万理が大学に姿を現した日。彼女が校門から出て来る蘭子を捉まえる数時間前のこと・・・


 「あの~、すいません・・・」

 午後イチの三時間をかけて行われた、気の重い有機合成化学実験を終えた興毅が駅へと向かう坂道を下っていると、躊躇いがちな声に呼び止められた。歩調を緩めながらそちらを見ると、道路に隣接する公園の植え込みに寄り添うような形で、見覚えの無い女の子が恥ずかしそうに立っている。誰だっけ? 学内では見かけたことは無いような・・・。

 「はい?」

 「あの・・・ DIRTY NOBLEのギターの方ですよね?」

 「は、はぁ。そうですけど・・・」

 「わぁっ! 声掛けて良かった! ひょっとしたら違うかなって思ったんですけど!」

 「えぇっとぉ・・・ 君は? ウチの大学の子?」

 話が見えず、興毅はドギマギとしながら聞いた。入学してからずっとバンドをやっているが、こんな風に話しかけられたことなど無かったからだ。

 「いいえ。私まだ高校生なんです。でも新宿のライブハウスでDIRTY NOBLEを見て、いっぺんでファンになっちゃって! あのぉ・・・ ご迷惑ですか?」そう言って、窺うような上目遣いで見上げる女の子。

 まるでジャニーズでも見るように瞳を輝かせる彼女に、ついつい興毅の顔も緩む。

 「あははは、そうだったんだ。いやいや、ご迷惑だなんてとんでもない。君、名前は?」

 「万理・・・ まり子です」


 駅裏のマクドナルドの奥まった席で、二人は向かい合って座った。相手が高校生と聞けば割り勘というわけにもいくまい。二人分のドリンクを受け取った興毅は、先に席に就いていた万理の前にそれを置きながら聞いた。

 「へぇ~。じゃぁ、宮下楽器ホールん時も聞きに来てくれてたんだ、まり子ちゃん?」

 この店に来る途中の、道すがらに聞いていた話の続きだ。

 「もちろんです! 初めて新宿で見た時以来、ずっと欠かさずですっ!」

 そろそろバンド活動も潮時かなどと考えてはいたが、こうしてファンですと言ってくれる人に逢えば、やはりそれなりに嬉しいものである。興毅は機嫌よく返す。

 「へぇ~。ウチにもそんなファンがいてくれたなんて意外、っていうか嬉しいね。たいしてメジャーなバンドでもないのに」

 「教えて下さい! コーキさんって、どういう字書くんですか? チラシとかには『g:コーキ』ってしか書いてないんで・・・」

 「あははは、そうだね。ビラにはコーキって書いてあるね。うんとねぇ、ボクサーの亀田興毅と同じなんだけどね。吉本興業の興に・・・ 毅は難しいんだなぁ。強いとかしっかりしたって意味なんだけど、よく言う『毅然とした態度』の毅って言えば判る人には判る・・・ かな?」

 「私、漢字は苦手です・・・」

 「わはははーーっ! 気にしないで。十人中九人は『毅然』なんて漢字で書けないから。あはははは」


 ひとしきり笑ってから興毅が聞いた。

 「ねぇ。バンドの中でまり子ちゃんのお気に入りは誰なの? まさか俺とか? やっぱ充かな? アイツ、外見だけはイケてる系だからね」

 と言いつつも、自分だと言って貰えることを期待しての質問だ。

 「えぇ~・・・」困った風を見せる万理。顔を赤らめて恥ずかしそうだ。「やっぱりぃ・・・ 興毅さんかなぁ・・・ あっ、でもベースのタケシさんも好きですっ! タケシさんって、どういう字書くんですか!?」

 「おぉーーーっ! 俺か健志だって!? 意外ぃ~。結構、地味な男が好みなんだね、まり子ちゃんって? あはは。ちなみに奴の名前は健康を志すで、充はの方は充電の充」

 万理の目がキラリと光った。

 「ドラムの女性ひとは?」

 「蘭子? 花の名前の蘭だね」



 「お前、いい加減にしろよな。そんな直ぐにバレる嘘ついてどうすんだよ」

 健志は阿保らしいといった様子で、興毅の話を真面目に聞こうともしない。学生たちでごった返す、昼休みの学食だ。昨日、バンドのファンだという女子高生に声を掛けられたという大事件を、ご機嫌で報告する興毅に対する健志の冷めた反応だった。

 「嘘じゃないって言ってんじゃん! 本当なんだってば! 女子高生!」

 「はいはい、判ったってば」ちっとも判った風ではない。

 「何々? 可愛い女子高生が突然話しかけてきて? 昔っからDIRTY NOBLEの大ファンで? どっちかっつうと俺か興毅がお好みで? 一緒に駅向こうのマックに行って話し込んで? LINEまで交換したと・・・。ふむふむ、なるほどね」

 「・・・」

 「この前借りた譜面さぁ。もう少し借りっ放しで・・・」

 「ほら、やっぱり信じてないじゃん!?」

 言葉の後ろに(怒)が付きそうな勢いで興毅が食って掛かる。しかし健志は呆れた風だ。

 「お前さぁ、よく考えてみろよ。大して目立った活動もしてないDIRTY NOBLEに、そんな熱狂的なファンがいるわけないだろ? 俺たち、そこまで有名じゃないぞ」

 「じゃぁ、もしあれが嘘だって言うんだったら、まり子ちゃんがそんなことする理由は何だよ? どんなメリットが有るっていうんだよ」

 興毅が不満げに口を尖らせる。

 「そりゃぁ、タダでマックフルーリーが飲めるとか?」

 「やっぱ、馬鹿にしてるんだろ!?」

 「心配してんだよ、お前の頭を! お前のまり子ちゃんは幻なんだ! 幻想なんだよっ!」

 「うっせぇっ!」

 「珍しいじゃん。この二人で熱く語り合ってるなんて。いつもは充 vs. 興毅なのに、今日はどういった風の吹き回しなの?」

 昼休みの時間に少し遅れて、蘭子が姿を現した。充は今日は登校していないらしい。

 「それがさぁ、蘭子。聞いてくれよ。興毅がさぁ・・・」

 健志が大袈裟に語り出すと、興毅は不貞腐れた顔でそっぽを向いた。


 「そんなん、有るわけないじゃん!」蘭子の声が響いた。

 馬鹿々々しいといった表情を隠そうともせずに、興毅の話を切って捨てる。一刀両断というか、聴く耳持たずといった風情だ。

 「だろ!?」賛同者を得た健志の声も、ついつい大きくなる。

 「だってウチらのライブに、女子高生なんて来てないよ」と言いつつも、万理の姿を思い浮かべた蘭子は、ほんの少しだけ修正を加えた。「殆ど来てないと思うけどなぁ」

 「でもLINEを交換したのは事実だからな!」

 二人にやり込められて、決定的証拠を提出せざるを得なくなった興毅がスマホを二人に向けてかざすと、そこには『まり子』という新しい友達が追加されていて、こんなやり取りが残されていた。


 ─ 今日はごちそうさまでした

 ─ 興毅って字、覚えました


 ─ いえいえ、こちらこそ

 ─ 次のライブ決まったら教えるね


 ─ はい、よろしくお願いします

 ─ DNのスケ追うの難しくて

 ─ 教えて頂けると助かります


 ─ オッケ

 ─ それじゃね


 ─ はい、皆様によろしくお伝え下さい

 ─ それでは、ご自愛ください


 それを読んだ健志が目を丸くする。

 「この『DNのスケ』って誰だ? 随分とポップな侍だな。そんな奴を追いかけてどうすんだっ・・・ てか、ウチのバンドとの関連が解からん。興毅、お前がその『DNのスケ』なのか?」

 「馬鹿ね。DIRTY NOBLEのスケジュールって意味よ。ライブのスケジュールを公開してるわけじゃないから、フォローするのが難しいって言ってるんでしょ?」蘭子が説明するのも面倒臭いといった様子で言った。

 「あぁ、そうだったんだ」

 「まさか、興毅も判ってなかったわけ? 呆れた・・・」

 真面目に呆れられてシュンとする興毅と健志。『DNのスケ』を侍の名前だと思ってしまった失態を胡麻化すために、健志は無理やり話をすり替えた。

 「それにしても『ご自愛』だなんて、随分としっかりした女の子なんだな、そのまり子ちゃんて」

 「だろ? マックフルーリー飲みたさに、近付いてくるような娘じゃないんだってば!」


 結局、興毅が二人を納得させるまでには至らなかったが、彼とその娘とのLINEのやり取りを見た蘭子は、少しだけ嫉妬を感じたのだった。

 (私が男のことで、誰かにジェラシーを感じるなんて・・・)

 自分がどんどん変わっていってしまうような気がして、蘭子は漠然とした不安を感じた。このままいくと、今までの生活が脆くも崩れ去ってしまうのではないかという、不確かな未来に対する恐怖に似た感情だ。

 もしかしたら、自分の立つ足元が、気付かぬうちに徐々に地盤沈下を始めているのではないか? この下にはポッカリとした空洞が既に成長していて、ほんの僅かな刺激で大崩落が始まるのではないか? ひょっとしたら自分は、そうなることを予期していて、それを甘んじて受け入れるつもりなのではないか?

 そんな怯えとも胸騒ぎとも言えそうな心情に揺さぶられ、蘭子は粟立つ心中を収めることが出来なかった。



 最初の出会いから一週間ほどの後、万理にLINEで呼び出された興毅は、再び同じ駅向こうのマックで彼女と逢っていた。大学の講義が、早く終わった後のことだ。

 あの日のLINEのやり取り以降、一度もメッセージが来なかったことから、口で言うほどDIRTY NOBLEのファンな訳ではなかったのかな、と興毅は思っていたところだった。そして同時に、何故かホッとするような気持になっていたのも事実だ。ところが久し振りに昨日、彼女からのLINEが入った。


 ─ この前の店で、またお話聞かせて下さい

 ─ 5時ごろ、いかがですか?


 ─ オッケー

 ─ 明日は4時には授業が終わるから


 ─ 良かった!

 ─ じゃぁ4時半に待ってます!


 そう言えば前回逢ったのも水曜だったな、と彼は思った。興毅の学科では、毎週水曜が早く講義が終了するのだが、まるでその日を知っているかのように、ピンポイントで彼女からのメッセージが舞い込んだのだ。水曜だけは、興毅以外のメンバーは遅くまで講義が組まれていて、学食でダベる相手もいない。そんな暇を持て余す水曜のお誘いを断る理由など、彼に有るはずも無い。

 「興毅さんは彼女とかいるんですか?」

 蘭子に隠れて逢っているような感じが罪悪感をもたらしたが、別に妹のような年齢の女の子に特別な感情を抱いているわけではない。とは言うものの、やはり女の子に誘われればデレデレと鼻の下を伸ばしてしまうのは男のさがか。蘭子と付き合いつつも、彼女の知らない所で彼女の知らない女性との ──健全な── 付き合いを持っているというのは、興毅の自尊心をくすぐるには充分で、自分の男としての格が一つ上がったような気分にさせてくれるのだ。大人の男ともなれば、親しい仲の人間にも話していない、女友達の一人や二人いてもおかしくはないだろう。

 「うん・・・ いるって言えばいるし、いないって言えばいないかな」

 興毅は自分との関係を公然の事実として公表しない蘭子に、ちょっとした不満のようなものを感じていて、万理の質問に対し、やり場の無いモヤモヤを持て余しながら答えた。

 「えぇ~、やっぱりいるんですね? 残念。じゃぁ私、健志さんに鞍替えしようっかな」

 「はははは。でもあいつ、まり子ちゃんのこと話しても信じないんだぜ。『そりゃ幻だ!』とか言いやがんの。健志だけじゃないな、蘭子も信じてなかったな。ったく、あいつら」

 蘭子の名前が出て、万理は何となく嬉しくなった。蘭子の生活の、今まで自分が知らなかった一面を垣間見れたかのような気分になったからだ。

 「で、興毅さんの彼女って、どんな女性ひとなんですか? すっごぃ興味ある~」

 「うぅ~ん・・・ なかなか骨の有る奴で、ちょっと男っぽい性格かな。『アンタら、気合入れな!』みたいな? 男の中に混ざってても全然平気な感じで、逆にあまり気を使わなくてもいいのが有難いんだけどね。つまり、あんまりベタベタしないタイプだな」

 ベッドの中以外ではねと、興毅は追加の一文を心の中で付け加えた。女子高生にそんな話をするわけにはいかない。


 ビンゴだ。万理は思った。


 「いいじゃないですか。サッパリした女の人って素敵だと思います。私もそんな風な大人の女性になれたらいいのになぁ。なんか憧れちゃう」

 「大丈夫! まり子ちゃんはきっと素敵な女性になれるよ。あんな男勝りなタイプじゃなくって、もっとおしとやかな感じ」

 万理は確信した。興毅が話しているのは蘭子のことだ。もしはっきりしなかったら「ひょっとして、あのドラムの方ですか?」と聞こうと考えていたが、確認するまでもないだろう。蘭子を変えてしまったのは興毅だ。蘭子をにしてしまったのは、この興毅に違いない。蘭子が一時の迷いで私から目を逸らしてしまったのは、全てこいつのせいなのだ。

 「興毅さん、もう直ぐ卒業ですよね? やっぱり彼女と結婚とか考えちゃったりしてるんですか?」

 「まぁね。卒業後は北海道に移り住もうって誘ってるんだけどね」

 「北海道っ!?」万理が目を剥いた。

 「うん。あっ俺、卒業後は北海道に帰って、親戚の羊牧場を継ぐつもりなんだ。でも彼女、なかなか『うん』と言ってくれないんだよ、これが」


 何をふざけたことを言っているのだ、この男は? 蘭子が私を捨てて、北海道なんかに行くはず無いじゃないか。お前なんかより私の方が、ずっと蘭子と共に生きてきたし、深い絆で結ばれているのだ。横から出てきて、勝手なことを言うんじゃない。

 私と蘭子の間を引き裂こうと画策するのなら、それが誰だろうと決して許さない。その無謀な企みの代償は、必ず払わせてやる。


 「わぁ、素敵ですね~。広大な牧場で土に触れて、自然と共に生きるなんて夢みたい」

 そう言いながら万理は、一本だけ摘まみ上げていたポテトを袋に戻した。もう食欲なんて無かった。

 「だろ? 北海道に士別っていう羊の街が有ってね。そこではさぁ・・・



 「これ・・・ マックのポテトじゃないの? 自分で揚げたんじゃないよね? 行ったんだ?」

 食卓に並んだ皿の中に、不釣り合いなフレンチフライを見つけた蘭子が言った言葉だ。まるでゲートボール場に迷い込んでしまったストリートバスケの少年が凹んでいるかのように、そのしなびたポテトが浮き上がって見えた。

 「ごめんなさ~い。昼間どうしても食事の準備するのが億劫になっちゃって・・・ 自分一人の為に準備するのって、結構、精神力が要るんだよ~。だから今日はつい、マックに行っちゃった・・・ テヘ。ダメだった?」

 万理は甘える様な視線を蘭子に向ける。

 「ううん。全然大丈夫だよ、気にしないで。ただ見慣れない物が有ったから、ちょっと聞いてみただけ」

 「たまに食べると美味しいんだよね~。ただ食べ過ぎると太っちゃうから、殆ど持って帰ってきちゃった。えへへ」

 叱られると思っていたのに、大目に見て貰えたことを喜ぶ子供のように振舞う様子が、少々わざとらしいと感じた蘭子であったが、あえてそこに突っ込むことはせずに話を合わせる。

 「あははは。万理は太る心配なんてしなくていいよ。むしろ、もう少し脂肪を付けてもいいくらいだって」

 「えぇ~っ! やだよ~。だって今でも体重気にしてるんだから~」

 「それは背が高いからでしょ? それ位タッパが有れば、体重だって標準以上が普通だよ。私みたいなチビなんかより、ずっといいよ」

 「や~だ! 絶対、痩せてる方が可愛い!」

 しかし蘭子は、そのポテトが二人分ほども有るのではないかということに気付いていて、なんとも言えない曖昧な笑顔を返したのだった。最近、万理が変わったような気していた。

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