女子高校生相手に、同性愛だ何だという話を持ち出して良いものやら判らず、興毅の相談とやらは全くもって的を得ないものだった。冷静になって考えてみれば、未成年にそんな相談を持ち掛けたところで、ちゃんとした答えが返ってくるはずも無い。興毅は話をしながらそういう思いに至り、既に何らかの結論が形成されることは諦めていた。

 「だからさぁ、最近、俺、蘭子の気持が判らないんだよね。変な嘘までついて、そんなに俺のことが嫌いなのかなって。そんなんだったらはっきり言ってくれた方が、よっぽど楽なんだけどねぇ」

 「はっきり?」

 「そう。はっきり。男って基本、うぶだから、そういうのって逆に傷付くんだよな」

 万理は小悪魔のような、うっすらとした笑みを湛えた表情で言う。

 「じゃぁ、私からははっきり言っちゃうね。大事な話だよ。蘭子は言わないかもしれないから」

 「? 何を? 大事な話って?」

 「蘭子、北海道には行かないよ」

 一瞬、虚を突かれたように言葉を失った興毅だが、半ば予期していた答えが返ってきて、逆に気持ちが落ち着いた。認めたくはなかったが、蘭子がそう結論付ける覚悟はできていた。むしろ蘭子のあやふやな態度で、かえって苦しめられていたことは否めない。そう考えれば、やっと楽になったとも言えるじゃないか。答えを先延ばしにされる身になれば、それは拷問のようなものなのだから。

 「そっか・・・ やっぱりそうか・・・ 蘭子に聞いてくれたんだ? ありがとう。で、何か理由は言ってた?」

 「ううん。聞いてない。聞かなくても判るから」

 「えっ? で、でも・・・」

 「理由は私がいるから」

 万理は興毅の目をジッと見つめてそう言った。興毅はその言葉の真意が汲み取れず、仕方なく口をつぐむ。

 「実は私、蘭子の従妹じゃないの。受験を控えてるってのも嘘。本当は両親と上手くいかなくて、家出してるところを蘭子に拾われたんだ。二年前の新宿で。

 それ以来この部屋に転がり込んでるんだけど・・・ 蘭子、私のことをすっごく大切に思ってくれてるから、私を置いて北海道に行くことなんて絶対に有り得ないわけ」

 「・・・・・・」

 「私たちの仲って、そういうことなんだ」

 興毅の頭の中では、蘭子の言葉が蘇っていた。


 『彼女は従姉妹なんかじゃなく、私の一番大切な人なの』


 「でも一つだけ、方法が有るよ」

 まだ状況が飲み下せない。頭が混乱している。だが今は、万理の言葉にすがるしかない。興毅は身を乗り出した。

 「ど、どんな?」

 「興毅さんが私を愛してくれること」

 開いた口を閉じることも忘れて、興毅は動きを止めた。

 「勿論、蘭子を捨ててって意味じゃないよ。蘭子と同じように、私も興毅さんに愛されるの」

 「い、いや、万理ちゃん。それは・・・」

 「もしそうなるんだったら、私、北海道に行ってもいいかな。そうすれば蘭子もOKすると思う」

 「そんなこと、出来るわけない」

 「どうして? 蘭子もそれを望んでるんだよ。自分からはそう言えないだけ」

 「蘭子も?」

 興毅は目を剥いた。蘭子が自分はバイセクシャルと言っていたのは本当だったのか? と言うことは、万理もそうなのか?

 「そう。蘭子も」

 そう言って万理は興毅の首に両手を回し、そこに体重を預けるようにしながら後ろに倒れた。するとローテーブルがガタリと鳴り、仰向けに寝た万理の上に興毅が重なった。長身な万理の、短めのララ・スカートから伸びる健康的な脚が興毅のそれに絡み付く。毛足の長いラグに横たわる万理が、女子高生とは思えぬ怪しい笑みを興毅に投げかけた。

 「ほら、蘭子を抱くように、私のことも抱いて。私にも同じことをしてみせて」



 渋谷の街をブラついていた蘭子は、一つの可能性に思い当ってソワソワし始めていた。

 最初は万理に謝罪する心の準備を整える為、訳もなくウィンドウショッピングをしていた筈だった。それは功を奏し、彼女の心は次第に晴れていった。しかし、興毅に別れを切り出したあの時の荒れ狂う心の奔流が影を潜め、平静さを取り戻し始めた矢先のこと。今度は、嫌な胸騒ぎが蘭子を襲い始めたのだ。


 ウィンドウに映る自分の姿を見た時、蘭子は妙な違和感を覚えた。そこに映る自分は、いつも鏡で見るいつも通りの自分だ。伸び始めた髪が少し違った印象を与えたが、そこにいるのは紛れもない自分だった。

 しかし・・・ と蘭子は思う。鏡の中の自分は、実は虚像なのだ。右目の下にある黒子ほくろは、鏡の中では左目の下だ。左の髪をかき上げて耳に掛けると、その女は右耳を出す。自分自身を映し出している筈の鏡の中の私は、左右が反転した似て非なる虚構でしかない。結局、人は自分自身を直接見ることは出来ないのだ。

 もしそうなら、今の自分を取り巻く状況を、私は正確に捉えられているのだろうか? 自分と万理、そして興毅が作り出す三角形は、果たして自分が思った通りの形なのだろうか? そこまで考えた時、蘭子はある一つの可能性に行き当たり、ハッと息を飲んだ。


 三角形の頂点を成す万理が、興毅側に傾く可能性を忘れていた!


 そう考えてみれば、最近の万理の意外なまでの行動力を目の当たりにしたばかりではないか。突然、大学に姿を現したかと思えば、いつの間にか興毅に近付き、私たちの生活に引き摺り込んでしまった。従姉妹だという話をでっちあげ、まんまと彼を騙したばかりだ。蘭子は彼女が自分の側に寄ってくる形の三角形しか想定していなかったが、何らかの意図を持って万理が興毅に近付く状況も捨て切れない。


 そしてその「意図」とは?


 なかなか発車しない渋谷始発の電車が、やっと駅を出たのが夜の九時過ぎ。その電車が網島駅に滑り込むや否や、蘭子は小走りに駆け出した。気が競って仕方がない。あまりに急ぎ過ぎて、自動改札が定期券を認識できずにゲートを閉じて、つんのめりそうになったほどだ。

 それでも蘭子は歩調を緩めることが出来なかった。先程から、何度LINEを打っても、万理からの返事が無いのだ。道行く人も疎らな街の、暗く沈んだ住宅街を足早に歩きつつ何度目かのLINEを打つが、やはり既読にすらならない。


 馬鹿々々しい。蘭子はそう自分に言い聞かせた。いったい何が起きると言うのだ? 私が浮気をした腹いせに、彼女が興毅と寝るとでも言うのか? そんな馬鹿なことなど、起こるはずがないじゃないか。歩きながら、今度は興毅に電話してみる・・・ 反応無し。イライラしながら万理に電話を掛ける・・・ やはり出ない。

 それとも、私の想像もつかない何かが起きようとしているのだろうか。考え過ぎだ。しかし、そう思えば思う程、蘭子の心中では得体の知れない何かが暗雲を立ちこませるのだった。


 (今、何をしているの、万理? 今すぐ謝りに行くから、そこで大人しく私の帰りを待っていて! お願い!)


 アパートに着いた蘭子は、転がるように階段を駆け上る。そして自室の玄関ドアの前に立ち、ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込もうとした時、あまりにも焦り過ぎてそれを落としてしまった。何故か手が震えた。寒さに震える、か弱い小鳥のように。慌てて鍵を拾い上げ、呼吸を整えてから再び鍵穴に差し込んだ。


 あんなに急いでいたのに、実際にドアを開く際には妙な予感に圧し潰されそうになって、恐る恐るにしか開けることが出来なかった。躊躇いがちに引いたドアの隙間に半身を滑り込ませ、蘭子は部屋の中を覗き見ながら言う。

 「ただいま・・・ ごめんね、遅くなって」

 室内では、蘭子が見たことの無い赤い服を着た万理が、こちらに身体の左側を向けてローテーブルの前に座っていた。彼女はゆっくりと首をひねって玄関の方を見たかと思うと、不器用な笑いを顔に張り付けた。

 「お帰り、蘭子」

 「ごめん。もうちょっと早く帰るつもりだったんだけど・・・」

 やっぱり、何も起こるはずなど無かったのだ。興毅と別れて妙な気分になったせいで、在りもしない可能性に心が奪われてしまっただけだったのだ。万理の顔を見て安堵した蘭子は、ホッと胸を撫で下ろす。

 「晩御飯、何か残ってる? お腹空いちゃった。私、何も食べてないんだ」

 そしてスニーカーを乱暴に脱ぎ捨てて部屋に入った瞬間、蘭子は万理の着る真っ赤な服に目を奪われた。

 「万理・・・ あなた・・・」


 万理は全裸だった。赤い服だと思ったのは血液だった。


 急いで駆け寄った蘭子は、万理の肩に両手を置き彼女の身体を揺さぶった。

 「万理! どうしたの!? 何処か怪我したの!? しっかりしてっ!」

 しかし万理は、蘭子の背後をぼんやりと眺めながら首をグラグラさせるだけで、何の反応も示さない。蘭子の言葉も耳に入らないのか、「お帰り」と言った切り、もう目も合わそうとはしないのだ。

 (まさか自殺を図ったのか?)

 蘭子は急いで万理の両手首を確認したが、傷らしきものは見当たらない。じゃぁいったい、この血はなんだ?

 やみくもに自分の鼓動が速くなるのを感じた。急いで帰ってきたせいで喉がカラカラだったが、今感じている渇きはそのせいではない。何かが起きている。何か得体の知れないことが、今まさに進行中なのだ。その恐怖にも似た感情で、彼女の喉は潤いを求めて悲鳴を上げているのだ。


 その時蘭子は、先ほどから万理がしきりに視線を送る自分の背後に、何かの存在を感じた。蘭子はゴクリとつばを飲み込もうとしたが、乾き切った口の中には何の液体も存在しなかった。そして万理の両肩に手を添えたまま、恐る恐る後を振り返る。

 その蘭子の目に飛び込んできたのは、万理と同じく全身血まみれになった興毅だった。

 「ひっ・・・」

 思わず口許を押さえ後ずさる。

 ベッドに仰向けで横たわる興毅も全裸だった。虚ろに開いた眼は生気を失い、ただぼんやりと天井を見上げている。彼の萎んでしまったペニスにコンドームは装着されておらず、未開封のものが枕元に転がっていた。

 事態は明白だった。興毅は死んでいる。そしておそらく、いや、間違いなく万理が殺したのだ。そして興毅からの返り血を浴びたのだ。


 再び万理の方を見ると、今度は疲れ果てたような顔で彼女は言った。

 「もう大丈夫だよ、蘭子・・・ 私が蘭子を守ってあげる・・・」

 そうして蘭子を見上げた彼女と目が合うと、蘭子はこみ上げる感情を抑えきれずにその華奢な身体を抱き締めた。

 「万理・・・ 万理・・・ 馬鹿なことを・・・」

 立ち膝の蘭子に抱き締められながら万理は言う。

 「大好きだよ・・・ 蘭子・・・」

 「私も大好きだよ、万理」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る