かつての生活が、再び始まった。万理は蘭子の部屋で、家事をしながら彼女の帰りを待つ。この二年間、慣れ親しんだ二人だけの世界だ。

 一旦は亀裂の入りかけた関係を修復しようと、二人は今まで以上に共に過ごすことが多くなっていて、一緒にスーパーに行けば、やれ野菜が高いだの、たまには鰻でも買って贅沢しようかだのと賑やかな日常が戻ってきていた。たまには街に出て、映画を見たり、甘いものを食べたり、或いはショッピングを楽しんだり。この前の週末などは、二人して閉演間近のとしまえんに行って、ローラーコースターやお化け屋敷で悲鳴を上げた。勿論、DIRTY NOBLEのライブの日には、万理も会場まで足を運び、何もかもが元通りになりつつあった。

 浮き草のような生活を強いられそうになっていた万理は、蘭子という踏みしめることの出来る土地を再び獲得し、以前の明るい女の子の表情を取り戻していた。


 変わっていたのは蘭子の方だった。


 蘭子は万理に隠れて、時折、興毅と関係を持っていた。一晩こっきりの遊びとして二人の関係を清算できるほど、彼も蘭子も遊び人ではなかったし、何よりも興毅は本気で蘭子のことを想ってくれていた。その誠実さを肌にしみて感じていたからこそ蘭子は、とても彼を傷つけることなど出来なかったのだ。北海道行きを承諾する勇気は無かったが、だからと言って彼との関係を終わらせる勇気も持ち合わせてはいない。

 興毅が求めれば、蘭子は身体を許した。そんな関係を続けているうちに、益々彼と別れ難くなってゆくのを感じたが、蘭子にはもうどうすることも出来なくなっていた。女としての自分を曝け出せる相手、それは興毅以外には存在しなかったのだ。


 バンドの練習帰りに興毅の部屋で彼に抱かれ、自分の部屋に帰って万理を抱く。そんな日も有った。そうとは知らずに、蘭子に抱かれ続ける万理の姿を見る度、彼女は罪悪感に苛まれ、悔恨の想いに駆られるのだった。

 言葉では言い尽くせない程の辱めを実の父親から受け、この部屋以外に行く当ての無い万理を切り捨てることなど出来ないし、やはり蘭子にとって万理は、何者にも代え難い存在であることを痛感もしている。彼女無しでは、自分は本当の自分でいることが出来ないのだ。もう二度と万理と離れ離れになることはごめんだ。あんな思いをするくらいだったら、死んだ方がましだと本気で思える。

 「二股掛ける奴なんて、男も女も最低だよねぇ」などと万理と話していたことを思い出し、蘭子は二人の狭間で苦悶した。そしてその反動なのか、蘭子はより激しく万理の身体を求め、興毅の腕の中ではいつにも増して、女としての自分の中に逃げ込むのだった。


 そんな薄氷を踏むような、脆く危うい状況が続いていたある日。表面上の静穏であることには気付かず、目先の安楽に浸り切っていた万理が部屋の掃除をしていた時だった。

 蘭子が大学へと登校した後の日課として、彼女がこの仕事を欠かすことは無い。床に掃除機を掛けながら、邪魔っけなハンガーラックを移動させた際に、黒いショルダーバッグが何となく目に付いたのだった。それは蘭子のバンド用のバッグで、中にはドラムスティックや譜面などが押し込まれていることは知っている。ライブやバンドの練習が無い日は、蘭子がいつもラックに引っ掛けっ放しにしているやつだ。

 掃除機のスイッチを切り、万理は何とはなしにそのバッグを手に取ってみる。蘭子が「音楽をやめる」と言って喧嘩になって以降、その話をすることは無かったが、今でも彼女はそのつもりなのだろうか? 万理はそのことが気になって、中を覗いてみたのだった。

 すると中から出てきたのは、以前通りのスティックケースの他、譜面や音楽雑誌やティッシュ、そしてだらしなく飲みかけのペットボトルだ。クスッと笑った万理が、「もう。いつのドリンクよ?」と言いながらボトルを取り出すと、その下に無造作に放り込まれた見慣れぬ小箱を見つけたのだった。

 光沢のあるピンク色の綺麗な箱で、英語らしき筆記体の文字が印刷されている。万理にはそれが何か判らなかったが、ドラム関係の何かだろうか? その箱を手に取って開けてみる。そして顔を覗かせている中身を摘まみ上げると、規則正しく折りたたまれた何かが、重力に引っ張られてパタパタパタと広がった。コンドームだった。


 万理は呆然としてそれを見つめた。


 状況は明白だった。蘭子は男と寝ている。いつも激しく私の身体を貪る蘭子が、知らない所で知らない男に身を委ね、女として抱かれているのだ。いいや、知らない男ではない。バンド用バッグに入っていたということは、きっとバンドのメンバーの誰かに違いない。あの軽薄なボーカルか? 大人しそうなギターか? それとも優等生っぽいベースの男か?

 万理はそれが装着された状態の勃起した男根を思い出し ──それは彼女の父親のものだ── そのおぞましさに身震いした。そして事が済んだ後にそれを取り外し、いまだヒクヒクと脈動するものを口に咥えさせられた時の、ゴムの嫌な味を思い出して軽い吐き気をもよおした。

 万理はその避妊用具を元あった通りに折り畳み、小箱の中へと慎重に戻す。そして蘭子のショルダーバッグの底に押し込み、その上に飲みかけのペットボトルを重ねた。バッグのファスナーを閉め、ハンガーラックに戻す。

 床にペタンと座り込んだ万理はどこか一点を見つめた切り、暫く身じろぎ一つしなかった。



 「蘭子」

 葉桜の並木が続く大学の正門を出たところで、後ろから呼び止められた蘭子が振り返る。最初は誰に声を掛けられたのか判らなかった。だが、同大学の学生たちが作る人波の向こうで、門柱の陰に隠れるようにして立つ背の高い女の子がこちらを見ているのを認めたのだった。蘭子は驚きで目を丸くした。

 「万理!? 何やってるの、こんな所で?」

 思わずひっくり返ったような大声を上げてしまって、行き交う学生たちが訝しそうな眼差しを二人に向けたが、彼ら彼女らは直ぐに二人への興味を失って、そのまま歩き去るのだった。その人波を掻き分けて走り寄る万理。

 「へっへ~、蘭子の大学がどんな所か見ておきたくって。それに今日は、なんだか晩御飯の準備するのが億劫でさ」彼女は、蘭子の左腕に抱き付くような恰好で枝垂れかかった。「ねっ、どこかの店で食べて帰ろ?」

 「う、うん・・・ そりゃぁ構わないけど・・・」

 蘭子が思わずそう応えると、万理はそのままの姿勢で自分の左腕を空に向かって突き上げた。

 「やったーーっ! んじゃぁ、そうと決まればレッツゴー! ねっ、ねっ。何処に連れて行ってくれるの?」

 もう、しょうがないわね、といった様子で諦め顔の蘭子は、キラキラと瞳を輝かせる万理に笑いかけた。

 「何が食べたいの? 言ってごらん」


 そのバイト店員の女の子も、万理とさほど変わらない年齢だろう。不愛想な彼女が運んできたトレーには、ハンバーガーが二つとドリンクが二杯、それからポテトとオニオンリングが載っていた。早速、ポテトを一本口に運びながら、ハンバーガーの包装を解くのに忙しい万理に蘭子が言う。ちょっと呆れた様子だ。

 「せっかく出てきたなら、こんな店じゃなくてもいいのに。これなら地元でも食べられるでしょ?」

 万理は口いっぱいに頬張ったハンバーガーを、モグモグさせながら返す。

 「いいのいいの。蘭子と一緒なら何だって美味しいんだから。高いお店じゃ、お金だって勿体無いし。それに私、マックよりこっちの方が好きなんだぁ。このミートソースが絶品なの」

 「まぁね。たまにはこういうのもいいけどね」

 蘭子はもう一本のポテトを摘まみ上げ、それで万理のハンバーガーからはみ出したミートソースをすくい上げてから口に放り込む。そしてカップを取り上げると、ストローでダイエットコーラを啜った。そんな彼女に、何気ない様子で万理が言う。

 「いつもあんな風にしてるんだ、学食で。あの一緒に話してた人、DIRTY NOBLEのギターの人だよね?」

 予期せぬ質問に、コーラが変な所に入ってしまった蘭子が、咳き込みながら聞き返す。

 「げほっ・・・ えっ、何? 学食にまで・・・ ごほっごほっ・・・ 入ってきてたの? だったら声掛けてくれれば良かったのに・・・ ごほっ」

 そう言いながらも、万理と興毅を引き合わせることに、一抹の不安を感じる蘭子であった。それもこれも、全ては自分のどっち付かずのはっきりしない態度によるものなのだが・・・。

 でもなんで、わざわざ大学にまで来たのだ? 今までこんなことをしたことは、一度も無かったのに。食事だったら、LINEでも使って駅前で待ち合せれば済むことなのに。それとも本当に私の大学を見てみたかったのだろうか? 蘭子は万理の行動に、今一つしっくりこないものを感じていた。

 「ううん。だって、普段の蘭子がどんな風に過ごしてるのか、それを見たくてお忍びで来たんだから。サプライズの授業参観みたいなもんかな。クスクス・・・。それに大学の雰囲気ってのも、一度感じてみたかったのは本当なんだぁ」

 そう言って万理は、少し遠くを見る様な表情を見せた。

 「いいなぁ~、みんな楽しそうで。キャンパスライフをエンジョイしてるって感じ」

 悪戯っ子のように笑う万理に、妙な勘繰りをしてしまった自分を恥じて蘭子がバツが悪そうな笑顔を返す。

 そうなのだ。あんな父親でさえなければ、万理だって今頃はどこの大学を受けるか、きっと悩んでいたに違いないのだ。毎晩遅くまでJ-WAVEでも聞きながら、受験勉強をしていた筈なのだ。普通の高校生が送るべき普通の生活を、当り前のように送っていたに決まっているのだ。


 だが、もしそうだったら・・・ と蘭子は思う。


 もしそうだったら、自分が万理と出会うことも無かったのも事実。あの小雨の降りだした新宿で、彼女という仔猫を私の前に遣わしたのが神様の采配でないとするならば、あらゆる出来事の ──その中には目を覆いたくなるような、不幸な出来事も含まれている── 積み重ねの結果として、気の遠くなるような確率の奇跡が起こったのだ。そう考えると、複雑な想いに駆られる蘭子だった。

 「ねっ。帰る前に新宿に出て、ボーリングでもしていく?」

 万理の口の横に付いたソースを、紙ナプキンで拭きとってやりながら蘭子が言うと、子供のように顔を突き出した万理が、その突然の提案に飛びついた。

 「行く行くーーっ! 私、ボーリングなんて久し振りっ!」

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