アパートに帰ると、万理がベッドに何かを広げて、それを品定めするような様子で見降ろしていた。玄関に入って来た蘭子を認めた万理が、いきなりそれを指差しながら言う。

 「あっ、お帰り。ねぇ、これどう? 良くない?」

 スニーカーを脱ぎ、部屋に上がって来た蘭子は、テーブルの上に教科書やらを放り投げてから万理に歩み寄った。そして彼女と肩を並べる。

 「えぇっ・・・ とぉ・・・」

 ワイドストレッチの真新しい白のデニムジャケットであった。どう見ても万理のテイストではない。それは蘭子の為に購入されたものであることは明白だった。それも普段着としてではないだろう。蘭子は恐る恐るといった風情で聞き返す。

 「これ、私の?」

 はち切れそうな笑顔を向ける万理。

 「ねっ、いいでしょ? ほら、蘭子っていっつも、ストーンズのTシャツでステージ上がってるじゃん? しかもヨレヨレの。そりゃぁ、それがカッコいいとは私も思ってるんだけど、もう少しさ、ちゃんとした格好で演奏してもいいかなって思ってたんだ。あっ、もちろんドラム叩き出したら邪魔っけだから、そん時は脱いでもいいんだけど。どう?」

 キラキラとした表情で万理は続ける。

 「これ着てステージに上がってきてさ、ドラムセットの前に座る時に脱いで、その辺に引っ掛けておくの。そんで演奏が終わったら、それを肩にかけてステージからハケルって、なんかカッコよくない? ステージ衣装って訳じゃないけど、これから先、だんだん寒くなってくるからさ。どうせならそういうのがイイかなって。ほら、蘭子のパーカーとかダウンジャケットじゃ、ちょっとステージで着る感じじゃないでしょ?」

 万理はジャケットを取り上げると、それを開いて蘭子に向けた。

 「ねっ、着てみて」

 仕方なくパーカーを脱いで、万理に背中を向けてジャケットに袖を通した蘭子は、気恥ずかしげな様子で振り返る。それを一歩下がって見た万理は、満足げな様子で破顔した。

 「ピッタリ! すっごくイイよ、蘭子! やっぱ私の思った通り。前々から思ってたんだ、私。蘭子はもう少しお洒落に気ぃ使った方がイイって。ファッションとかに無頓着な感じが、逆にクールでイケてるのは判ってるんだけど、元々すっごい美人さんなんだから勿体ないって。

 あっ、でも、他の女子が蘭子に目ぇ付けるのだけは、なんとかして阻止しなきゃだわ。私以外の女の子が寄ってきたら、シッシッって追っ払ってよね。浮気なんかしたら許さないんだけら」

 「あ・・・ ありがとう、万理・・・ でも、よくそんな金、有ったね?」


 そんなことはどうでもいい。自分が今、万理に話さなきゃいけないのは、そんな話ではないのだ。でも・・・。


 「うん。蘭子から貰ってる生活費を節約して、少しずつ貯めてたんだ。その分、ご飯のおかずが少なくなって、申し訳ないとは思ってたんだけど・・・ どう? 気に入ってくれた?」

 「う、うん。すっごく気に入った。ありがとう」

 まるで我が子の晴れ姿でも見るかのように、万理は満足げに微笑んだ。

 「でも・・・」

 躊躇いがちに続けた蘭子の言葉に、突然、万理の顔から笑顔が消え「えっ?」という表情を張り付けた。

 「でもって言うか、万理に話しておかなきゃいけないことが有るんだ・・・ 私、そろそろ音楽から、足洗おうかと思ってるんだ」


 部屋の空気が凜と沈んでいた。アパートの前を通り過ぎたスクーターの音が、徐々に遠ざかってゆく。事態を飲み込めない万理が、まごつきながら聞き返す。

 「えっ? 何? どういうこと?」

 「どういうことって言われても・・・ ほら、いつまでも親の仕送りで学生やってられるわけじゃないじゃん? そろそろ卒業後のことも考えなきゃならない時期だし」

 今にも泣きだしそうな顔をする万理に、蘭子は思わず早口になって、思っていなかったことまでまくしたてる。だが逆に、そういった時に口からほとばしり出る感情こそが、自分の本心なのかもしれなかった。

 「そ、それにさ。私、言うほど才能有る訳じゃないんだよね。知らなかった? そりゃ女子のドラマーとしては、それなりのテクニックを持ってる自信は有るんだけどさ、でもそれって結局、アマチュアレベルでの話なんだよね。

 でもプロのミュージシャンって、そうじゃないんだ。私なんかより、何倍も何十倍も上手い奴なんかアマチュアでさえゴロゴロいるし、その中からプロとしてやっていけるのは、ごく一握り。しかもプロには更にその上が有って、自分の音楽世界を創ってゆける程の、センスとか創造力とかが備わっていて初めて一流と言えるんだ。スタジオミュージシャンだって、与えられた譜面通りに弾けばいいってもんじゃない。意図した世界観を壊さず、なおかつより良い音を創り上げることが出来てこそ、仕事だって舞い込んでくる。

 そう考えた時に、果たして自分はどれ程のものなんだろうって、自分のミュージシャンとしての才能とか資質とかを客観視してみると、私にはせいぜい街のライブハウスとか学園祭で友達相手に演奏するのが関の山。それに気づいた時に、私、かえって清々しちゃったよ。ハハハ・・・」

 蘭子は寂し気に笑った。

 「私にはこれより上の景色を見る資格は無いんだって悟ったら、肩の力が抜けたって言うかさ、目くじら立てていきり立ってた自分が馬鹿みたいだって思えたんだ」

 「なんで・・・」万理は視線を落としたまま言った。

 「なんでそんなこと言うの? あんなに一生懸命、音楽やってたのに、なんでそんなこと言うの?」

 「・・・・・・」

 目に涙を浮かべる万理に、返す言葉が見つからない蘭子。顔を上げた万理は、そんな蘭子の両肩を掴んで揺すりながら言った。

 「そんなんじゃなかったでしょ、蘭子って? ドラム叩いている時の蘭子って、輝いてたよ。眩しかったよ。蘭子から飛び散る汗はキラキラとしてて、ダイヤモンドなんかよりずっと綺麗だと思ったよ。ライブの後、興奮して喋る蘭子が好き。私にはよく判らない音楽の話を、熱く語る蘭子が好き。ドラムでかいた汗で濡れた身体のまま、私を抱く蘭子が好き。

 私、音楽のことはよく判らないし、才能とかそういったことも判らない。でも、今より上には行けないなんて、決めつけるのは良くないよ。蘭子に才能が無いなんて私は信じない。私は蘭子のこと、信じてる」

 「無理だよ・・・」今は蘭子が視線を背けていた。

 「無理じゃないよ。どうして無理だなんて言うの? 頑張れば出来ないことなんて無いよ」

 「無理なものは無理なんだよっ!」

 急に声を荒げた蘭子は、万理の腕を振り払った。

 「万理には音楽のことは判らないじゃん! それなのに、どうして無理じゃないなんて言えるわけ? 勝手なこと言わないで!」

 「そ、それは・・・」

 「努力すれば必ず報われるような甘い世界じゃないんだってば! そりゃぁ一生懸命やってきたわよ。頑張って頑張って、それでも手の届かないものってのは有るんだよ。勉強すればみんなが東大に合格できるわけじゃないでしょ? それと同じだよ。

 自分に才能が無いことを認めるのが、どんなに辛いことか判る? 私がどんな思いで、それを飲み下したか判る? 楽器を弾かない万理には判るわけないよ! 一番辛いのは、他でもない私なんだからね!」

 これまでにも何度か喧嘩したことは有った。それでも今日ほど、蘭子が感情を露わにしたことは無かった。彼女の逆鱗に触れてしまったことで、万理は悔しそうに唇を噛んで俯いた。

 それを見た蘭子は、つい辛辣な言葉を投げつけてしまったことをおもんみて、声を和らげたのだった。

 「万理がさ、私の才能を高く買ってくれているのは嬉しいよ。それに勇気を貰ったことだって、一度や二度じゃない。本当に感謝してる。でもね、自分の限界を知ることも大切なんだよ。無責任に夢だけを追って生きていられるわけじゃないんだ」

 「それが・・・ それが蘭子の言う『責任ある生き方』なの?」

 「そうだよ」蘭子は万理の後頭部に手を回し入れ、そしてゆっくりと抱き寄せるようにして言った。「だからさ、これからもずっと・・・」

 しかし今度は、万理がその手を振り払う。

 「そんなの、ただの負け犬じゃないっ! 蘭子らしくないよ! そんなの、蘭子じゃないよ!」

 そう言って万理はローテブルの向こうに背を向けて座った。その背中には、腑抜けた蘭子に対する怒りが満ちていた。

 それを見た蘭子は、直ぐに万理の背後で立ち膝になると、その背中を包み込むように後ろから抱き締めた。

 「万理・・・」

 そして彼女の右肩から顔を覗かせ、そのまま万理の顔をこちらに向かせると優しく唇を重ねた。

 「嫌っ!」

 しかし万理は一瞬の後に、その口づけを拒んだのだった。

 それは初めての出来事だった。万理が蘭子の求めを拒絶したことなど、これまで一度たりとも無かったのに。そんな万理の態度にカッとなった蘭子は、乱暴に彼女を床に押し倒すと、その上に重なった。そして彼女のブラウスを引き千切って胸をはだけさせ、その谷間に顔を埋める。パチパチと音を立てて床に飛び散ったボタンは、クルクルと回りだして直ぐに大人しくなった。

 「嫌っ! やめてっ!」

 しかし万理の抵抗は止むことが無かった。だが、その言葉が、その態度がむしろ蘭子の暴力性に薪をくべていたのだった。蘭子は万理のブラジャーを上にたくし上げ、露わとなった彼女の乳房を右手で掴み、そして乳首を口に含む。その間に左手は、万理の履く丈の短いキルトスカートの中に侵入し、ローライズのショーツに手を掛けた。そして無理矢理、それを太腿の辺りまで下した時に、耳慣れない音が蘭子の鼓膜を揺らし、彼女の身体を硬直させたのだった。


 万理が泣いていた。


 その押し殺すような泣き声は、法廷で被告を追い詰める検事の持ち出した証拠物件の如く、自分が万理にしている酷い仕打ちの全容を蘭子に突きつけた。思わず我に返った蘭子は恐る恐る身体を起こし、たった今、自分自身が虐げていた万理を見下ろした。

 万理は顔を左に背けたまま、唇を噛みながら嗚咽を漏らしていた。彼女がしゃくりあげる度に、蘭子の乱暴な手が蹂躙した赤い痕を浮かび上がらせた乳房が僅かに揺れていた。

 息を飲む蘭子。自分はなんてことをしてしまったのだ? なんてことをしようとしていたのだ? これではただのレイプじゃないか。卑劣な男が力任せに非力な女を犯すのと、何が違うと言うのだ? 女同士だからといって許される行為ではない。

 どうしたら良いのか判らず、恐々と手を伸ばす蘭子。その手が触れた瞬間、万理の身体はビクリと痙攣した。

 驚いて一旦は手をひっこめた蘭子であったが、なおも彼女の腰に手を添えようとする。

 「ま・・・ 万理・・・ ごめん・・・」

 そして蘭子の手が届いた途端、万理は破れたブラウスを抱え込むようにして丸くなって横を向き、声を上げて泣き始めたのだった。

 「蘭子の馬鹿っ!」

 言葉を失ったまま見下ろす蘭子の前で、仔猫のように小さくなった万理の涙が止まることは無かった。

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