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用事が有るとかで興毅は早めに帰宅した。蘭子はむしろ、それを歓迎したほどだ。普段であれば、そのまま彼の部屋に行って・・・ という流れになるところだったが、昨夜の万理との息の詰まるような会話が尾を引き、今はとても興毅と抱き合う気分にはなれなかったからだ。それに、万理との
興毅は「家庭教師みたいなもの」と言っていた。今更バイトでも始めたのだろうか? いずれにせよ、彼と逢うことなく帰宅することは、精神的にこの上ない安堵感を蘭子に与えるのだった。
今日は万理と、いつもよりいっぱいイチャイチャしよう。いつもはシャワーだけだが、たまにはバスタブにお湯をはって、二人でキャッキャ言いながら入るのもいいだろう。夕飯の準備がまだだったら、外に食べに出てもいい。そんな風に思いながらアパートの玄関の鍵を回し、ドアを開けた瞬間、中から聞き覚えのある笑い声が飛び出してきた。
蘭子は息を飲む。
「あはははは。全然ダメじゃん! 万理ちゃん、もう少し頑張らないと。過去完了形の形は絶対忘れないようにね」
蘭子は目を見開いて、ドアを思いっ切り開けた。するとこちらに背を向けてローテーブル向かっている万理の後姿が目に飛び込んできて、その奥にこの部屋には不似合いな大きな影が重なっていた。その影は身体を傾けて、万理の肩越しにこちらを見たかと思うと、能天気な声を上げる。
「おぉ、蘭子。お帰り。お邪魔してま~す!」
万理も振り返る。
「お帰り~、蘭子」
心臓が止まるかと思った。まるでテレビドラマのワンシーンに、紛れ込んでしまったかのような錯覚を覚えた。目の前で繰り広げ有れている光景を、現実のものとして受け入れることを、蘭子の脳はどうしても拒むのだった。
「な・・・ 何?」
思考が停止してしまいそうな程の混乱に陥る蘭子の気も知らず、興毅はお気楽なものだ。
「何じゃないよ。英文科なんだから、もうちょっと万理ちゃんの英語、見てやれよ。これじゃぁウチみたいな三流大学でも危ないぞ」
「あー、ヒドイ! 興毅さんたら! クスクスクス」
万理は色を失う蘭子の表情を楽しむかのように笑った。それは蘭子の知らない万理だった。
「どうして興毅を連れてきたの?」
「いいじゃない、別に。興毅さんとは、結構仲がいいんでしょ? 従姉妹だってことにしてあるし。私、大学受験を控えて、蘭子の部屋に居候してるってことになってるから、話、合わせといてね」
「・・・・・・」
「あっ、私たちが恋人同士だってことは内緒にしてあるから、その辺は心配しないで」
「万理・・・」
蘭子は彼女が感付いていることを確信した。私が興毅に抱かれていることを疑っているのではなく、確信しているのだ。いや、確信ではなく
だったら目的は何だ? 私たちの間に何も知らない興毅を挟みこんで、万理はいったい何をしようとしているのだ? 三人の関係を白日の下に曝け出し、彼を追い詰めようとでも言うのか?
そこまで考えて蘭子はハッとした。
違う! 挟まれているのは興毅ではない。私だ! 私をこの複雑な関係性の ──それを複雑にしているのは、他でもない自分自身なのだが── ど真ん中に放り出して、お灸を据えようとしているのだ! 自分以外の人間、ましてや女ではなく男の肌に溺れる私に、痛烈な反撃を加えようとしているに違いない!
嫉妬だ。蘭子はそう思った。
ユニットバスから出てきた興毅が、トイレの最中にたまたま思い付いたアイデアを早く言いたそうに戻ってきた。
「へっへっへぇ~。いいこと思い付いたぞ」その極上の妙案にご機嫌な様子でテーブルの前に立つ。「俺が受験ん時のノートとかが実家に有るはずだから、お袋に言ってそれを送ってもらうよ。今からノートまとめるよりは良いだろ? 数学、英語だったら残ってると思うんだ。物理とか化学とか、理系科目は必要無いよね?」
「わぁ~、有難うございます! 助かります!」
「まぁ、英語は蘭子に教えて貰った方が良いかもしれないけどな」
「はぁ~い」
素直な良い子らしく返事をした万理は、興毅の腕を掴んで無理やり座らせるようにして言う。
「ねぇ、興毅さん。今日は晩御飯、食べて行くでしょ? たいしたおもてなしは出来ないけど、私が作ったもので良ければ、いっぱい食べていってね」
「へぇーっ! 万理ちゃんが作ったの? 料理得意なんだ? そりゃ楽しみだ」
こうして始まった奇妙な三角関係は、万理がキャスティングボードを握る形で推移した。興毅は蘭子と万理の関係に何の疑いも抱いてはおらず、言ってみれば不動の定点だ。一方、蘭子も自身の行動を決めかねており、悩み葛藤し、躊躇し佇んでいるという点においては、興毅と同じく定点と言えた。
そうなると、残りの一点である万理によって三角形の形が決まる。蘭子と興毅を結ぶ線を底辺とした場合、頂点を成す彼女の立ち位置次第でそれは安定的な正三角形にもなるし、鋭利な刃を含むいびつなものにも成り得るのだ。そして万理には、それを安定化させる気など毛頭無いことは明白だった。
蘭子は自分を許すことが出来なかった。自分の浅薄な行動によって彼女を傷付けてしまったのだから。この件に関して万理には何の落ち度も責任も無く、有るのは全て自分が負うべきものだ。いっそのこと、万理に口汚く罵られ、鞭打つように殴ってくれたら、どんなにか気が楽だろう。彼女の拳ならば、蘭子は何度でも甘んじて受け入れるつもりだった。
(万理の前で全てを懺悔し、許しを乞うべきか?)
蘭子は思う。以前自分は、彼女を無理矢理犯そうとした。その後にこの部屋から追い出した。そしてまた彼女の信頼を裏切り、万理の心に深い創痕を刻んでしまった。勿論、万理を実家に帰した後に ──少なくとも蘭子は、万理が親元に戻ったと信じていた── 興毅との関係が進展したことを考えれば、それは言う程の裏切りではないのかもしれない。だが、自分が彼女に投げかけた言葉を手繰り寄せてみれば、自分の行いは万理に対する背信行為に他ならないではないか。こんなろくでなしの自分に、免罪を求める権利など有るのかと。
彼女がこの部屋を出て行った日の会話が、蘭子の心中にありありと浮かんできた。
『万理には私の元に戻ってきて欲しい。また一緒に暮らしたい。今度こそ胸を張って、堂々とね』
同時に興毅との関係に対する悔恨の念が絶えない。彼の真摯な心を弄んだと言われても釈明の余地が無い。彼に抱かれることによって、自分の中に得体のしれない感情が湧き上がってきたことは否定できないが、それこそが万理に対する裏切りなのだ。一方で興毅を騙し続けているという事実も変わらない。
『何それ? お誘いに有効期限は無いってこと?』
そう、自分は興毅を騙しているのだ。あくまでも軸足は万理なのだ。自分すらも騙せるかと思えたが、やはりそれは無理な相談だったのだ。この譲ることの出来ない一点を、最も大切な鉄則を忘れてはならない。さもなくば私は、自分自身を失ってしまうだろう。自分が何者で、何処に行こうとしているのか、それすらも判らず無目的な時間を浪費するだけの
果たして万理は許してくれるだろうか?
興毅は笑って受け入れてくれるだろうか?
二人を傷つけずに事態を収拾することなど出来る筈もない。心が痛い。だが、それを恐れたからこそ、それを断行する勇気を持てなかったからこそ、引き返すことの叶わぬ深みにどんどんと嵌ってしまったのではないか。二人ともが、無責任な私の被害者なのだ。血を流すべきは私だ。自分を取り巻くすべての人に低く平伏し、私は許しを乞わねばならない。それくらい自分は愚かだったのだ。
蘭子はそんな単純なことに、ようやく気付いたのだった。
そんなある日、テレビのバラエティー番組を見ながら笑い転げている万理に、蘭子が躊躇いがちに声を掛けた。二人の優しさに甘えて、いい加減な態度を取り続ける自分に愛想が尽きた蘭子が、遂に懺悔をする決心をしたのだ。
「ねぇ、万理・・・ 私・・・」
首を回してこちらを見た万理は、蘭子の表情から決意にも似た心の動きを察知し、僅かな緊張をその顔に覗かせた。そして蘭子の言葉を遮るように言う。
「あっ、そうだ! クリーニングに出しておいた、蘭子のリクルートスーツ! うっかり、取りに行くの忘れてた! そろそろ会社訪問とか考える時期でしょ?」
「えっ? あ、あぁ、ありがとう。それはいいからさ・・・」
「それとも今時はコロナで、面接とかもリモートなのかな? だったら上着だけで良かったのかも、クリーニングに出すの。あははは。上だけはピシッとしてて、下はパジャマっての有りがちなパターンだよね」
蘭子の言葉を聴こうとしない万理。それは彼女なりの意思表示なのかもしれない。
「蘭子がOLさんになって、スーツで出勤する姿なんて想像できないなぁ。だって、いつだってGパンとTシャツなんだもん。でも、きっとスーツ姿の蘭子ってカッコいいと思うよ」
万理は夢見るような仕草で、天井を見上げた。
その様子を見て蘭子は納得した。万理は私の言葉を、これから話そうとしていることを、私と興毅との間に何が有ったのかを聞きたくはないのだ。それは「お前の言い訳なんて聞くものか」という攻撃的な姿勢の現れではなく、それを聞く心の準備が出来ていないということなのだろう。聞けば腹も立つし、許せない想いに駆られるかもしれない。根掘り葉掘り、事細かに二人の情事の様を聞きたくなってしまうかもしれない。
でも万理が一番恐れているのはそんなことではない。自分の知らない所での私と興毅の関係を知らされて、自分が深く傷付いてしまうことなのだ。聞きたくも無いことを聞かされて悲観に暮れ、二人の関係が冷め切ってしまうことなのだ。
「万理・・・」
蘭子は今、自分が取るべき行動が判ったような気がした。自分の責任の取り方が、やっと明確になったのだ。万理に謝罪したり、非難されたりするのはその後だ。その前に私には、白黒決着を付けねばならないことが有る。
蘭子は興毅と別れることを決意した。
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