第二章:従姉妹
1
背後からの凄まじいプッシュに、三人はタジタジだった。容赦なく押しまくる蘭子のドラミングがバンド全体を鼓舞し、気の抜けた演奏を許さなかった。つい最近までの実の入らない演奏ではなく、バンドを結成した当初の熱い音。それを取り戻したDIRTY NOBLEは、本来の姿となって復活を遂げていた。
健志も充も、そして興毅もドラムに食われないよう、自ずとハイテンションな演奏を続ける。ステージ上で目配せする彼らは、この数日間の間に蘭子の中で何かが変わったことを確信していた。
はち切れそうな思いをドラムにぶつける蘭子。攻撃的。そんな形容がピッタリだ。だが全ては、失ったものの大きさに狼狽える自分を誤魔化すためだった。ぽっかりと開いた心の深淵を覗き込み、その底知れぬ闇の深さに怯える自分の姿を頭の中から追い出すためだった。万理を失った、その辛さから逃れるためだった。
だが、スティックを振り下ろせば下ろすほど、何かが込み上げて泣きそうになってしまう。このライブハウスの片隅で、いつも自分の姿を見守ってくれていた万理の視線が感じられない。今はただの無として確かにそこに在るものが、彼女という存在の欠如を意地悪に主張して止まない。この自分自身の中から湧き上がる何かを振り払う為に、蘭子はより一層激しくドラムを打つのだった。
大盛況のうちに終わったライブ明け、四人は久し振りに飲んでいた。健志と充は、今夜の演奏の質の高さにご満悦のようで、いつにも増して饒舌だ。
「いやぁ、良かったね。今日のライブ」
注文したビールが届く前に、充が話し出す。健志もおしぼりを手に取ることも忘れて、それに応えた。
「そう。こんなの久々じゃないか? あそこまで自分を追い込んで演奏したのって、記憶に無いくらいだよ」
「ってか、蘭子。どうしちゃったの? あんなにアグレッシブな叩き方、今まで無かったよね」
「そうなんだよ! 俺、蘭子に食われないように、必死でベース弾いてたんだから。あれじゃぁ俺の身体がいくつ有っても足らねぇよ」
そう話しながらも、二人は蘭子から何らかの回答を期待しているわけではないようだった。それだけ自分らの演奏に酔いしれていたのだ。ミュージシャンとして、階段を一つ上がったような高揚感に包まれていたのだ。
そんな二人を見て蘭子は、興毅に目配せをする。すると興毅は「まだ話してないんだ」という言葉を、僅かに首を振ることで伝えてきた。蘭子は小さく頷いて「了解」と返す。
「じゃぁ、カンパーーィ!」
「DIRTY NOBLEの復活を祝して!」
「カンパーイ!」
遅ればせながら届いたジョッキがぶつかる音が響いた。
今は何もかも忘れて楽しもう。蘭子はそう思ってビールを煽った。自分の心が負った傷も、いつしか癒える時が来るに違いない。でも、その傷跡が消えて無くなるまでの間、ただウジウジとして過ごすのなんて、考えただけでゾッとする。だったら楽しもう。自分の将来に対する、攻略不能と思えた難題も、万理を失ったことでリセットされたのだ。されてしまったのだ。今、自分は何にも縛られることなく、自由な選択肢が与えられているのだ。
「かんぱーーーーい!」
ということは、自分にとって万理という存在は、ただの重荷でしかなかったのか? 四肢の自由を奪う、手枷足枷でしかなかったということなのか? そこまで考えて、蘭子は心の中でコツンと自分の頭を打った。そういうことを考えて過ごすのは止めようって、たった今思ったばかりじゃないか。いかん、いかん。今日くらいはバンドの皆と楽しもう。それ以外に、今の自分にできることなど無いのだから。
「健志っ! アンタ、Psycho Gran Paの転調んとこ、間違えたでしょっ!?」いきなり蘭子が健志を指さした。
「えぇっ! 気付いてた!? おっかしいなぁ、上手く誤魔化せたはずだったんだけどなぁ・・・」健志はインチキを見破られた子供のように頭を掻く。
「甘いわっ! 私の耳を欺けると思ったら大間違いだよ! あんたらの音は全部聴いてるんだからね!」
腕組みをして上から目線で言い放つ蘭子に、充が乗っかった。
「へへぇーっ! さすが蘭子姐さん! あっしにゃぁ敵いませんや・・・ ってか姐さん。転調ってなんでやんすか?」
「赤バイエルどまりじゃ、知るわけないよな」興毅が突っ込むと、健志の馬鹿笑いが店に充満した。
「ぐははははーーーーっ!」
居酒屋の前で2対2に別れることになった。ビールから始まり、酎ハイ、ハイボールに日本酒。しまいにはワインまで出てきて、足元が怪しくなってきているのも構わず、健志と充はもう一軒行くと言う。バンドの方向性を議論するのだと息巻いているが、あの分だと次の店に入った途端、テーブルに突っ伏して眠ってしまう公算が高いだろう。仮に話し合いが持たれたとして、そんなヘベレケでいったいどんな意思決定ができるのか、はなはだ怪しいものである。
一方、興毅と蘭子は帰宅組だ。次の店に向かって歩き始めた健志と充の背中に向かって声を掛けた。
「アンラら、飲み過ぎるんりゃないりょ」と蘭子が言う。
お前にゃ言われたくないという程の、ろれつの回らなさだ。興毅は「わはははーっ!」と、ちょっとしたこどで大笑い。これも酔っ払いの特徴である。
駅に向かってコツコツという二人分の足音が響いていた。でもそれは、街が奏でる賑やかな騒音に覆いつくされて、直ぐに消えてしまう。すれ違う酔っ払ったサラリーマンたちも、次の店を決めかねて立ち話に興じる学生たちも、二人の姿など目に入らぬようで、そこここにできた人だかりを避けるようにして、蘭子と興毅は坂を下ってゆく。居酒屋の暖房でかいた汗が、夜の街の冷気にさらされて心地良かった。
興毅が歩きながら言った。
「今日の蘭子、なんだか吹っ切れたみたいにイケてたね。何か心境の変化でも有ったのかな?」
彼としては、バンド活動の継続に否定的だった蘭子が、考えを改めてしまったのではないかと心配しての質問だ。あの気合の入った音を聴けば、そう思うのは仕方がないだろう。
「別にそういうわけじゃないよ。ただ自分の愚かさが歯痒くて、その鬱憤をぶつけてた的な?」
「そうなんだ・・・ 自分の愚かさねぇ・・・」
道路脇の植え込みに顔を突っ込んで吐いている学生風の男を避けるように、二人は歩道の片側に寄って進む。その背中をさすっている女子大生風の女が、「チッ」と舌鳴らしをしたのが聞こえた。
「昼間、学食で見せた写真、どうだった? 真っ白な雪に覆い尽くされた広大な牧場。素敵じゃなかった?」
そう。その話を避けて通ることは出来ないのだ。興毅のその気持ちを推し量り、蘭子は彼の求める答えをストレートに口にする。それが最低限の礼儀というものだろう。
「興毅・・・ ごめん。私、多分・・・ 北海道には行かないと思う。興毅のこと嫌いなわけじゃないし、東京を離れられない明確な理由が有るわけでもないよ」蘭子の頭には、一瞬だけ万理の姿が浮かび上がったが、彼女は直ぐにそれを打ち消した。「健志たちみたいに、音楽の道を目指すってわけでもない。でも、なんか逃げ出すみたいで・・・ じゃぁ逃げずに何をするんだって聞かれても、ちゃんと答えられないんだけどね」
蘭子の心の中では、万理の言葉が蘇っていた。
『そんなの、ただの負け犬じゃないっ! 蘭子らしくないよ! そんなの、蘭子じゃないよ!』
「そっか・・・」予期していた答えだとは言え、興毅は落胆の色を隠さなかった。「そうだよね。いきなりだったもんね・・・ でも卒業までにはまだ時間が有るし、もし気が変わったらいつでも言って。一度断ったから言い難いなんて思わずにさ」
耳に残る万理の声を振り払い、蘭子は言う。
「うん。誘ってくれて有難う」
「それに卒業後に気が変わってくれも大丈夫だから」
「何それ? お誘いに有効期限は無いってこと?」
「そうだよ。当り前じゃん。俺は卒業したら直ぐに北海道に戻っちゃうけど、蘭子が遅れて来てくれても、全然大丈夫だから。俺、ずっと待ってるから」
思わず足を止めた蘭子は、背の高い興毅の顔を見上げた。彼は照れたように居心地の悪そうな顔をしていたが、突然、蘭子の身体を抱き締めたのだった。
虚を突かれて一瞬だけ身体を硬直させた蘭子であったが、直ぐに力を抜いてその抱擁を受け入れる。興毅はそれを承諾の意思表示と捉え、そのままの姿勢で彼女をガードレール脇の銀杏の樹に押し付けた。そして長い口づけを交わす。二人の横を「ヒューヒュー」などと囃し立てながら通り過ぎる下卑た酔っ払いの声が聞こえたが、二人は無心に唇を重ねた。
蘭子は背中に回された腕の力強さに驚きを覚え、男に抱き締められるってこういうことだったんだと、高校時代のファーストキスの味を思い出すのだった。あの時は、同じ吹奏楽部の先輩に憧れて、誰も居なくなった音楽室でこっそりと交わした口づけだった。
大学に入って直ぐにできた彼氏は、上原という大学院生だった。しかし、その一年後に訪れた彼の就職に伴い、二人の仲は自然消滅的に潰えた。蘭子にセックスを教えたのは上原だったが、それ以降、蘭子が男に抱かれたことは一度も無い。別に上原を忘れることが出来なかったとか、男との性交渉がそぐわなかったとか、快感を得られなかったというわけではなかったが、ただ何となく蘭子は、それ以降、男を求めなくなっていったのだった。
そして万理との出会い。
唇を離した興毅は、何も言わなかった。ただ蘭子を抱きしめる腕の力を抜くことは考えていないようだ。その太い腕に抱かれたままの蘭子は、少し照れ隠しのようなつもりでこう言った。
「興毅って、こんなに背が高かったっけ?」
興毅はクスリと笑い、腕の力を抜いた。
「それは蘭子が小さいからだよ。161あるってのは嘘だろ?」
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