万理と和解する糸口も見つけられないまま、いたたまれなくなった蘭子は街に出て一人で飲んでいた。こちらに背を向けたまま泣き続ける万理に、触れるどころか声を掛けることすら出来ず、彼女を一人残して部屋を飛び出したのだ。そうやって飲む酒は苦かった。飲んでも飲んでも、今日は酔えそうになかった。

 一人、ショットバーのカウンターで強めのカクテルをあおる蘭子は、万理が成人したあかつきには二人でこういった店に来ようと話し合っていたことを思い出したが、その希望はもう叶うことは無いのではないかど思うのだった。彼女に酒の飲み方を教える日は、結局は訪れないのではないだろうか。


 後悔と自責と嫌悪の念が押し寄せてきて、今にも圧し潰されそうだった。その一方で、万理のように泣くことが出来たら、どんなにか楽だろうと思えてならない。自分だって女だ。声を上げて泣きたい時だって有る。だけど万理と一緒に住むようになって、いつしか自分は男のように振舞わなければならないと、勝手に自分の言動に抑制を掛けてきたのかもしれない。そうすることで二人の関係が円滑にゆくのなら、自分はいつだって男役を買って出よう。そう思ってきた。

 だけど今日だけは女々しいと言われても構わない。何にも遠慮することなく、誰の目も気にすることなく、大声を上げて思いっ切り泣きたい気分だった。


 全ては万理のことを考えてのことだった。彼女との生活の為に音楽を諦めようとしているのに。その想いは彼女と共有できるものであると思っていたのに。


 それは、ただの独りよがりだったというのか?

 万理はいったい、私に何を求めているのだ?

 二人の生活を犠牲にしてまで、音楽と向き合えと?


 彼女の期待が痛かった。自分の才能を信じてくれるのが重荷だった。今にして思えば、万理の喜ぶ顔が見たくてドラムを叩き続けていたような気もする。自分は彼女の夢想に付き合う形で、プロミュージシャンを目指す熱いアマチュアを演じていたのではないか? 高校一年で家出をし、明るい未来を語れるような青春時代を送れていない万理に夢を与えたくて、彼女が望む蘭子を装っていたのではないか?

 そんな風に考えると、自分自身の夢っていったい何なんだろうと思う。確かにプロのミュージシャンに憧れた時期も有った。果てしない夢を思い描いて、そこに至る無謀で根拠のないサクセスストーリーに胸を熱くしたことも有った。しかしそれは、自分のドラマーとしてのレベルが上がるにつれ、本当に果てしのない夢物語へと変わっていった。


 酔えないと思っていた酒もいつしか回りだし、蘭子は心の中に湧き上がってくる取り留めもない想いに自身を弄び、答えの得られぬ自問自答を繰り返す。


 日本中に沢山の高校球児がいる。その中で、甲子園の土を踏みしめることが出来るのは、本当に一握りだ。更にそこからプロ野球選手になれる極めて少数の天才たちがいて、より過酷な競争に打ち勝った選りすぐりの者たちだけが一軍に上がれるのだ。たとえプロになれたって、公式戦に一度も出場せず引退する選手だって多いに違いない。

 果たして自分は、自分のドラムは、自分の音楽は、それだけの価値が有るのだろうか。蘭子は知りたかった。あの白球を追い続けた高校球児たちは、どうやって夢にケリを付けて次のステップへと踏み出せたのか。高校生たちが普通に出来ていることを、いい歳をした自分が出来ないことが歯痒く、また悔しかった。


 蘭子は何とはなしに、ポケットからスマホを取り出し、当てもなくスクロールを始めた。


 いや、自分のことなどどうでもいい。大切なのは万理だ。彼女が家庭を捨てた理由は知らないが、自分がいるから彼女は家に帰らないのだ。そのことには薄々気づいてはいたが、それを見ない振りをしてきた。それだけ彼女と過ごす時間は、過去のどんな瞬間よりも楽しかったし、輝いてもいた。その居心地のいい時間を失いたくなくて、自分は万理を手元に置いておきたかったのだ。つまり、万理の将来を食い物にしているのは他でもない、自分じゃないか。

 まだ未成年の彼女が、親の元を飛び出したきり家に帰らないなんて、どう考えても正しいことではない。大人である自分が、その状況を助長するような態度を取ることが、本当に『責任ある生き方』と言えるのか? 本当に大人としての責任を果たすならば、彼女が親元に帰れるように手助けするべきではないのか。

 今まで自分がしてきたことは、全て万理のためだと思ってきた。そう信じて疑わなかった。だがそんなのは、ただの横暴だ。傲慢で尊大な自己正当化に過ぎなかったのだ。


 このままでは自分が万理を不幸にしてしまう。その想いに至った蘭子は再び、自分が万理に加えた手酷い仕打ちを思い出し、唇を噛んだ。自分自身に対する落胆と失望で、どうにかなってしまいそうだった。

 「ごめんね・・・ 万理・・・ 私、あなたを自由にしてあげる。もうあなたを振り回すことはしない・・・ だから、許して・・・」

 蘭子の頬を一筋の涙が走った。そしてスマホを耳に当てた。


 『蘭子?』

 「もしもし。ごめんね、こんな時間に。今、電話大丈夫?」

 『どうしたの? 珍しいね。おっ、BGMにジャズが流れてる。ってことは飲み屋にでもいるのかな?』

 「うん、ちょっと誰かと話がしたくなって」

 『はは~ん。さては人恋しくなって、つい俺の声が聞きたくなった的な?』

 「ははは。まぁそういうことにしといてもいいよ。誰でもよかったわけじゃないってことにしといてあげる」

 『なんだヨ、期待させておいて。誰でもよかったは酷いじゃん』

 「クスクス。ごめんね。この前の話、どうなったのかなぁって思って」

 『この前の話? あぁ! 北海道行きの話ねっ!? 考えてくれたんだ!?』

 「ごめん。そっちの話じゃなくって・・・ ほら、健志と充に話しといてくれるっていってた件」

 『あぁ、あっちか? ごめん・・・ まだ話してないや・・・』

 「そう? うん、別に早くしてくれとか、そういう意味じゃなくって、どうなったのかなって思ってさ。まだ言ってないんなら、やっぱ私のことは自分から話すから。興毅に話させるのはフェアじゃないし」

 『そんなこと気にしなくてもいいのに』

 「ううん。そうじゃなくって、もう少し考えて、自分で結論出してからにするって意味でさ」

 『何か有ったの?』

 「え? 別に何も無いよ。あっ、それから北海道の話、今度もう少し詳しく話してよ。漠然と『北海道に行こう』って言われても判断できないじゃん? でも行く気になってるとは思わないでね。あくまでも判断材料を頂戴って意味だから」

 『オッケー、オッケーッ! 今度は細かい所まで話すから! 写真とかも見せるね! きっと気に入ると思うよ!』

 「あははは。気に入るかどうかは責任持てないけど、楽しみにしておくよ。んじゃぁ、ごめんね夜中に」

 『いいよいいよ。いつだって電話して。んじゃ、また学校で。おやすみ』

 「うん。おやすみ」


 耳から離したスマホを操作して、通話アプリを閉じる。そして蘭子は、グラスに残っていたカクテルをグイと飲み干し、カウンター内にいるバーテンに声を掛けた。

 「下りの終電、何時だっけ?」



 部屋に戻ると、既に万理は眠っていた。ベッドの左側、壁寄りのいつもの定位置で静かに寝息を立てていた。蘭子は彼女を起こさないよう枕元の小さな照明だけを灯して、そっと着替える。そしてベッドに潜り込むと、万理が小さく身動みじろぎし、壁に向かった横向きの姿勢から仰向けになった。

 長い睫毛が、まだ少し濡れているように見えた。それでも万理の寝顔は安らかだ。その滑らかな肌の艶やかさと、柔らかく伸びる真っ直ぐな髪と、子供のようにあどけない寝顔を見ていると、いたたまれなくなって、思わず手を伸ばす。髪を撫で付けるように、優しく頭を撫でる。

 気が付くと、自分の頬を止めどなく涙が流れ落ちていた。音も無くポロポロと、枯れることのない泉のように滾々こんこんと。どうしてこんなにも涙が出るのだろう? 万理が愛おしくて愛おしくて堪らない。こんなにも大切な誰か出逢うことなど、もう二度と無いに違いない。いつまでも一緒にいたかった。ずっと一緒にいられると信じていたかった。

 叶わぬ想いを噛み締めるように、蘭子は唇を噛んだ。そして嗚咽が漏れないよう右手で口許を押さえ、いつまでも泣き続けるのだった。

 何も知らない万理が、「うう・・・ん」と、また寝返りを打った。



 翌朝は珍しく、蘭子の方が早起きだった。眠れなかったと言うべきかもしれないが。布団の中から眠そうな顔を覗かせた万理は、寝ぼけまなこのままバツが悪そうに言う。

 「おはよう。今朝は早いんだね?」

 「うん、おはよう。朝ごはん、用意しておいたから顔洗ってきな」

 「えぇーっ! 蘭子が作ってくれたの? 嬉しいっ!」

 飛び起きて洗面所に向かった万理は待ちきれないといった様子で戻ってきて、蘭子の向かいに座る。そして両手を合わせ、「頂きます」と言ってから茶碗を取り上げた。万理がちゃんとした・・・・・・家庭で育てられてきたことを、毎朝、その姿を見る度に思い知らされていたことを、蘭子は思い出した。

 「そんな嬉しそうな顔しないでくれる? 味海苔と納豆と生卵だけだから。味噌汁はフリーズドライだよ」

 「いいのいいの。蘭子が用意してくれたってだけで、メッチャ美味しくなっちゃうんだから」

 子供のようにパクつく万理を見ながら、蘭子は再び熱いものがこみあげてくるのを感じ、慌ててキッチンに立つ。そして急須にお茶っ葉を振り入れながら、感情の昂ぶりを胡麻化すのだった。

 「万理・・・」

 「うん?」

 「昨日は・・・ 私、本当に酷いことをしたよね? ごめん・・・ 本当にごめんなさい。私・・・ 人でなしだよね」

 蘭子はキッチンから頭を下げた。すると万理は、微笑みながらこう言ったのだった。

 「ううん。私の方こそごめんなさい。勝手に服買い込んだりして、自分の理想像を蘭子に押し付けてた。蘭子の気持ちも考えずにね。ごめんね」

 固く握り締められた蘭子の握り拳は、カウンターの陰になって万理からは見えない。その陰で、彼女の拳はブルブルと小刻みに震えるのだった。ダメだ。これ以上の和解は、かえって辛くなる。離れ難くなる。

 「でさ・・・ 話しておきたいことが有るんだけど・・・」

 その拳を震わせている動揺は、蘭子の声にも現れていた。

 「・・・・・・」

 万理は黙って蘭子を見た。


 「やっぱり高校生は親と一緒に住まなきゃダメだよ。それが一番いいし、万理の為だと思う。

 そりゃ、万理が家に帰りたくないことは知ってるし、家庭で何が有ったのかは知らない。言いたくなさそうな感じだしね。でもそれが何であれ、未成年が家出をしたまま、両親と音信不通になっても構わないってことにはならないと思うんだ。違うかな?」

 万理は黙って首を振った。もう蘭子の方は見ていなかった。視線を落とす万理が見ているのは、ローテーブルに広げられた粗末な朝食なのか、それとも、その向こうに浮かび上がる彼女の実家と、そこでの出来事なのか。

 「勘違いしないでね。女同士がいけないなんて、これっぽちも思っていないから、私は。万理が親元でちゃんと成人を迎えて、それでも私と一緒に住みたいって思ってくれるなら、私はいつだって万理を迎え入れるつもりだよ。

 ううん。万理には私の元に戻ってきて欲しい。また一緒に暮らしたい。今度こそ胸を張って、堂々とね」

 「それ・・・」

 万理は視線を上げ、一途な眼差しで蘭子を見た。その視線に耐え切れず、今度は蘭子が視線を逸らす。

 「それ、蘭子の本心?」

 「あ、当り前じゃん。何言ってんの?」蘭子は少し狼狽えた。「こう見えても私は大人なんだから、家出した未成年を放っておけるわけないでしょ? 二年間も一緒に住んでて、何を今更って思うかもしんないけど、私は・・・」

 「判った・・・」蘭子が言い終わるのを待たずして、万理は茶碗と箸をテーブルに置くと、何事も無かったかのようにスッと立ち上がった。

 「えっ?」と、声にならない声が蘭子の口から洩れた。

 万理は自分のスマホを取り上げると、それだけを持って玄関に向かって歩き出す。そしてキッチンの横で一瞬だけ立ち止まり、蘭子の方を見た。

 「今までありがとう、蘭子。私、蘭子に出会えて良かった」

 一瞬だけ二人の視線が交差したが、万理は直ぐに前に向き直って、玄関の沓脱へと降りた。ほんの少しだけ、寂し気な影を湛えた無表情で。

 蘭子は目を見開いたまま、キッチンで固まった。

 (待って! 行かないで! 私を一人にしないで!)

 万理が私から去ろうとしている。そんなの耐えられない。身体中が、みっともないほどにガタガタと震えた。

 靴を履き終えた万理が、玄関ドアを開ける音が聞こえた。

 (嫌っ! 万理と離れ離れになるなんて、絶対に嫌っ! お願い、戻ってきて!)

 でも身体が動かない。声も出ない。

 そしてバタンという音だけを残してドアが閉まると、部屋からは一切の音が消えた。


 怖かった。恐ろしかった。万理のいない生活を考えただけで、気も遠くなるほどの寂寥感に襲われた。これから何回、万理のいない一人寝の夜を越えなければならないのだろう? そう思っただけで、寒々しくて身体の震えが止まらない。歯の根が合わず、奥歯がガチガチと鳴る。蘭子は自分の身体を抱き締めるようにして、その場にしゃがみ込んだ。立っていることが出来なかった。

 蘭子の目には、見えたはずのない万理の後姿が浮かび上がっていた。玄関ドアの向こうに彼女が出ると、ドアがゆっくりと閉まってゆく。それがスローモーションのように再現されている。その狭間に見えた彼女は、蘭子の知らない何処かへ向かって既に歩き始めていた。

 もう一度、彼女の華奢な身体を抱き締めたい。自分より背の高い万理の肩に顔を埋め、彼女の匂いを嗅ぎたい。でも、それはもう叶わない。拾ってきた仔猫のようにこの部屋に居付いた万理は、再び手の届かぬ何処かへと行ってしまったのだ。

 そして蘭子は、キッチンに座り込んだまま大声で泣き出した。

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