第三章:いびつな三角形
1
「ちょっと待てよ、蘭子!」
大学の校門を出た下り坂を足早に歩く蘭子の後ろから、興毅が追いすがる。
「ちょっと待てって言ってるだろ!」
無理矢理掴まれた腕を振り払うようにしながらも、蘭子は足を止めて振り返る。しかし彼女は睨み返すように見つめるだけで、何も言葉を発しない。
「最近、どうしちゃったんだよ? 俺のこと、避けてるよね? 理由を教えてくれよ」
「・・・」
「まさか、俺が万理ちゃんと仲良くやってるのが気に入らないの? そりゃぁ、蘭子に黙ってたのは悪かったって思ってるよ。でも最初は、二人が従姉妹だってことを知らされてなかったんだから、しょうがないじゃないか」
「興毅・・・」
「ひょっとして、俺と万理ちゃんの仲を疑ってるとか? 馬鹿だなぁ、そんなの絶対無いから」
蘭子は自分の意気地の無さを呪った。興毅と別れる決心が付いたはずだったのに、いまだにズルズルと言葉に出すことを先延ばしにしている。こんなんだから二人を傷つけたんじゃないか。何もかもが自分のせいじゃないか。こうやって躊躇している間にも、万理の心の傷口からはドクドクと真っ赤な鮮血が流れ出続けていることを考えろ。興毅の胸を膨らませているのは夢や希望などではなく、私という悪性腫瘍なのだということを知れ。そんな二人を救ってやれるのは、自分だけなのだ。
(救うだって? 私は何様のつもりだ?)
この期に及んで自分を守ろうとしている自分自身に呆れた蘭子は、冷め切った嘲笑を己に投げ付けた。
「興毅、聞いて」
「?」
「私たちの関係、もう終わりにさせて欲しいの」
蘭子の口から発せられた言葉の意味が理解できず、興毅が固まるのが判った。
「ごめん、興毅。私の自分勝手な言い分だってのは理解してるの。興毅の気持を無視した、酷い仕打ちだってのも判ってる。でも・・・ ごめん・・・。本当にごめん」
そう言い残して背中を向け、再び歩き出そうとする蘭子。そんな彼女の腕をもう一度掴み、こちらを振り向かせた興毅は、出来の悪い冗談にどう返したらよいか判らない風に言った。ただ、振り返った蘭子の様子がそれを冗談ではないと告げていて、自分らを取り巻く状況を飲み下せずにまごついていた。
「ば、馬鹿。何言ってんだよ。ほら、蘭子が言った通り、もうすぐ万理ちゃんの受験だろ? ちょっと追い込み始めないと間に合わないと思ってさ」
「・・・」蘭子は悲し気に見つめ返すだけで、何も言ってはくれなかった。
「判るよ。でもそれって、万理ちゃんの受験が終わるまでってことだよね? 彼女が勉強してる時に、俺たちだけ別の所でいちゃツイてるって訳にはいかないからね。それじゃ彼女も集中できないし。でも理数系の科目なら、俺の方が・・・」
「興毅!」
彼の言葉を遮るように、蘭子は語気を強めた。
「ごめんなさい、興毅。私、今まであなたを騙してた」
「だ、騙してた・・・?」
「私・・・」
遂に真実を告げる時が来た。私の本当の姿を曝け出す時が来たのだ。どうして隠さねばならないのか蘭子には判らないが、それはきっと、それを聞く側への配慮なのだろう。
「私、レズビアンなの・・・ ううん、きっとレズじゃなくて、バイセクシャルなんだと思う」
世の中では「ダイバーシティ」だの「ジェンダー」だのと、さも多様性を受け入れているかのような、或いは受け入れるべきだとの風潮著しいが、個人個人の生活の場においてそれは、未だに市民権を得たとは言い難い。先のスローガンはあくまでも社会の進むべき理想の方向性を指し示しているだけで、自分の隣に座る人がそうだった場合、そうでない人がどう受け入れるかはスローガンによって決まるものではない。従って、それを開示するというのは ──少なくとも現段階では── 一種の賭けなのだ。
「だから・・・ だから万理は私の恋人なの。彼女は従姉妹なんかじゃなく、私の一番大切な人なの」
一方で、自分のように万理という恋人がいる場合は救いが有るが、一人でこの社会に溶け込んでゆくのは並大抵の努力では済まない筈だ。それを隠して生きるということは、その当人にとって途轍もないストレスを与えることなのだから。
同時にその偽りの仮面は人の心を蝕んでゆく。本当の自分を押し殺すことで、どんどん心が引き裂かれ、バラバラになって自分が壊れてゆく。自分が自分らしく、在りのままの姿で生きてゆける環境なんて、そんなに簡単に見つかるものではない。
「あなたに抱かれてる時は女だった。あの時、私は本気で女だった。私の女の部分を受け入れてくれたあなたが、好きだった・・・。でも、これ以上万理をを裏切って、あなたの元に行くことは出来ないの・・・。だから・・・」
こみ上げてきた感情で、蘭子の喉が詰まる。しかし興毅が、突然、馬鹿笑いを始めた。
「ぶっ・・・ ふぅぁっはっはっは!」
身体をくの字に曲げ、腹を抱えて苦しそうだ。
「あっはっはっは! 何だよ、それ? どんなオチが有るのかと思ったら、レズビアンって・・・ くっくっく・・・」
ひょっとして、本当に別れ話を持ちかけられたのかと心配していた興毅は、レズビアンというオチに大爆笑だ。
「ひぃ~。参った。こりゃ久々にウケた。あっはっは」
蘭子は賭けに負けた。いや、そもそも賭けが成立しなかったのだ。蘭子が真の姿を晒しても、それを受け入れるでも拒絶するでもなく、興毅は信じなかったのだ。そんなことは有り得ないと笑い飛ばしたのだ。
やはり私を、在るがままの私を受け入れてくれるのは万理だけなのだ。そんな大切な人を、私は惨たらしく傷つけたのだ。その現実を突き付けられたことで、彼女を内側から突き上げていたものが、一斉に溢れ出す。堰を切った流れが、容赦なく蘭子の頬を伝って落ちる。
「ごめんね、興毅。許して」
蘭子はそれを隠すように踵を返して駆け出した。
突然のことに声を掛けることも出来なかった興毅の目の中で、坂を走り下る蘭子の背中が遠ざかっていった。彼女の後姿は、大学に向かって坂を上ってくる学生や、授業を終えて坂を下ってゆく学生たちの人波に紛れ、直ぐに見えなくなった。
興毅はそれを、ただ茫然と見送った。
『どうしたの、蘭子?』
電話の向こうから聞こえる万理の声は、本当に優しげだった。興毅とあんな別れ方をした後だからこそ、なおさら彼女の優しさが心に沁み、また涙が溢れそうになる。
「ううん、なんでもないの。でも今日はちょっと遅くなるから、それだけ伝えとこうと思って」
こんなに泣き腫らした顔で帰ったら、万理が心配するだろう。もう少し心を落ち着かせてから帰りたかった。そして、もう一つの課題に取り組まねばならない。その為には、気持ちをしっかりと持って万理の前に立ちたかった。
興毅の件は、自分なりに白黒を付けたつもりだった。興毅がすんなり納得するとは思えないが、彼との関係性においては、別れを切り出すという不可避な一線を越えたのだ。後は状況を如何に収束させてゆくかだろう。二人の間がこじれるかもしれないし、酷い修羅場が待っているかもしれない。だが、それを引き起こしたのは自分だ。その結果として巻き起こる全てのことに、自分は責任を持たねばならないのだ。蘭子にはその覚悟が出来ていた。
そしてもう一つの課題、それが万理だ。
興毅と別れられたからと言って、万理に対する背信の罪が帳消しになるわけではない。彼女には全てを包み隠さず懺悔し、そしてその上で赦して欲しいのだ。そして再び、以前のような恋人同士に戻り、水入らずの生活を取り戻したい。その為には、どんな𠮟責も、罵倒も、殴打も、或いは凌辱すらも受け入れるつもりだ。
本当のことを話せば、万理は泣くだろう。怒り狂うかもしれない。或いは出て行ってしまうかもしれない。でも、どんなに惨めに這い蹲ってでも、蘭子は万理の赦免を
『そうなんだ? バンドの人たちと一緒?』
「ううん、一人だよ。十時ごろまでには帰るから。悪いけど晩御飯、一人で食べといてくれる?」
『うん。判った。じゃぁ気を付けてね』
「うん、ありがと。じゃぁね」
『じゃぁね』
嘘だと万理は思った。興毅の部屋に行くつもりなのかもしれない。いや、興毅が無理矢理連れてゆくのに違いない。
私の大切な蘭子を愛玩人形のように眺め、弄び、舐めまわし、そして私が見つけたあのコンドームを装着して、嫌らしく貫くのだ。興毅の卑猥な指や舌や、或いは腰の動きに合わせ、蘭子は快感を得た振りをするのだろう。そして何度となくイッた風を装って女の声を上げるに違いない。だってそうしないと、男は機嫌が悪くなるのだから。
そして最後には、コンドームを取り外したペニスを咥えさせて、それを綺麗になるまで舐めさせるのだ。それが男という愚劣な生き物が、女にする仕打ちなのだ。
だが、蘭子にそのような屈辱を味合わせることは出来ない。そんな暴挙を放っておくことは許されない。
万理は蘭子との通話を終えると、直ぐに別のナンバーを選択し、そしてスマホを耳に当てた。
「あっ、もしもし。興毅さん?」
『おぉ、万理ちゃんか。どうした?』
すぐ隣に蘭子がいるのだろうか? だとしたら、かなりの演技力だと万理は思った。
「あの、今からこっちに来れないかな?」
『今から? あぁ、構わないよ。数学の問題かな? オッケー、オッケー。ってか、俺の方も万理ちゃんに聞きたいことが有るんだ』
「聞きたいこと?(あれ? 蘭子と一緒じゃないのか? というか、今日は蘭子と会う予定すら無いということなのか?)」
『うん。蘭子のことなんだけど・・・』
「判った。恋の相談、みたいなことでしょ?(じゃぁ蘭子はいったい、何処に行くと言っているのだろう?)」
『あははは。まぁ、そんなところかな。んじゃぁ、直ぐに向かうから。二十分くらいで着くと思う』
「はぁ~い。じゃぁ待ってま~す」
だが、そんなことは問題ではない。蘭子を屈辱から解放するという大事の前では、取るに足らない小事でしかない。万理はスマホをローテーブルの上に戻すと、一つ大きな息を吐いた。
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