3
万理を抱きしめていた両腕を解くと、蘭子は再び彼女の両肩を掴んで、ガバリと身体を引き離す。
「立って! 万理!」
「蘭子・・・」
「いいから立って! 早くっ!」
呆然とする万理の左腕を掴んだ蘭子は、自分が立ち上がると同時に乱暴に彼女を立たせた。そしてそのままグイグイと腕を引っ張りバスルームへと連れ込んだかと思うと、今度はバスタブに立たせた彼女の頭から、勢いよくシャワーを浴びせ掛け始めた。なされるがままの万理は黙ってそのお湯を受け止める。
万理の全身にこびり付く血液を、ゴシゴシと乱暴にこそぎ落とす。自分の服が濡れるのも気にせず、蘭子は彼女の全身を擦った。万理の身体から流れ落ちた興毅の血は、バスタブの底に墨流しのような模様を描きながら排水口へと吸い込まれていった。
大方の血液を落とし切ったと判断した蘭子はシャワーを止め、棚の上のバスタオルを万理の身体に巻き付けた。そしてもう一枚のタオルを彼女の頭に被せ、再びリビングへと彼女を引っ張ってゆく。
万理を床に座らせ・・・ いつもだったら自分はベッドに腰かけて彼女の髪を乾かすのだが、さすがに興毅の死体が横たわるベッドに腰かける気にはなれず、蘭子は乱暴にスペースを作ったローテーブルの上に座った。しかしその角度では、どうしたって万理の視界に興毅が入ってしまう。仕方なく蘭子は再び立ち上がり、ベッドの端に座り直したのだった。
そして万理の頭のバスタオルで髪をかき混ぜながら水分を取り除き、次にドライヤーを当て始めた。最初は強く、そして後半は風量を落として。
万理は大人しく、蘭子の施しを受けている。さっきから何も喋らない。そんな彼女の髪に温風を送りながら蘭子は言う。
「いい? よく聞いて、万理」
「・・・」
「あなたは今から実家に帰るの。この部屋に帰ってきちゃダメ。判った?」
「で、でも・・・」
「判ってる。あなたが家に帰りたくないのは判ってる。父親から酷いことをされた家になんて、帰りたくないことは知ってる。でも今はそれしかないの」
「・・・・・・」
「あなたが家に帰ったら、どんなことになるのかは私には判らないし、何が起こったとしても、私が助けに行くことは出来ない。でもそうするしかないの。約束して。それでも必ず家に帰るって」
「うん・・・」
「ひょっとしたら、また辛い目に合うかもしれない・・・ 酷いことをされるかもしれない・・・ でも、何とかしてそれを切り抜けて! 自分の力で何とかして! ・・・ごめんね、手を貸してあげられなくて」
もう殆ど万理の髪は乾いていた。それでも蘭子は彼女の頭に風を送り続けた。
「そして暫く経って落ち着いたら、自分が何をすべきか冷静になって考えて。あなたは頭のいい娘よ。きっと正解が導き出せると信じてる。大丈夫、あなたなら出来る」
「蘭子・・・」
髪の乾いた万理を立たせ、蘭子は服を着せ始めた。その頃には万理も、ゆっくりとではあるが自分の下着を付けることが出来る程には復活していて、それを見た蘭子は、下着は彼女に任せることにした。その代わり自分はクローゼットをまさぐり、その中から万理のお気に入りである、SPINNSのストリートコーデの組み合わせをチョイスしてテーブルに置く。
それを身に付けた万理を一歩下がって見た蘭子は「うん」と納得し、自分のポケットから取り出した財布の中から一万円を抜き取って、万理のポケットに押し込んだ。そして彼女のスマホを手に持たせ、ゆっくりと玄関へと
「いい? 家に帰るんだよ」
シューズを履き終えた万理が振り返る。二人の視線が重なる。堪え切れずに蘭子が万理を抱き寄せると、二人はそのまま長い口づけを交わした。沓脱に降りている万理はいつもより背が低くく、それが不思議な感じがした。
そして唇を離した万理が、蘭子の肩に顔を埋めながら言う。
「これで最後じゃないよね、私たち?」
「馬鹿。そんなわけ無いよ」蘭子は更に強く万理を抱きしめる。「必ず迎えに行くから。約束するから。だから・・・」
自分が興毅を殺してしまったことよりも、私と離れることの方が万理にとっては重要なことなのだ。蘭子はこみ上げる感情で喉を詰まらせた。
「だから頑張って。その時まで頑張って」
蘭子は自分が乾かしてやった万理の柔らかな髪を撫でながら、いつまでもこうしていたいと思うのだった。そしてそれは、万理にとっても同じだった。でも二人は、次の一歩を踏み出さねばならないのだ。
立ち去り難い想いを残しながら、万理はゆっくりと玄関ドアを閉めた。最後の最後まで、「冗談だよ。戻っておいで」と言ってもらえることを期待するかのように。しかしその隙間が完全に閉じられる瞬間、蘭子は声に出さずに、口の形だけでもう一度言ったのだった。
「が・ん・ば・っ・て」
バタリとドアが閉まると、その向こうで万理がしゃがみ込み、その場で泣き崩れる様子が伝わってきた。蘭子はドアを開けて、もう一度万理を抱き締めたいという渇望を奥歯で噛み砕き、その想いが溢れ出さないように天井を見上げた。玄関とバスルームを隔てる壁に背中を預けながら、抑え込み切れなかった想いが一粒だけ彼女の頬を伝った。
どれくらい玄関にいたのだろうか? 五分か? 十分か? もしかしたら一時間ほども、そこでそうしていたような気もした。気が付けば、既にドアの向こうに万理の気配は無い。蘭子はヨタヨタとリビングに戻り、そしてベッドを見下ろした。そこには、先ほどと同じ姿勢で興毅が横たわっていた。
一時期は毎日のように肌を重ねた興毅が、血の海となったベッドで体温を消失し始めている。馬鹿な冗談を飛ばし合った口はわずかに開いたまま固まり、もう二度と声を出すことは無い。お気に入りのレスポールを奏でて、ご機嫌なフレーズをつま弾いていた指も動かない。輝きを失った彼の目には、もう蘭子の姿が映り込むことも無いらしい。蘭子には、それを現実のこととして感じることが出来ないのだった。
その現実離れした興毅を見つめながら、万理にシャワーを浴びせた際に濡れた衣服を、蘭子は一枚ずつ脱いでいった。そして全ての着衣を脱ぎ捨てて全裸になると、万理が巻いていたバスタオルで濡れた身体を拭こうかとも考えたが、直ぐに思い直し、そのままにしておくことを選択した。彼女はゆっくりとベッドに近付き、興毅の上に重なった。
間近で見る興毅は、惨たらしい有様だった。左の頸動脈を鋭利な刃物で寸断され、そのパックリと開いた傷口からは内部の赤い組織が垣間見えている。しかしそこから鮮血を
普段であれば、そのような光景を見せられたら気が遠くなったり、或いは気分が悪くなったりするはずだった。でも今の蘭子には、そのような生理的な感情は巻き起こらなかった。
だって、もう一人の大切な人だった興毅の人生が、たった今、ここで幕を閉じてしまったのだから。熱く語っていた北海道の牧場に、彼が行くことは出来ないのだから。私と築こうとしていた未来も、もう潰えてしまったのだから。今、彼が失いつつある体温と同じように、それらの夢も静かにフェードアウトしてゆくのだから。
全てが私のせいなのだ。そう思った途端、蘭子の心に度し難い悲しみがこみ上げて来るのだった。
「ごめんね、興毅・・・ 全部、私のせいだね。何もかも私が悪いんだ。ごめんね。本当にごめんね」
そうして蘭子は、興毅の上でゆっくりと身体を揺らし始めた。二人で激しく求め合ったあの頃のように、胸と胸を重ね合わせたまま、お互いの肌の感触を確かめ合うかのように。
あの時、興毅の部屋を満たしていたのは、安物のベッドが軋む音と蘭子の甘く切ない吐息だった。でも今は、彼女のすすり泣く声がそれに代わっている。その合間に、囁くような「ごめんね」という声が散らされた、もの悲しい音だ。キシキシと鳴るベッドと、ピクリとも動かぬ興毅が対照的で、蘭子が負うべき罪の重さを際立たせるのだった。
一しきり身体と身体を擦り合わせた蘭子は動きを止め、ベッドと壁の隙間に右手を差し入れた。シーツに残る血痕からして、
取り上げてみるとそれは、OLFAと呼ばれる黄色い柄のカッターナイフだった。刃先を折って切れ味を維持するように作られたそれは、興毅の鮮血を浴びてむしろオレンジ色に変色している。彼の胸の上に横たわったままそれを見つめる蘭子は、その変色したカッターナイフを何度も握り直して十分手に馴染んだと思えると、再びベッドと壁の間にそれを戻した。
そしてゆっくりと体を起こす。
「北海道・・・ 行ってみたかったな・・・ 素敵な夢をありがとう」
最後にもう一度だけ、興毅に口づけた。
興毅の上から降りた蘭子は自分の胸や体を見回し、彼の血液が十分に塗りたくられていることに満足すると、ベッドの端に腰かけた。そしてローテーブルの上に置かれた自分のスマホを取り上げて、通話アプリを立ち上げる。次いでテンキーで短い電話番号を入力した彼女は、それを耳に当てた。
『・・・ ・・・ ・・・』
間髪入れず、相手は直ぐに電話に出た。蘭子は一つ、息を飲む。
既にその時の蘭子の表情は、先ほどまでの悲しみに暮れたものではなく、力強い決意の籠ったそれだった。まるで自分が守るべき対象が明確な、母性にも似た迷いの無いものだった。
「もしもし警察ですか? あの・・・ 私・・・ 彼を殺してしまいました」
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