ベッドの上で身体を起こしていると、入り口のドアがノックされた。葵は静かに「はい」と応える。

 ドアから姿を現した久美子を見て、葵は顔をほころばせた。

 「お母さん」

 「ごめんなさい。ちょっと人と逢ってて」

 「ううん」

 すまなそうに詫びる母に、葵は首を振った。


 葵はいまだに、自分が病院に居る理由が解からなかった。別に体に異常は感じないし、痛い所も無い。ただ、長い長い夢を見ていたような気がするだけだ。母に聞いてもあまり詳しい話はしてくれず、主治医の山崎先生も「もう少し落ち着いたらね」と言うだけ。かといって退院させてくれるわけでもなく、早く学校に行って友達と一緒に勉強したいのにという思いを押し殺し、葵は久美子の言いつけ通り、大人しく入院しているのだった。

 「暇つぶしの本、買ってきてくれた?」

 「えぇ、買って来たわよ。でも貴方の年頃に合う本が解からなくて、適当に買ってきたから」

 そう言って数冊の雑誌やら文庫本の入った紙袋を掲げて見せた。

 「やったーーっ!」

 子供のように両手を上げ大袈裟に喜んでみせた葵は、久美子の後ろに控えるもう一人の人影に気付いて、はしゃいだ顔を途端に仕舞い込んだ。


 (誰だろう?)


 久美子に続いて病室に入ってきたのは、よく知らない人だった。ベージュ色のブレザーにストライプのネクタイ。スラックスはグレーを基調としたチェック柄で、胸には錦糸であつらえたエンブレムが光っている。それは葵も知っている、市内のとある高校の制服だ。それに身を包んだ男子高校生。恥ずかしがり屋の葵にとっては、話しかけることも出来ないほどのお兄さんである。

 その彼は優しそうな笑顔で葵の前に立った。

 「こんにちは、葵ちゃん」

 葵は訳が分からず、母の顔を見た。でも久美子は、黙って微笑むだけだ。

 「こ、こんにちは・・・」葵はシドロモドロと挨拶を返す。

 彼は入り口の横に有った丸椅子を持ってくると、ベッドの横に置いた。そしてそれに腰かけて、また葵に微笑んだ。その笑顔に引き込まれるように見つめ返す葵の表情に、微かな驚きが浮かび上がる。

 「えっ・・・?」

 その驚きは、直ぐに動揺へと変わった。

 「えっ? み、水野君・・・ だよね? 隣のクラスの? ど、どうしてここに?」

 葵は困った風に、もう一度、久美子の顔を見た。またしても久美子は、ニコリと笑うだけ。葵はどうしたら良いのか判らず、顔を赤らめてモジモジする。

 そりゃそうだ。葵は ──葵の脳は── あの交通事故から三年間、ずっと脳死状態だったのだから。彼女の時間は中二の春で止まっている。つまり葵はまだ、小学校を出て一年ほどの少女なのだ。

 どう言ったものか、対応に困る陽太を見て、久美子が助け舟を出した。

 「水野君、貴方のことを心配して、お見舞いに来てくれていたのよ。ずっと」

 「ずっと? で、でも・・・ 本当に水野君なの? なんか、急に大人っぽくなって・・・ 高校の制服とか着て、お兄さんみたい・・・」

 陽太は可笑しそうに笑った。

 「ハハハ。だって俺、もう高二だから。てか、君ももう直ぐ十八歳なんだよ。葵ちゃん」

 「えっ? そんなはず無いよ。私、まだ中二なんだから。水野君もそうなんでしょ?」

 陽太は優しく、ただし力強く葵の手を握った。葵の頬が赤く染まる。

 「本当なんだ。君、よく市立図書館に行ってたよね? 自転車に乗って」

 「えっ、私のこと知ってたの?」

 「当り前さ。閲覧室で勉強してたの、ずっと気になってたんだよ。どうやって話しかけようかって」

 葵は益々顔を赤らめ、陽太はクスリと笑う。

 「でもある日、君はひどい交通事故に遭ったんだ。市立図書館の前でね」

 「交通事故?」

 「そう。それからずっと眠り続けてたんだよ。三年間も」

 「えっ? 三年・・・?」

 「その間に俺は、こんなお兄さんになっちゃったって訳さ。ハハハハ」

 陽太の言葉の意味を理解し切れず、事の重大さも飲み込めず、葵は久美子の顔を見た。

 「本当なのよ」久美子は優しく頷いた。

 「さ、三年間も・・・?」

 呆然とする少女の手を、陽太は更にギュゥっと握った。両手で包み込んだその感触が、彼女の奥底にも届きますようにと願いを込めて。

 「でも大丈夫。必ず元に戻れるよ。君は一人じゃない」

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