもないのに、大きな音が立たないよう静かに。



 翌週、テストコースは騒然としていた。大輔の、突然の退職が部内にアナウンスされたからだった。彼のような主要メンバーを突然失っては、部署の業務遂行に大きな支障を来すし、今冬の北海道試験のスケジューリングも頓挫することは明白だ。

 そもそもの発端は異動辞令である。出向理由は以下の通り。


『実車評価の豊富な経験を活かし、販売促進に大きく貢献できるものと考えられる。同時に、個人のキャリアアップを後押しする施策の一環として今回の異動を決定したものであり、新境地での活躍を期待する』


 これは期間限定の派遣ではなく出向だ。実質的な左遷である。異動先は鹿児島の販社、つまり街のタイヤショップを経営する系列販売会社だ。先日と同じ会議室に呼び出された大輔は、川渡からそのような、上っ面だけの腹立たしい説明を受け、不謹慎だが笑いそうになってしまったのだった。

 近頃テレビなどで人気の社会派ドラマのような展開が、まさか自分の身に降りかかって来ようとは。あんなものは小説の中だけの出来事だと信じて疑わなかったのに。

 当然ながら大輔が、その辞令を黙って受け入れるはずは無かった。キャリアアップの後押しだって? 馬鹿々々しい。内示を受けたその場で大輔が辞職を申し出ると、川渡は安堵したかのような表情を隠そうともせず、それを快諾したのだった。上辺だけのの言葉は、一瞬にして撤回された。



 「今居さん! 辞職って、どういうことですかっ!? いったい何が有ったんですかっ!?」

 事務所のデスクに有る私物を段ボール箱に放り込んでいる大輔を、テストコースのメンバーはただ遠巻きに見守っていた。彼の身に、何かとんでもないことが起こったことは明白だ。それに対し、いったいどう声を掛けたらいいのか判らず、皆は押し黙って彼の身辺整理の準備を見詰めるのだった。

 そんな中から、唯一声を掛けたのが高山だ。

 「高山君・・・」

 「どうして言ってくれなかったんですか? 突然辞めちゃうなんて」

 「どうしてって言われても・・・ 俺も三時間前までは辞めることになるなんて思ってなかったから・・・」

 そう言うと、大輔は高山の腕を掴み、少々強引に引っ張りながら事務所を後にした。


 高山が連れて来られたのは、事務所に併設されるガレージの一角だ。周囲に誰もいないことを確認した大輔は、必要以上に声を潜めて言った。

 「例のタイヤ・・・ 今度のEagle Pilot 2として上市されるらしいよ」

 「えっ!」

 思わず大声を上げてしまった高山は、辺りをキョロキョロ見回しながら声のトーンを落とした。

 「例のタイヤって、あの突然グリップを消失する奴ですか!?」

 「うん。あのタイヤに関する報告書を書き変えろって、先週、部長に言われたんだ。それを断ったら、今週には鹿児島の販社への出向が決まってた」

 「何ですか、それっ!? 評価結果を改竄しろってことですか!? それを断ったからお払い箱ってことですかっ!?」

 再び大声になる高山を抑ええながら大輔が言う。

 「この件は内密にね」

 「そんなこと出来るわけ無いじゃないですかっ!」もう高山の怒りは治まらないようだ。誰かに聞かれたって構うもんか。「俺も部長に直訴しますよ! 俺だって実際に評価して、今居さんと同じ現象を確認してるんですからっ! 報告書を書き変えたって、タイヤの素性は変わりませんよ! そんなふざけた話、絶対に受け入れられません!」

 「高山君! 高山君! 落ち着いて! それだけはやめてくれ。もしそんなことをしたら、君だって退職に追いやられちゃうよ。今年、子供が生まれたばかりだろ? 今、仕事を失うようなことするべきじゃないよ」

 「で、でも・・・」

 「この件は、随分と上の方の意向が働いてるみたいだ。ウチの部長はその辺に ──多分、本社か立川に── 尻尾を振ってるだけで、あの人に何か言ってみたところで、どうかなる話じゃない」

 「・・・・・・」

 「それどころか、立川では『あのタイヤの市場性を認めたのはテストコース』だってことになってるらしい。そんなインチキを『実は知ってました』なんてことになったら、今後どんな責任を負わされるか判ったもんじゃない。

 だから高山君、君は何も知らなかったし、何も聞いてないってことにしよう。その方が良いって。絶対」


 高山は悔しそうに唇を噛んだ。大輔は尊敬すべき先輩だが、自分の生活を、家庭を、家族を犠牲にしてまで庇うことは出来ない。プロのレーサーとして危険と隣り合わせの生活に終止符を打ち、大企業のサラリーマンとしての再出発が、ようやく軌道に乗り始めた矢先である。その安定を棄てる勇気など、今の彼に有るはずもない。

 高山は無力で弱腰な上に、打算的な自分が途轍もなく疎ましかった。死の恐怖と戦いながら、己の技量を信じてコーナーに突っ込んでいったあの頃の自分が戻って来ることなど、もう二度と無いのだと彼は知った。


 「今居さんは・・・ それでいいんですか? 正しいことをしようとしただけなのに、こんな仕打ちをされて」

 「うぅ~ん・・・ どうかな? 勿論、納得もしてないし、頭にだって来てる。でも、こんな会社には愛想が尽きたと言い切れる程には、まだ自分の置かれた状況を客観視は出来ていないね、今のところ」

 「会社辞めて、これからどうするつもりなんですか?」

 「どうしよっか?」

 複雑な顔をする高山の肩に、「ポン」と手を置いた大輔が笑った。

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