「これがテストコースからの報告書だ」

 丸の内に有るコービータイヤの本社ビル十二階の会議室で、長田は無垢材をふんだんに用いた豪奢な会議テーブルの前に就いていた。そして彼は、自身のバッグから取り出したA4のコピー用紙に印刷された書類を机の反対側に向けて滑らせた。ステープルで数枚が綴られたそれが滑って行く先には、販売部門、消費財販売本部の大門が不機嫌な顔をして腕組みをしている。

 大門はスルスルと滑って来た書類を「バンッ」と左手で押さえ込むと、長田の顔を睨みつけるような表情のまま、それを押し返した。

 「わざわざ印刷して持って来たのか? 機密保全をどう考えてるんだ、研究所の人間は・・・ んなことはどうでもいい。報告書なら、既に社内データベースの閲覧システムで確認済みだ」

 とんぼ返りで戻って来た書類は、テーブルの上に置かれた長田の右手に当たって止まったが、彼はそれに対して何の反応も示さなかった。


 一瞬の沈黙の後、長田が口を開く。

 「今度のEagle Pilot 2は、限界性能を担保できな・・・」

 バンッ・・・

 長田が言い終わる前に、再び大門がテーブルを打った。

 「何が限界性能だっ!? お前ら技術屋は、口さえ開けば性能性能って。性能だけで商品が売れると思ってんのか!? 同じ性能だって、売り方ひとつで、飛ぶように売れたり、そうでなかったりするんだぞ!」


 大門の高圧的な口振りに、長田は慣れている。二人は事務屋と技術屋という全く異なる世界に住んではいるが、元をただせば同期入社の仲だ。ただし、東京の有名私立大学出身で口の立つ大門と、地方の国立大学出身の寡黙な技術者である長田では、どちらが会話の主導権を握るのかは明白だ。それは新入社員の頃から変わらない。


 「俺は技術屋として、客観的な事実を述べているだけだ」

 「そうか? じゃぁ聞くが、どれくらいの一般ユーザーが、お前さんたちが言う『限界走行』とやらをするんだ? 日本の法定速度は何キロか判ってて言ってるんだろうな?」

 「Eagle Pilot 2は欧州でも展開するんだろ? あっちはアウトバーンも有るし、日本よりも高い限界性能が求められるぞ」

 「だから、求められるものと必要とされるものはイコールじゃないと言っているだろ。だいたいテストドライバーなんて、言ってみれば暴走族上がりみたいな連中じゃないか。そんな奴らが『問題だ、問題だ』と騒いでるだけなのを、なんでお前らが真に受けて一緒に騒いでいるのかが俺には判らん」

 「彼らは・・・ テストドライバーは、俺たちには感じ取れない様な微細な変化も敏感に感じ取れるんだ。その声を無視するわけにはいかない」

 その発言を聞いた大門が、無遠慮に人差し指を長田に向けた。

 「言ったな? 今、自分で言ったな?」

 長田は訳が判らず、訝し気な顔を向ける。

 「今、自分で言ったろ。『俺たちには感じ取れない』って。そうだよ! それなんだよ! そこが重要なんだよ!

 相手はレーサーでもなければ、カーメーカーのテストドライバーでもない。ただの一般ユーザーなんだ。一般人は限界走行なんてしないし、微妙な差異なんて感じ取ることすら出来ない。

 奴らが感じ取れるのは、せいぜい乗り心地の良し悪しと音がうるさいかどうかだけだろ。だからテストコースが上げてきた官能評価の報告書なんて、意味無いのさ。違うか?」

 「いや・・・ しかし・・・」

 「考えてもみろ。今、コービータイヤは世界的シェアを徐々に奪われつつあるんだぞ。今期発売されたヴェリテ(ヴェリテ・コンフィションス。コービータイヤと世界シェアを二分する、フランスの老舗タイヤメーカー)のSuper Contactシリーズは評判が良いらしくて、ウチの系列ディーラーは世界中で苦戦してるんだ。

 その対抗策として、今度のEagle Pilot 2は起死回生の一手と考えられている。大型車で負けが込んでいる今、乗用車まで負けたらコービータイヤはジリ貧じゃないか。

 それに待ったをかけるという意味が、お前には判らないのか?」

 「・・・・・・」

 「クビだよ、クビ! 俺もお前もクビが飛ぶって話だよ!」


 本当に懲戒免職にまでなることは無いだろうが、社内の出世レースから脱落することは明白だろう。大門は得意の話術で、更に畳みかける。


 「材料研究本部がいくら投資しているか、お前も知ってるだろ、長田。我々本社サイドだって、もう既に相当な額を販促の為の発注に回してるんだ。今更それを無しにしろなんて、いったい誰が言うんだ?」

 言葉に詰まる長田に、今度は優し気なトーンで言う。長田のような口の立たない連中を足蹴にして、或いは丸め込むことで彼はここまで上り詰めて来たのだ。

 「大丈夫だよ。限界性能なんて、市場では問題にならないさ。安心しろ」



 日本発の最先端テクノロジーが生み出す、

 マキシマムクラスの圧倒的パフォーマンス!


 あらゆるウエット条件下で確実に路面を捉え、

 ブレーキ性能と燃費性能を高度にバランス。


 高いグリップ力に加え、耐久性と静寂性を

 兼ね備えたコービータイヤの最高級グレード。


 日本の、いや世界のフラッグシップタイヤ、

 Eagle Pilot 2のパッションを体感せよ!


 その華々しいプレスリリース、及びメディア展開が開始されたのは、それから三週間後のことだ。コピーライターや広告代理店の考えた大袈裟な文言が紙面を賑わせ、それは日本だけにとどまらず、競合他社のひしめく欧米でも同様であった。実際に市場に商品が流れ始め、一般ユーザーが手にするのはまだ三ヶ月も先だと言うのに、そのデビューがセンセーショナルに予告されたのだった。

 新聞各社、テレビ局、自動車雑誌社などを招いたイベントが開催され、時には世界最高峰のレースでコービータイヤのタイヤを履く、プロドライバーの行田俊彦をゲストに迎えたトークショーなども催された。その際には、会場に入りきれなかった観客が外に溢れたほどだ。

 新製品の上市に向けてテレビCMも一新されている。女性アイドルグループ、EMPiREのテンポの良い楽曲に載せ、彼女たちを前面に押し出したバージョンは、特に自動車離れの進む若年層に強いインパクトを与えたとされ、その購買意欲を刺激したと自動車業界全体からも高い評価を得ている。


 発売決定がアナウンスされた当初のお祭り騒ぎが収まって来ると、次に訪れるのはジャーナリストなどに向けられた限定イベント、つまり試乗会だ。今、巷で話題となっているコービータイヤの新商品を一足先に試乗できるのだから、業界関係者がそのチャンスを棒に振るはずは無い。

 そういった試乗会は、民間のサーキットを借りて行う場合も有るが、殆どは自社テストコースを占有して行われる。テストコースとは、単にタイヤの評価をする為だけの場所ではなく、実はこのような販促のための重要な役割も担っているのだった。

 勿論、スタッドレスなどウィンタータイヤの試乗会は、冬限定で北海道に有る冬季専用テストコースが用いられるが、サマータイヤの場合はここ茨城県に、腕に覚えの有るジャーナリストたちが集うことになる。

 しかし、腕に覚えが有ると言っても、本職のレーサーやテストドライバーではない彼らと混走出来るわけではない。無論、レーサー上がりのジャーナリストなども幾人かは含まれているが、その殆どは素人であるため、事故などを未然に防止するという意味でも、試乗会の期間中、社内のテストドライバーたちは事務所に籠ってデスクワークに勤しむのだった。


 逆に、こういったイベントの受け入れ要員 ──それはテストコースのスタッフだけで足りるはずもなく、本社の販売部門からも大挙してやってくる── は多忙を極め、それはそれでお祭りのような騒ぎである。

 そもそも車好きで自動車関係のジャーナリストをしている者が多いため、サーキットのような場所ではつい羽目を外して、自分の技量を省みない無謀な運転をしてしまう者が多い。そういった連中を抑え込みながら ──その気持ちは解からないでもないが── 安全に試乗会を運営してゆくのは、想像以上に骨が折れ、気苦労の絶えない仕事に違いない。


 大輔は、普段はあまり目にすることの無い本社スタッフと、招かれたジャーナリストたちを遠巻きに見詰めながら、その多忙さ、煩雑さを想像してブルリと震えた。

 「今居さん。さっき、グラフィック・カーズ編集部の杉野忠一を見ましたよ。一線を退いてから音沙汰無しでしたけど、こんな所にも来るんですね」

 そんな大輔の背後から声を掛けたのは高山であった。彼も、試乗会のせいで仕事が進まず、暇を持て余しているのだ。

 「えっ! マジっ!? 後でサイン貰いに行こうかな? マズいかな?」

 「大丈夫でしょ。後で二人で行きましょう」

 すでに引退しているとはいえ、日本を代表するレーサーの一人であった杉野は、彼らからしてみれば英雄のような存在だ。こんな滅多に無いチャンスを逃す手は無いだろう。

 「でも、今日の試乗会のメニュー、聞いてます?」と高山が問うた。

 「いや、聞いてないけど・・・」

 「なんか変なんですよ。なんであんな風にしてるんだろ?」

 「変て、何が?」大輔は訝し気な顔を返す。

 「いや、いきなりドライハンドリング路から始まって、次はウェット直線路でブレーキング体感。それから、わざわざ車を降りてバスで多目的エリアに移動して、後ろから車を押す転がり抵抗の実感イベント。ランチを挟んで、今度はウエットハンドリング路を走ってから、最後に外周路の高速走行なんです。おかしくないですか?」

 「えぇっ!? ドライとウエットを交互にやるの? 間に車に乗らないイベントを挟むってのも効率悪いな。いつもの試乗会と違うね。何の意味が有るんだろ、それ?」

 「僕にも判りません。なんでも本社の意向らしいですよ。昨日の夜、突然、川渡かわとさんからメニューの順序入れ替え指示が来たらしく、橋野さんがブーブー言ってましたよ。『部長は受け入れ担当の仕事を軽く見てる!』ってお冠でした」

 橋野が頭から湯気を立てている光景が目に浮かんで、クスリとした笑いを漏らした大輔だったが、今回の理解不能な試乗会メニューが頭から離れない。

 「何なんだろ? 本社がメニューの指定してくるなんて、今まで無かったよね? まるでタイヤを濡らしておきたいみたい・・・ !!!」

 大輔が目を見開いて高山を見ると、彼は鷹揚に頷いていた。

 「僕もまさかとは思ってるんですけどね。試乗会が終わったら、後でガレージの方に見に行こうかと思ってるんですよ。あの時のタイヤって、確かEagle Pilot 2の試作品でしたよね?」

 「さすがにそれは無いだろ。だって、あんなタイヤ上市したら、市場でどんな問題が起こるか判らないぞ」

 「でも、どう見てもタイヤの温度が上がらないようにメニューを組んでますよね。なんかおかしいですって、今回の試乗会」



 試乗会を終えたジャーナリストたちが同敷地内にある大会議場で休憩を取った後、三々五々テストコースを後にし始めた。その頃を見計らって出口に赴いた大輔と高山は、首尾よく杉野忠一を捉まえ、サインを貰って上機嫌で事務所に戻って来た。

 そしてもう一つの懸案事項である、本日の試乗タイヤの確認にガレージに向かった時だ。二人は目の前に広がる風景を見て、自分の目を疑った。


 タイヤが無いのだった。そこには、今日の試乗会で用いたBMWのレンタカーが十台ほど並んでいたが、それら全ての車両のタイヤが、既に標準タイヤに戻されているのにも関わらずだ。


 「あれ? 今日走ったタイヤは何処ですか?」

 後片付けに追われる本社スタッフを捉まえて尋ねてみるが、まだ若い社員らしく「自分には判らない」という返事。

 通常、試乗に用いられたタイヤは、専用ロジスティックを用いて、後日、立川の研究所に送り返される段取りになっているはずなのだが ──その積み込み作業には、彼らテストドライバーたちが駆り出されることになる── 肝心のタイヤが一本も見当たらないのだった。

 そう言えば、テストコースの出口で杉野からサインを貰っている時、その後ろを大型トラックが出て行ったような気がする。まさか、そんなに急いでタイヤを回収し、通常とは異なる便で送り返したと言うのか?


 大輔は、丁度、事務所に向かって戻ろうとしている橋野を捉まえた。彼女は、こういったイベントの受け入れを専門に担当をしている、テストコースのスタッフだ。

 「橋野さん。タイヤは? 今日の試乗で使ったタイヤは?」

 質問された彼女は立ち止まり、今日の仕事で溜まりに溜まった鬱憤を爆発させた。大輔に呼び止められる前から、既に頭から湯気を立てていたようだ。

 「聴いて下さいよ、今居さんっ! 全然話が通ってないんですよっ! 何なんですか、今回の試乗会!

 終わったタイヤから、どんどん取り外してトラックに載せろって言うんですよ。突然そんなこと言われたって、そんなの前もって言っといてくれなきゃ、対応できるわけないじゃないですか!

 そう文句言ったら、本社のスタッフがやるからテストコースの人間は手出さなくてもいいって言うんですよ。お前らはコースだけ貸してくれりゃいいんだって。どう思います? 頭に来るっ!」

 「あぁ、そう言えばやたらと本社の人間が多かったですね。どうどう」と高山が、荒ぶる闘牛を落ち着かせるような仕草で受けた。「設計とかの技術スタッフも混じってたようですし、最初から自分たちでタイヤを回収するつもりだったんでしょう」

 「でしょうじゃないですよっ! 高山さん、どっちの味方なんですかっ!?」

 そんなやり取りを聞きながら、大輔は漠然とした疑念を抱くのだった。


 まさか、本当にあのタイヤを上市するのか?


 自分は確かに、あのタイヤの問題を指摘したはずだ。突如としてグリップ力を失う、身の毛もよだつ様なタイヤであると。あの現象に見舞われたら最後、一般のドライバーは公道上でスピンを起こすか、最悪の場合、対向車線や周辺家屋に突っ込むことになりかねない。大輔や高山が無事でいられたのは、彼らがプロのテストドライバーだったからに過ぎないのだ。

 だから、会社があの報告書を無視して、無理やり欠陥タイヤを世に送り出すつもりだとは信じたくはなかった。だが、今日の試乗会での出来事を振り返ってみれば、全てがたった一つの、そして、そうであってはならない結論に導かれるのを避けられない。その問題点を把握しているからこそ、このような異例尽くしの試乗会が行われたに違いない。


 大輔の目の前では高山と橋野の漫才が続いていたが、それはまるで点けっ放しのテレビのように映像としては視界に入って来るものの、その内容が耳を通して意味のあるものとして聞こえては来なかった。


 会社はあれを売る気なのだ。



組織図5

────────────────────

コービータイヤ

 ├CEO

 │├販売事業管掌

 │ └販売部門

 │  └消費財販売本部(大門)

 │

 └COO

  └技術分掌

   └技術統括部門(野坂)

    ├材料研究本部(堀田)

    │└材料研究部(田辺)

    │ └機能性材料研究課(川嶋)

    │  ・光重真紀

    │  ・本山真治

    │

    ├構造開発本部(横溝)

    │└構造開発部

    │ └数値解析ユニット

    │

    ├設計本部(長田)

    │└乗用車タイヤ設計部(鷲尾)

    │ └消費財タイヤ設計課

    │  ・馬淵一成

    │

    └支援本部

     ├試作工場

     ├室内試験所(堂下)

     │└小型タイヤ試験ユニット

     │ ・神谷直樹

     └実車試験部(川渡)

      ├管理課

      │・橋野由佳

      ├生産財試験課

      │・高山元春

      └消費財試験課

       ・今居大輔

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